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岩手県盛岡市安倍館町。安倍館妙徳稲荷神社及び貞任宗任神社。厨川八幡宮の南方。北上川沿い。
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厨川城跡(安倍館遺跡)です。厨川城跡南館に鎮座。
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行き方は二通りあります。
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上記までの写真が社殿横に出る通りです。これより下は社殿正面に出る表参道と思われる道の写真になります。スタートはこの「安倍館妙徳稲荷神社」標柱。
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厨川城跡の記事でも紹介しましたが、最初は車も通れる普通の道ですが、
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6.5
途中からはこのような道なので車は無理です。
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7.2
7.4
7.8
社殿正面、忠魂碑の脇に出ます。
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忠魂碑。
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安正書。
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安倍館妙徳稲荷神社一之鳥居。
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二之鳥居。
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三之鳥居。
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手水舎。
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社殿。
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創建につきましては、合戦にて翻弄されて亡くなった貞任の姫の悲話が残されており、後世の人々がその冥福を祈るために当社を建立したと伝えますが、伝説の域は出てません。
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隣にあるのが貞任宗任神社。
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鳥居神額。鳥居は昭和44年10月建之(建主:斉藤たねよ、石工谷藤真造)。
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当社は故斉藤たねよ氏(明治29年生、西磐井郡涌津村)が堂の前(下牢:現在の北夕顔瀬町。下牢は安倍氏の時代に下牢という牢が置かれた場所※上牢は上堂で平成4年に掘立柱建物跡が発見されています)に住んでいた頃、安倍貞任宗任のみならず、前九年合戦やその他多くの戦で非業の死を遂げた人々を敵味方の区別なく弔うために、昭和になって自宅の庭先に創建し、数年後に理由は不明なれど現在の安倍館稲荷神社隣に遷座された社であると伝わっています。
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斉藤たねよ氏の名は一之鳥居に刻まれていました。
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石灯籠一対。
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手水石。
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石灯籠と五重塔。
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安倍貞任について(Wikipediaより一部抜粋)…安倍氏の棟梁で、奥六郡を支配する俘囚長・安倍頼時の第2子(次男)。厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。永承6年(1051年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守・藤原登任との争いに端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年の役において、東北各地に善戦する。登任の後任として源頼義が翌永承7年(1052年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜4年(1056年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜5年(1057年)、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた。同年11月には河崎柵に拠って黄海の戦いで国府軍に大勝した。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平5年(1062年)7月、国府側に清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵・衣川柵・鳥海柵が次々と落とされ、9月17日には厨川の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年44、もしくは34。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた。なお、弟の宗任は投降し、同7年3月に伊予国に配流され、さらに治暦3年(1067年)太宰府に移された。背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『陸奥話記』による記述)。衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる。『今昔物語』には、安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」(北海道)に船で渡り河の上流を30日余り遡った当たりで「湖国の人」の軍勢に遭遇した、と伝えられている。
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安倍宗任について(Wikipediaより一部抜粋)…平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。政治家の安倍晋三は、安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしている。【前九年の役】奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降伏し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)【配流】四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。 なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府に流されたという説とがある。工藤雅樹は、伊予から筑前に移された理由を「頼義が背後におり、奥六郡の支配権を清原氏から取り戻そうとしていたため、朝廷がそれを防ごうとした」と推察している。
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安倍館妙徳稲荷神社社殿と貞任宗任神社の間にある小さな鳥居と社。恐らく稲荷社。
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