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秋田県能代市二ツ井町飛根富根。
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社号標「村社愛宕神社」(昭和5年7月24日、智田七藏)
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鳥居(昭和7年7月24日智田七蔵・昭和51年7月24日改築、愛宕神社氏子一同)
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飛根(とぶね)は「とびね」又は「とみね」とも呼び、富根・飛年・飛禰とも書きました。米代川下流郡の氾濫原を中心とし、北と南の一部は山林地帯を含みます。町史によりますと、地名の由来には、川を見下ろす神の丘という意味のアイヌ語の「トムビフプ」が転化したという説や、その丘陵の欠け飛ぶことを表すという説などがあるようです。「日本書紀」斉明天皇5年条、阿倍比羅夫北進の際の記事に見える「問(とびう)蝦夷膽鹿島(いかしま)」を当地に比定する説もあります。米代川を南方から見下ろして東西に馬蹄型に延びた館跡も、蝦夷族長トポナの築城した飛根の長城として言い伝えられてきました。
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戦国期の飛根村は出羽国檜山郡のうちで、村名の初見史料は天正19年正月17日豊臣秀吉朱印安堵状写(秋田家文書)。「とひ禰村・にふな村」678石余とあり秋田実季の当知行地。「文禄元年秋田家分限帳写」では、秋田氏家臣大高甚助が当村内275石余を代官所給地に認められ、大高四郎右衛門配下の鉄砲衆5人に当村内の190石分を給付。「慶長6年秋田家分限帳」でも大高甚助の代官所給地216石余と同人配下の鑓衆1人の給分20石、及び同上の鉄砲衆5人分の給地160石と記載。少なくとも当村の認定石高は465石以上であり、檜山城北方の要地として秋田氏の重要拠点であったことが判明しています。飛根の長城の一画を占める堤下・館跡の館跡は中世にも機能していたと推定。米代川氾濫原上の大林の通称屋敷畑地点から、昭和38年に明銭を下限とする渡唐銭1万枚余が発見されています。鎮守愛宕神社は慶長5年の再建と伝えます。
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江戸期以降の飛根村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。藩政施行直後の慶長9年に一里塚、同12年に駅馬が置かれており、羽州街道の宿駅場として駒形村などの周辺寄郷6ヶ村を統轄する親郷となります。慶安~天和年間に米代川沿いの低湿地を中心に急速な新田開発があり、「正保国絵図」の本田当高497石余は天和4年に村高741石余に増加。「享保黒印高帳」では村高838石余・当高704石余(うち本田410・本田並47・新田248)、「寛政村附帳」は当高451石余(うち蔵分381・給分70)と認定。「天保郷帳」では554石余。「享保郡邑記」では狐森・羽立新田の枝郷2ヶ村を擁し122軒(うち枝郷分20)、「秋田風土記」では枝郷烏峠村を加えて150軒の村と記載。茂谷山の南、母体郷林は村有とされ「飛根村掟」によって個人的利用は柴でさえ厳しく規制されました。曹洞宗楞厳山長徳寺(鶴形村海蔵寺末寺)は釈迦牟尼仏が本尊で、寺の過去帳には天保飢饉の際230余名の死者を記載。村鎮守は富根(ぶこん)明神、他に太平山社など4末社を持つ愛宕神社や、神明社・熊野社・白山社、及び修験放光山大蔵院があります。明治6年の戸数215軒。同9年戸長制により羽立村を合併。同13年県内民権運動の草分けである山本庄司が士族・豪農層を糾合して、国会開設運動の政社北羽連合会を組織。同15年秋田改進党の設立に参画。同年県議に初当選し、以後郡会議員、村長を歴任。畜産改良で地元にも大きく貢献しました。明治20年新教育令により飛根尋常小学校が常盤小学校分校から独立。同年鶴形村・駒形村と組合役場を結成。明治22年山本郡富根村の大字となります。昭和30年からは二ツ井町の大字。
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参道。
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手水舎。
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手水石。
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手水舎裏の石塔群。
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末社。何かは不明。
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末社。
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こちらは稲荷宮っぽいです。
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こちらは竹富神社。
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コンクリの建物には「昭和37年7月竣工、上部講中一同」とありました。
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他にも境内には石殿等がたくさん。
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稲荷様っぽいものが多かったです。
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石殿がなんかおしゃれ。
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読み取れない石碑2基。
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敬神崇祖(平成29年7月24日、神奈川県山谷一郎奉納)
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側面に明治天皇御製「めにみえぬ神のこころにかよふこそ人の心のまことなりけれ」
