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岩手県盛岡市三本柳7地割。ふれあいランド岩手の北方、北上川の西方。一之鳥居紀年銘「平成16年8月吉日講中一同」
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二之鳥居。
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額束神額「奉納三代子神社」(昭和55年旧2月25日、吉田嘉太郎、吉田栄松)
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三本柳についてです。北上川右岸の平坦地に位置。江戸期の三本柳村は紫波郡のうち。盛岡藩領。見前通に属します。村高は延宝5年検地名寄帳では517石余(田354石余・畑163石余)で他に高橋四郎左衛門新田1石余、邦内郷村志669石余(うち給地40石余)、旧高旧領807石余。新田1石余は鹿妻穴堰用水路の拡大延長によって成立した野芋新田とみられます。仮名付帳では見前村の枝村として見えます。邦内郷村志では家数60で、集落別内訳は明戸20・羽場11・野中8。本枝村付並位付によりますと位付は上の上、家数64、集落別内訳は百目木9・権現堂7・幅村14・三本柳11・野中2・明戸14・笹森6・仏田1。天明8年の幕府巡見使の通行に際して作成された返答書留帳では東部に大沼が見え、藩主への献上鳥を捕獲するための鳥溜の沼と記され、旧北上川の河床にできた淀が沼に変わったものであるといいます。嘉永6年の当地の農家の万覚書帳によりますと、盛岡城下の武士・商人55人から1ヶ年6駄の下肥を汲み餅米を支払っています。この下肥を野菜畑にも利用して芋の子・金瓜・唐芋・百合根・胡瓜・ササゲ・ズイキ等の野菜を売って収益を得ており、盛岡城下近郊農村としての特色がみられます。文政4年の御領分産物書上帳によりますと、百合根が江戸へ移されたとあります。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西12町・南北13町、税地は田82町余・畑80町余・宅地31町余など計205町余、戸数122・人口783(男406・女377)、馬114、人力車1、社1(平野神社)。職業別戸数は農業118・工業2・雑業1・神官1、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・小豆・粟・稗・黍・蕎麦・大角豆・蘿菔・胡瓜・甜瓜・南瓜・茄子・蕃椒・百合根・胡蘿菔・午房・薯蕷・蒜、地味は赤・黒色土で均質ではありませんが北西部は肥壌にして上位に属し、北上川沿岸は時々水害に遭ったといいます。林は21か所、原野は34か所。字竹原にある下川原野は東西3町・南北1町で秣草場に供しています。野中渡しと称される私設の渡船場が字野中にあり、渡船大小2艘で手代森村に通じます。明治22年見前村の大字。昭和30年都南村、平成4年から盛岡市の大字。明治22年の戸数121・人口804。当地の大沼・畑沼は第二次大戦前まで残っており、魚釣り・子供の水泳場などで親しまれていたそうです。また養魚場としても利用され、漁舟などの設備もあって生産をあげていましたが、戦時中2つの沼はともに食糧増産のために埋め立てられてしまい現在は跡形もありません。明治27年の引続官地拝借願によりますと、以前から大沼を水魚作として使用していたことや、官地沼反別9反9畝15歩とかなり広い面積であったことがうかがわれます。同43年大豪雨のため北上川の堤防が破れ、東見前・三本柳の被害が甚大で床上浸水139戸を舟12艘で救助に当たりました。大正4年養蚕が盛んとなり、大沼に稚蚕共同飼育場が作られました。大正5年、字大沼に見前郵便局開設。昭和22年カスリーン台風で北上川が増水し笹森地区が孤立。同37年徳田橋開通により渡船場は廃止されましたが三本柳船場は同48年頃まで続きました。伝統芸能として伝わる三本柳さんさ踊りは、南部藩主36代利敬の奨励もあって踊りの基本が形作られ、三本柳踊連中によって近郷に広められたといわれます。近年急激に宅地化が進みました。
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三代子社及御本尊の由来…『見前通り三本柳村権現堂に鎮座する三代子社御姿権現様と薬師瑠璃光如来様阿弥陀如来様大慈大悲観世音様を奉載し、地域の産土神として宝暦10年頃(西暦1760年)第118代後桃園天皇時代に別堂善九郎に依り守り継がれて現在に至って居ります。尚、権現様は昔、現在の境内地に古い木の根株の上に置かれ三尺四面の鞘堂に安置されて居た様ですが、時の信仰する方々が旧飯岡村上飯岡に現存する飯岡観音(千手観音)様の社の建替え時、其の古い材料を貰い受けて建てられたのが旧社です(平成11年7月13日解体済)。旧社は昔の事ですのでカヤぶき屋根でしたが、昭和14年(西暦1939年)に此の屋根をトタンに改造して60有余年絶えず地域の信仰と繁栄、無病息災を祈り續け人々の厚い信仰を受けて参りました。此の間、地域の発展に伴い人口が急増する中で祭事を執行仕ろうにも社殿が狭く老朽化も甚しく成りました。此の様な現状を踏まえ発展し續ける此の地の産土神として相応しい社殿を改営したらと考え検討を重ねて参りました時に元号が改まり平成の世に生ある我々一同、先人の苦労を思う時、是非共社殿の新築をし、地域の歴史と文化を共に後世に引継ぐ責任を痛感し新築を致した次第です(平成11年8月27日完成)。尚、石彿は寛政12年(西暦1800年)の作です。そして120代、仁孝天皇の時代、今から200年前の石彿です。石彿には三尊の名が刻まれて居ります。此の石彿は明治以前神彿混仰の時代から明治維新の改革により神彿混仰の分離令に依り分離のやむなきに至ったのでございます。従って此の石彿は川の上流から押し流されてきたのか、又、誰かが北上川の深みに捨てたのではないかと思われます。なぜならば、或る日地域の方で大変魚取りの好き方が居りまして其の人が北上川に行って魚取りの引網をした所どうしても網が引けなくて、川の中に潜って見た所、此の石彿が網にかかって居たそうです。従って別の方法で丘に引揚げ家に持帰り良く洗って見ました所、有難い彿様でしたので、家の床の間に安置して大切に保存して拝んで居りました所、地域住民に知れ亘り、そんな彿様であるならば是非私達住民にも拝ませて欲しいとの事で、現在の御社に安置されて居る様です。権現様とは、仏法では弥勒菩薩の化身とも言われ、又、古事記に登場する「少那彦之命」の権化とも言われて居ります。広く萬人の幸を願い續けて下さる権現様です。薬師瑠璃光如来様とは、万病を癒し寿命を延ばし衣食を満たして下さる薬師如来様です。阿弥陀如来様とは、すべての人々に極楽往生を約束して下さる阿弥陀如来様です。大慈大悲観世音様とは、無限に変身して一切の衆生を救って下さる観世音様です。平成13年3月』
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参道。
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手水石。
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社号標「三代子社」(昭和52年旧7月25日吉田春正建之)
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社殿。
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社殿の横に井戸。
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社殿前の石。
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薬師如来の信仰に関連するものっぽいですね。
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「權現堂」(平成11年8月27日)
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「三代子社」
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「三代子社」(奉納吉田春正)
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拝殿内。
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