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岩手県盛岡市安倍館町。厨川柵跡(厨川城跡・栗谷川城跡)。
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安倍館町の隣の住所は前九年。いずれも住所だけで歴史を感じますね。
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なお、別記事にしておりますが、厨川八幡宮及び安倍館稲荷神社の鎮座地も厨川城跡内になりますので、よろしかったらそちらもご覧ください。
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厨川柵は前九年の役で滅亡した安倍一族最期の拠点。安倍氏の勢力圏では最北端であり、城主は安倍頼時亡き後に総大将となった次男貞任。南の衣川館と共に安倍氏の二大拠点でした。康平5年(1062)9月に源氏・清原氏の連合軍に包囲された厨川柵は激戦の末に落城。貞任や重任は捕らえられて処刑、宗任、家任、則任らは降伏、頼時の娘婿の藤原経清(清衡の父)はわざと切れない刀で首を打たれ苦しみながら亡くなり、安倍一族は滅亡したといいます。『陸奥話記』では「城中男女数千人」とあり、かなり大きな城であったことが伺えます。安倍氏滅亡後、奥六郡は出羽の清原氏の支配下におかれましたが、その間厨川柵がどのように利用されていたのかは不明となっています。
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厨川についてです。栗谷(屋)川とも書きました。北上川の中流域、東流して北上川に合流する雫石川の北岸に位置。岩手山南麓のなだらかな滝沢台地南東端と、雫石川の河岸段丘及び沖積地に立地。台地の縁辺に大館町遺跡など多くの縄文遺跡があり、東縁には安倍館跡があります。厨川は雫石川の古名と伝え、近世にも雫石川を栗谷川と称した例があります。前九年の役では安倍氏が「厨川柵」に拠り、当地が最後の決戦場となりました。安倍貞任は厨川次郎と称したとも伝えます。鎌倉期の厨川は岩手郡のうち。「吾妻鏡」文治5年9月12日条に「於岩手郡厨河、点此所坤角傔仗次之波気、被定御館」とあり、厨川に至った源頼朝は厨川の南西の「傔仗次之波気」を宿所として逗留7日に及びました。厨川柵ゆかりのこの地は、中世においても要衝の地位を失うことがありませんでした。岩手郡地頭となった工藤小次郎行光とその子孫らも厨川を拠点とし、郡内の統治にあたったものとみられています。厨川工藤氏の名が生ずる所以。工藤行光は伊豆国の御家人。工藤庄司景光の長男。南北朝期の興国2年、南部などの宮方勢は「栗屋川」での合戦で足利方の「部抜」(稗貫)などを打ち破り、岩手・斯波両郡を制圧。当地の戦略上の地位が知られます。その頃、工藤行光11代の孫、小次郎光家は南部伊与守信長に敗れて、岩手郡の地頭職を没収され、厨川10ヶ村を領知するのみとなったと伝えます。この伝えの当否はともかくとして、南北朝・室町期を通じて南部氏と結んだ不来方(こずかた、盛岡)の福士氏の勢力伸長が著しく、厨川工藤氏の勢力が減退したことは事実。厨川兵部少輔は天文年中に南部家に服属、旧領のうち800石を安堵されました。厨川城は北上川右岸の段丘を濠で区画した館。安倍館ともいいます。天正20年南部領諸城破却令により廃城。「諸城破却書上」には「厨川 平城破 工藤兵部少輔持分」とあります。
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江戸期以降の栗屋川村は岩手郡のうち。盛岡藩領。厨川通に属します。村高は正保郷村帳451石余(田364石余・畑87石余)、貞享高辻帳530石余、天保郷帳1,728石余、安政高辻帳1,386石余。天正年間以後、当村が上厨川村と下厨川村とに分村したといわれ、邦内郷村志・本枝村付並位付・旧高旧領等には上下2ヶ村に分かれて記されています。盛岡藩領内では江戸中期からは上下2ヶ村として把握されていましたが、幕府に対しては栗屋川村一村として届けられていたと推定。また、土淵村も幕府に対しては当村の内とされていたと考えられます。寛文8年の奥州栗谷川古城図には、一村として村高1,518石余、家数155・人数1,290、馬484、牛2が見えます。中央を南流する諸葛川が周辺の水田に水を供しました。