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狛犬一対(大正8年7月、大高長司)
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23.5
石灯籠一対(嘉永元年戊申8月4日・同10月22日、山本氏)
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24.5
境内の御神木(ケヤキやトチノキ等)がすべて立派でございます。
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25.2
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25.8
富根愛宕神社は富根地区の鎮守の神として創建された社で、伝統行事として富根報徳番楽、羽立大神楽が奉納されることで知られています。
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二ツ井町観光協会「富根愛宕神社例大祭」より…『愛宕神社は、昔、少数部落が多かった富根地区の一帯が、相寄り集まって守護する鎮守の神として創立された神社です。7月23日は宵宮で、18時30分から愛宕神社拝殿にて富根報徳番楽の舞が奉納されます。7月24日午前9時、御輿とともに、猿田彦、幟など総勢70名~80名の大行列が神社の前を出発し、町内を回って昼に神社に帰ってきます。神社境内では富根報徳番楽、羽立大神楽等が繰り広げられます。』
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神輿庫。
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御神輿。
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社殿。
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御祭神は加玖土大神、天照皇大御神、天之御中主大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、菊理昆売命、豊受大神、大名持大神、少名彦名大神、広鰭之霊。例祭7月24日。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。社宝として御神木の天然杉を彫刻した高さ1mの加玖土大神像(非公開)があるそうです。
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神社庁より…『創立年代不詳なれど、古老の言い伝えによれば、その昔この地区周辺には10ヶ所の集落があったので「十根」と呼ばれていた。やがてその中の飛根集落に人が多く住むようになったので、地区全体を飛根と呼ぶようになったという。その時、誰ともなくこの里を守護する鎮守の神の必要を唱えるようになり、古老たちが協議した結果、当時の神官(別当)が祀っている氏神をご祭神とした。これが神社の始まりであるといわれている。明治6年村社となり、同43年各地区の神社7社を合祀する。昭和5年神饌幣帛料供進神社に指定され、同32年には県神社庁模範神社に指定される。現在の社殿は昭和3年に改築したものである。同5年の屋根葺替えでは拝殿の棟札が発見され、「安政四年 別当大蔵院凰全智孝代」と書かれていることから、1856年に改築されていることがわかった。例祭には、県指定民俗文化財の「羽立大神楽」「報徳番楽」が奉納され、御神輿と共に町を練り歩く様は盛大である。』
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「愛宕山」(平成丙子吉祥日工藤栁石謹書、大高道秀謹刻、昭和2年誕生者古稀記念)※下に「愛宕山」額寄進者氏名(39名)
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絵馬(昭和14年9月24日、山本郡富根村富根124番地、願主池端多治郎)
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会歌(35周年記念奉納、報徳読書会、昭和50年11月29日)
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池端千江子作(昭和49年12月3日、大潟村入植記念、池端由松)
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大正甲子8月26日。
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昭和53年7月24日、北海道根室市高杉長治郎奉納。
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その他。
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愛宕神社の由来について…『二ツ井町富根地区の中心部に位置する。明治天皇が東北御巡幸(1881年)の折、設けられたといわれる町道に面し、境内はうっそうたるケヤキ、トチノキに覆われている。参道の入口には、村社愛宕神社と刻まれた社標、さらに氏子らによって、建立された一の鳥居が立っている。当神社は、明治九年(1876年)の大火は免れたものの、当時の別当、廣鰭氏の自宅が焼失したこともあり、これといった古文書もなく、その勧請者など正確な由来は不明だ。このため、古老の言い伝いに頼らざるを得ないが、昭和五年(1930年)屋根のふき替えで拝殿の棟札が発見され、当神社の隠れた歴史に光明を与えた。古老の話によると、その昔、この地区"十根"と呼ばれ、仙子森、狐森、大林、小林、下村、清水、飛根、大屋布、下屋布、羽立の十集落があった。その後、利便がよい飛根に人が多く住むようになり、この地区一帯を飛根と呼ぶようになった。この折、地区を守護する、鎮守の必要をだれとなくいうようになり、協議した結果、時の神主(別当)の氏神をもって地区の守護神とした。これが当神社の始まりであると言われている。発見された棟札は、表中央に「奉上棟愛宕神社一宇村中安全」と記され、両脇に「災難消滅」そして「安政四年(1957年)別当大蔵院鳳全智孝」と書かれており、今から百四十年ほど前の1857年に改築されたことが判明。