
秋田県能代市河戸川新屋布。三頭沼の南方、安宗寺の北方。
社号標「村社熊野神社」(昭和6年4月建設、大塚政一郎)

鳥居奉納碑(維持昭和6年舊3月建焉、産土講中、祈家運長久、大塚平治・大塚喜代司・大塚兵七・大塚勝太郎・佐藤善治郎・佐藤與三郎・大塚與助・伊藤東助)

碑文。

二之鳥居。

河戸川はかつて川戸河とも記し(秋田風土記・享保郡邑記)、米代川下流左岸、三頭・赤両沼の中間に位置。河戸川村は戦国期から見える村名で出羽国檜山郡のうち。天正19年正月吉日、豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に、浅内村と併記して「川とかわ村」とあるのが初見となります。高は2ヶ村で370石余。八郎潟岸をめぐり北上する街道が集落を縦断して能代港に達します。熊野社は修験で、別当は近世大頭職を勤めたといいますが古縁起は不明。村域は集落の南側に広く浅内と隣接。
江戸期以降の河戸川村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。高は正保国絵図で本田当高168石余、享保黒印高帳で村高472石余・当高337石余(うち本田84・本田並46・新田207)、寛政村附帳で当高241石余(うち蔵分3・給分238)、秋田風土記で高338石余、天保郷帳で337石余。家数及び枝郷は、家数53軒(うち枝郷小野沢15)、寛政期枝郷は小野沢、文化期家数68軒(枝郷小野沢を含む)。各村落の初立をみると小野沢は延宝3年に始まります。生業は漁猟。明治22年山本郡浅内村の大字となります。昭和30年からは能代市の大字。
境内のイチョウが綺麗でした。


石灯籠一対(弘化3丙午年3月吉日)
手水石。

石灯籠一対。


狛犬一対(大塚清一)


大塚政市郎。台座碑文…『大塚政市郎大人。明治25年5月25日河戸川に生れ長じて能代町に住し木材業を営みその業績顕著にして業界に資する所又甚だ大である。生來敬神の念篤く生地河戸川繁栄に意を盡し特に昭和40年熊野神社社殿新築に際し一切の資材を寄進更に神社基金を献納する等人の難くする所を坦々として奉仕するは世に稀なる所業というべきである。中年政界に進出し能代町会議員同市議会議員を經て昭和16年9月秋田縣議会議員となり五期に亘り縣政に貢献その間38年5月より2ヶ年議会議長を勤めたるは特筆すべき事績である。昭和41年12月浅野宮司記之』


大塚甚十郎之像。
標柱「大塚甚十郎(1753~1804)砂防林の功労碑」(平成10年12月建立)より…『能代市河戸川の人。砂防林と開田事業を四代にわたって尽くした。歴代備米三百石を藩庁に献上し、天明の大飢饉の際に、自家の土蔵を開いて、米、味噌、を施し、村民の窮乏を救った。昔は、陸路よりも、水運が発達して、悪土川が米代川に通ずる能代行き水路を「甚十郎渡し」と称し開発している。後、村民熊野神社境内に石像を安置する。』

台座碑文「大塚甚十郎氏石像背銘」…『此霊像也姓源名甚十郎諱清好大塚五世之苗裔也 宝暦癸酉三月生及長後邑司文化丁卯冬十月十三日卒年五十五縁遺命為僧形葬千白鶴故号鐵巖道樹庵主也 娶後藤氏女生九男二女倜儻矍鑠発田圃新増直米三百余斗 国君賞之以佩刀及封五十石嫡男夭而清封継業次為邑長受先考之者遺志益力之成功矣 被挙士任之以開田之事於是名誉聞邦内益先考之余烈也屏家六年文化壬申十月四日依病卒年三十四並葬先考之墳諡興儀院道孤清好之八男則清封之弟也 使石工造清 好之霊像則並誌清封之事以永存其盛徳也 于時文政二己卯年仲冬十三日清昭謹識之 昭和七年八月二十九日 河戸川部落一同感恩慕徳設立、氏名石像高■際除幕式 白鶴山倫勝寺二十九世 空哉 顕量敬書 平成十四年八月二十日 河戸川熊野神社氏子一同改修建立』

境内神社。

稲荷神社かと思います。

このようなもの(大塚甚十郎氏石像背銘)もありました。上記台座碑文に同じです。


庚申塔(文政4年巳3月9日、川戸河長太郎)

不明の石。

美しい三頭木。

境内神社。

石碑がありますがよく見えず。

境内神社。

こちらも石碑がありますがよく見えず。ちなみに神社庁によりますと境内神社として「太平山社、金平社、唐松社、稲荷神社」があります。

天照皇大神、少彦名命、倉稲魂命、埴安姫命と刻む碑。



千手観音。

こちらは不明。


狛犬一対。
石灯籠一対。


狛犬一対(安政5年3月吉日)
記念撮影。


御祭神は伊弉諾尊、速玉男命、事解男命。

例祭4月28日。特殊神事として湯立神事(4月27日)があります。

神社庁より…『当神社の沿革には焼失の歴史もあることから不明な点が多いが、古老らの口伝えでは、その昔現在の能代南中学校近くにあったといわれる。その後、今から170年ほど前に現在地に移転したらしいということが、御神体を安置する台座に記された文字から推測されている。浅野家に伝わる家系図によると、寛文3年仁井田村真山神主浅野掃部の二男が修験僧となり河戸川に引き移り、村社熊野神社、無格社相染神社、同じく磯前神社に奉仕したことを伝えている。当神社の隆盛は菅江真澄(江戸時代)の紀行文の中で紹介されている。当時当神社の別当観嶺山大塚寺尊英(6代目)と真澄は懇意の間柄で、しばしば彼はここで旅装を解いている。この神仏混淆時代の河戸川地区には開墾の苦労話が多い。その開墾に尽力したことで知られるのが大塚甚十郎清好。氏は天明の大飢饉の際に自分の土蔵を開いて村民の窮乏を救ったのである。境内にはこの頌徳を称えた座像がある。また、これと対座する形で元県会議長大塚政市郎の胸像がある。氏は昭和40年神社改築の折資材などを寄付し篤い信仰を寄せた。』


拝殿向拝神額。

拝殿内。

石殿一基。何かはわからず。

狛犬が浮き彫りされていました。

石殿一基。こちらも不明。

御神木。

こちらは何かの神像かな…

判断できず。

庚申塔(天保9年戌9月22日)












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