村の南西部は水田卓越地帯となっており、北西部には原野が広がっていました。明治22年以降、厨川村ははじめ南岩手郡、明治30年からは岩手郡所属。下厨川・上厨川・土淵・平賀新田の4ヶ村が合併し成立。旧村名を継承した4大字を編成。役場を下厨川に置きました。明治22年の面積1,357町余、戸数816・人口4,177。同23年に下厨川字平戸第45地割に日本鉄道(国鉄東北本線)盛岡駅が開業して発展の機会を得ました。同年に盛岡駅と盛岡市街を繋ぐ開運橋が架橋されましたが、市内に通じるには夕顔瀬橋が多用され、同26年に駅前から夕顔瀬橋までの道路を改修。日本鉄道が青森まで全通した明治24年頃から駅と開運橋との間に商店街が形成され、旅館・旅人宿・運送店・居酒屋のほか郵便局・銀行が建ちました。同43年、駅前通りに電灯がつきました。明治41年に下厨川字赤袰前に工兵第8大隊約500人が転営し、同年に当村北西部の原野で特別演習を実施。この時演習地は当時の皇太子(大正天皇)によって観武ケ原と命名されました。また、翌年には隣接する字鉄砲道に騎兵第三旅団が創設され、大正7年には陸軍の輸送を主目的に厨川駅が下厨川字茨島頭に開業。この間大正2年に下厨川のうち木伏・平戸・片原・下田・三十軒・中川原・三ツ家・館坂・馬頭・長畑・小屋塚頭・狐森・権現坂・宿田・宿田後・境田川原・寺ノ下・畑中など盛岡駅周辺と陸羽街道(旧函館街道、国道4号)沿いが盛岡市下厨川となります。これに伴って厨川尋常高等小学校も同市に移管され、村内には土淵尋常小学校だけとなりました。人口は、明治44年男3,261・女3,166、大正5年男1,761・女1,713、民有地は田399町余・畑287町余・宅地41町余・山林26町余・原野115町余・官有地30町。同9年の人口は男3,470・女1,773で、人口密集地を盛岡市に編入したものの男の人口増があったのは国鉄盛岡工場職員の居住との関連が考えられます。狐森に岩手県監獄署があります。昭和10年、騎兵第三旅団はチャムスに移駐。昭和15年1月1日盛岡市の一部となり村制時の4大字は同市の大字に継承。なお、大字下厨川は盛岡市域の下厨川を編入。昭和47年からは厨川。なお、安倍館町は昭和41年からの町名であり、元は盛岡市館坂・下厨川の各一部。町名の由来はもちろん前九年の役の古跡安倍館(厨川館)によります。同館跡は安倍氏12柵のうち嫗戸の柵に擬定され、中世は厨川工藤氏の居館でした。北上川の西岸にあり、盛岡市街の北西部に位置。館址に遊園地・保育園などもあります。中高層住宅を中心とする第二種住居専用地域に指定。
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厨川柵…『平安期に見える城柵名。岩手郡のうち。前九年の役には、安倍氏が最後に拠った城として見えるが、それからおよそ130年して、文治奥州合戦に、北走する藤原泰衡を追って源頼朝は厨川柵まで進出、ここに7日間滞在して、ここから軍をかえしていることからすると、平泉時代にも厨川柵は存続した。ただし、安倍氏時代の厨川柵と平泉時代のそれとが、位置・性格などにおいて、全く同じであったかどうかについてはかなり問題がある。「陸奥話記」によれば、厨川柵は、厨川・嫗戸(おばと)の2柵より成り立っていた。「件の柵、西北は大沢、二面は河を阻つ。河の岸三丈有余、壁立途なし。その内に柵を築きて、自ら固し。柵の上に楼櫓を構き、鋭卒(精鋭)之に居る。河と柵との間、また隍を掘る。隍の底に、倒に刃を地上に立て、鉄を蒔く。また遠き者は、弩を発して之を射、近き者は石を投げて之を打つ。いよいよ柵の下に到れば、沸湯を建てて之に沃ぎ、利刃を振いて之を殺す」城の様子とたたかいの模様は、そう描写されている。尋常のたたかいを以てしては、これに勝つことはできぬ。攻撃軍の大将源頼義は、付近の民家をこわし、その資材をみな濠に投げ入れ、山と積ませ、対岸からこれに火をはなった。折からの暴風で猛火はたちまち城中に燃え移り、ついに厨川柵も陥落、安倍氏はここに全滅した。厨川柵の位置は、これまで盛岡市安倍館町に比定されてきた。その位置は、東が北上川に面し、西は奥州街道(国道4号)に西辺を削られ、その間に、土塁・空濠の跡を残している。しかし、「陸奥話記」には「二面は河を阻つ」とあって、安倍館のように、東面だけ川というのは、この要件に合わないことが問題になっていた。