さらに「大蔵院」が示すように神仏混交がうかがわれ、修業宗として栄えたことが偲ばれる。大蔵院については、二ツ井町史で、文政八年(1825年)、渟代寺(現在の能代市柳町の八幡神社)頭襟頭の折、飛根には放光山大蔵院があったことを記している。明治時代になって当神社は、国の統合政策で羽立の白山神社、駒形の神明社、本郷上の神明社、同下の熊野神社など合わせて七社を合祀。昭和五年(1930年)に指定村社となり、例大祭には村から御饌幣帛料を賜わることになったほか昭和三十二年(1957年)には県神社から模範神社に指定されている。神宝は、御神木を彫刻した御神像などがあるが、当神社は県指定民俗文化財に指定されている郷土芸能が例大祭時、奉納されることでも知られている。その一つが羽立大神楽。その昔、羽立地区に至芸に達した芸人がこの土地を訪れ、里人に伝授したのが始まりといわれる。例大祭ではみこしのトップを切って地域を練り歩き、"みそぎ役"を果している。もう一つは、報徳番楽。寛永五年(1625年)頃、北秋田郡阿仁地方の根っ子集落から伝えられたといわれる郷土芸能。とくに大黒舞、えびす舞が広く知られている。境内の末社富根(ふこん)神社については、昔話が伝わる。その昔、放火の疑いをかけられた神主廣鰭氏が、村人に縛り上げられ、米代川に放り込まれた。ところが神主の体は上流に向って約二百メートルも逆のぼって愛宕神社の川辺で姿を消した。その後地域内に悪病が流行、村人は、占師にみてもらったところ、神主への所業が災いであったことが判明。以来、ほこらを建てて祭ったという。これが富根神社というが、当時は、悪病退散の神としてあがめられ、現在でも、毎月講が結ばれている。【祭神】加久土神の神を主祭神の天照皇大神、伊邪那岐大神、宇気母智大神、大名持大神、少彦名神など合わせて十柱を祭る。境内には、末社として富根神社、太平山神社、金泉神社、唐松神社があり、このほか氏子の崇敬による稲荷、相染様などがある。【祭日】例大祭は、旧暦六月二十四日であったが、明治末に新暦の七月二十四日に変更され、現在に至っている。二十三日が宵祭りで、二十四日の本祭りでは、県指定文化財の羽立の大神楽をトップに、駒形獅子踊り、本郷下部の手踊り、本郷上部の報徳番楽に続いてみこしが地域を練り歩く。このほか年中行事は、二月十七日前後に祈年祭、四月二十九日に敬老式、十月二十三日に新嘗祭などがある。【宝物】御神木の天然杉を利用した高さ一メートル前後の加久土神を形どった御神像(非公開)がある。また、戦後間もなく大小合わせて十枚前後を数える神馬などの絵馬を焼却処分したが、池端多治郎氏からの絵馬が現存。さらには、境内のケヤキの抜根を利用したついたてなどを有する。=北羽新報社編「古里の信仰」より=。「古稀祝奉納昭和5年生まれ(生年月日順)福岡常蔵、山谷清幸、工藤チサ、佐藤旦一、高橋肇、池端徳治、山田フミ、佐藤シナ、大高重孝、工藤健一、工藤重美、福岡兼雄、丹波キノ、工藤新五郎、佐藤福太郎、大倉政雄、山谷綾子、米川金男、工藤廣治、佐藤昭治、米川京子、武田鉄夫、米川清治、池端イネ子、山谷吉蔵、山谷昭一、佐藤亘、工藤サツ、山谷キクノ、池端富義、池端イマ、堀内宣有 以上32名」工藤栁石揮毫 池端富義額装』
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幣殿内。
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神社庁によりますと境内神社として、富根神社、太平山神社、金泉神社、唐松神社、徳前神社があります。
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こちらは金泉神社。
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所謂金精神です。不動明王など金精神以外も混ざっていました。
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横にあった石碑。
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こちらは唐松神社です。拝殿前の参道を挟んで金泉神社の向かいに鎮座。
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縁結び、安産、子育て、夫婦円満などの御利益があります。
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こちらは富根神社でしょうか。
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その昔、放火の疑いをかけられた広鰭氏が、村人に縛られて米代川に投げ込まれましたが、広鰭氏は200mほど米代川をのぼり、愛宕神社のある川辺付近で姿を消しました。その後、村で悪病が流行し、占師にみてもらったところ広鰭氏への所業が災いと告げられ、以来鎮魂の祠を建てて祀ったのが富根神社と伝えます。
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境内社。
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石灯籠一対。ギリギリで立ってる感があります。
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53.5
上記の境内神社のどれかなのでしょうが…
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色々あり過ぎて判断できかねます。
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能代の古木・名木「愛宕神社のケヤキ」。本殿裏にあります。
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樹高約35m、目通り幹囲5.1m、推定樹齢400年。 
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標柱(平成31年3月建之、能代市教育委員会)より…『ケヤキは元はツキノキといわれ、本州、四国、九州に産する落葉高木である。この木の樹齢は400年を超えるといわれている。愛宕神社は、明治9年の大火は免れたものの、当時の神主の自宅も焼失し、古文書もなく、由来は不明である。』
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