北上川と雫石川の合流点近く、雫石川左岸には大館と呼ばれる遺跡があり、現在は国鉄盛岡駅構内拡張工事のため消滅してしまったが、これが「二面河を阻つ」地形に合うところから、これを厨川柵にあてて考えるようになった。そして「相去ること七八町許」とされる嫗戸柵というのは、この大館の東側にある里館遺跡にあてて考えるのが一般的になっている。それなら下厨川の安倍館はどうなるだろうか。この館跡は、きわめて計画的にできていて、方形に近い形をとることから、安倍氏関係の館よりも新しく、中世館になる以前、二次的に厨川柵として整備されたものという可能性が強い。頼朝が7日間滞在した厨川柵というのは、この安倍館のことではなかったかと思われる。』・厨川柵(昭和55年11月盛岡市教育委員会・天昌寺)…『陸奥の豪族安倍氏は、平安時代の後期になると、衣川柵を中心に北上川沿岸や、その他重要な場所に城柵を設け、最北端の拠点である「厨川柵」には、宗嫡の貞任を配した。天喜4年(1056)、前九年の役が起ったが、安倍氏の勢力が強く、国司軍(源頼義軍)は、平定することができず、出羽の豪族清原氏の来援によって、安倍氏軍は、次第に退き、この「厨川柵」に全勢力を挙げて、最後の決戦を行なったが、敗れて滅亡した。康平5年(1062)秋のことである。厨川柵とは、安倍館、権現坂、天昌寺台地を抱えた広大な地域とされ、昭和32年にこの台地の一部を発掘調査をした時には、隍跡、土器、鉄片、古銭(宋銭)等が発掘された。文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原氏討伐の軍を起し、自ら七軍を率いて、平泉を攻めおとし、厨川柵まで進駐し、一週間程滞在をした。この戦功によって、伊豆の工藤小次郎行光に、岩手郡を給した。工藤氏は、安倍館に居館を構え、南北朝期、室町期を経て、南下した南部氏の勢力に臣従して、栗谷川を称した。天正20年(1592)安倍館は、豊臣秀吉の命によって破却された。寺伝によれば、天昌寺は、工藤氏の庇護を受け、栗谷川光成の時代に曹洞宗となり山号を岩鷲山と号した。天昌寺の観世音菩薩は、この工藤氏代々の持仏で、明治年間に納められたと伝えられている。』
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案内板「安倍館遺跡(厨川柵跡・厨川城跡)」…『康平5(1062)年北上盆地の覇者安倍氏が滅亡した厨川柵跡と伝えられる。安倍貞任をはじめ一族の勇戦の哀史は今も多くの言伝えとして残っている。一方発掘調査では、この遺跡が中世工藤氏の居城厨川城跡と確認されている。厨川城は文治5(1189)年源頼朝の御家人工藤行光が地頭に任じられて以来、天正20(1592)年の廃城に至るまでの400年間、岩手郡を治める拠点であった。今も残る深い堀は工藤氏時代のもので、図のように7区画に分かたれ、中心部は本丸と呼ばれている。この遺跡は、往時の面影を残し、盛岡の中世を語る数少ない重要な遺跡である。』
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「厨川柵古跡」の石柱。
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「紀元二千五百五十二年」
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徒歩であればここから安倍館妙徳稲荷神社及び貞任宗任神社へ行けます。行けますというか参道です。
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こういう道なので車は無理です。
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忠魂碑の横に出ます。
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以下、Wikipedia「厨川城」より一部抜粋。
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厨川城は、現在の岩手県盛岡市安倍館町にあたる陸奥国岩手郡厨川村字館にあった日本の城である。別名・栗谷川城。遺跡(埋蔵文化財包蔵地)名では「安倍館遺跡」と呼ばれる。平泉滅亡から盛岡開府までのおよそ400年間、盛岡地域の行政拠点となった城館である。【別名】栗谷川城、安倍館遺跡【城郭構造】平城【天守構造】なし【築城主】工藤行光?【築城年】1189年(文治5年)頃?【主な城主】工藤氏(栗谷川氏)【廃城年】1592年(天正20年)【遺構】曲輪、堀【概要】厨川城の前身は、鎌倉幕府の御家人・奥州工藤氏(厨川工藤氏)の居館「厨川館」である。工藤行光は、1189年(文治5年)の奥州合戦の際に源頼朝に従い、岩手郡の33郷を与えられたとされるが、その領地は後世に岩手郡厨川周辺のみとなり、工藤氏の一派は「栗谷川氏」を名乗った。現在、当城跡に比定されている「安倍館遺跡」は、北東側が北上川に面した切り立った崖となっており、自然の外堀としている。現在も往時の曲輪平坦面と、それらを隔てる堀切跡が残されている。盛岡市と厨川村との合併まで、この地は「岩手郡厨川村字館」と呼ばれていたが、後に「盛岡市安倍館町」となった。これは現在の安倍館遺跡(厨川城跡)が、平安時代中期の11世紀半ばに起きた前九年の役で、源頼義の軍に攻められ滅亡した豪族・安倍氏の居館(厨川柵または嫗戸柵)跡だと言い伝えられてきたためである。「安倍館」と呼ばれる場所は岩手県内各所に存在するが、安倍館遺跡では、安倍氏時代にあたる11世紀代の遺構は発見されておらず、この地が安倍氏の居館であったという確証を得るには至っていない。同地内には「安倍館跡」と刻まれた石碑があり、「厨川柵」の一部、または安倍氏の城柵「嫗戸柵」であるという見方もあるが、現在のところ伝承に基づく疑定に留まっている。これまでの発掘調査の成果では、安倍館遺跡は出土遺物の様相から16世紀代に造営された城郭であり、安倍氏ではなく、工藤氏が築城した厨川城であると目されている。また、厨川城築城以前からの工藤氏の居館「厨川館」については、出土遺物の様相から安倍館遺跡の南西に位置する「里館遺跡」である可能性が高まっている。また、安倍氏時代の厨川柵・嫗戸柵所在地に関しては、盛岡市教育委員会による厨川地域における2018年(平成30年)までの発掘調査成果では、同市西青山3丁目の境橋遺跡、大館町・稲荷町にまたがる稲荷町遺跡や大新町遺跡・大館町遺跡・小屋塚遺跡、前九年1丁目の宿田遺跡、上堂4丁目の上堂頭遺跡などから、安倍氏時代にあたる10世紀末-11世紀中頃の土師器などの遺物や、竪穴建物・掘立柱建物などの遺構が検出されている。また西青山1丁目の赤袰遺跡では、同時期の鍛冶遺構や土師器生産遺構などが見つかっていることから、盛岡市教育委員会は、上記諸遺跡の分布範囲内に厨川柵・嫗戸柵が存在したことはほぼ確実であろうとしている。
【歴史・沿革】
《平安時代》
・康平5年(1062年) - 前九年の役で源頼義・源義家および清原武則が厨川柵・嫗戸柵を攻め、安倍氏を倒す。以後、出羽清原氏が厨川を統治する。
・後三年の役で出羽清原氏が内紛状態となり、安倍氏の血を引く清原清衡が藤原姓に復す(奥州藤原氏)。
・藤原清衡が都市平泉を開き、岩手郡を含む奥六郡を掌握する。
・文治5年(1189年) - 奥州合戦で源頼朝が平泉を滅亡させ、さらに厨川柵跡を目指して北進。前九年合戦の先例にならい、厨川柵跡で、源頼朝が父祖に当たる源頼義の故事を再現する。この時、伊豆国の工藤氏に岩手郡を与え、工藤氏は厨川柵跡に「厨川館」を定めたとされる。厨川館の地は、発掘調査により現在の天昌寺台地周辺の「里館遺跡」である可能性が高いとされているが、11世紀代の厨川柵まで遡る遺構や遺物は確認されていない。
《鎌倉時代》
鎌倉幕府の成立に伴い、その一拠点となる。承久年間には、厨川は北条得宗領となる。
《室町時代》
・厨川城築城(盛岡市安倍館町)
・南館 東西91m×南北51m
・中館 東西95m×南北47m
・本丸 東西115m×南北87m
・北館 東西118m×南北20m
・外館 東西111m×南北75m
・勾当館
《安土桃山時代》
厨川館跡には前九年合戦の物故者等の菩提を弔う場が設けられていたが、荒廃が進んでいたため、江戸時代初期、栗谷川八兵衛(藤原)光成が、天正寺(のちの天昌寺)として再興する。
《近現代》
・明治維新以後、栗谷川氏は、鎌倉時代から伝わる内秘仏「伝木造聖観世音菩薩立像」(盛岡市指定有形文化財)を天昌寺へ奉納。
・盛岡市は厨川村との合併の際、厨川城跡である安倍館遺跡を公園として整備することを協定に結んでいる。
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