
北秋田市米内沢伊勢ノ森。米内沢城は倉ノ沢に水源をもつ沢(倉ノ沢出口)を挟む東西の山地を利用した山城で、東側(伊勢ノ森)と、米内沢神社と龍淵寺が鎮座する西側(寺ノ上)に分かれ、東側は古館と呼ばれ、土塁や空堀を遺し、西側には地名に館や首塚を残ています。今回紹介するのは古館で、米内沢神社については別記事にしております。

米内沢城跡は大規模な山城(米内沢神社や龍淵寺の南方の山)でしたが、元和元年6月の一国一城令により破却。

標柱の横に上へ続く小道があったので行ってみました。

特に城跡としての整備はされておらず、写真のような状態で、正直よくわかりませんでした。



あそこに見えるのが米内沢神社(本殿裏)です。

米内沢城主である嘉成氏は鎌倉時代に関東に所領をもっていた坂東平氏葛西氏の子孫と名乗りますが、阿仁部への進出時期は不明。支配地域については明らかで、七日市村の長﨑七左衛門は初代甚助について、米内沢城主嘉成右馬頭に仕え、七日市村を開村したと大事代記に書き残しており、この頃の北秋田地方は戦国時代に比内と阿仁に分かれており、比内の一部である小猿部まで阿仁嘉成氏の支配下にあったことがわかります。また、天正19年、嘉成常陸介康清の代に松橋氏の居城風張城(阿仁吉田)を一夜で落城させ南方にも勢力を拡大。慶長7年5月、佐竹義宣は常陸国から出羽国に移封され、代わりに姓を安東氏から秋田氏に変えた実李は常陸国宍戸に移封となり、嘉成氏は秋田氏に同行。城代である奈良岡監物が米内沢城を佐竹氏の家臣赤坂朝光に明け渡します。翌年8月、総検地に抵抗する地侍や農民2千人が米内沢城を包囲(阿仁一揆)。赤坂は一揆を鎮圧しますが、この時に城が破却されたという説もあります。破却された米内沢城はその形が倉ノ沢の山に残ります。米内沢城は交通の要所にあり、街道や阿仁川を利よすいて戦を繰り返し勢力を拡大しましたが、戦国時代が終わり江戸時代になると、街道や河川は林業や鉱山といった経済活動に利用されました。(※「広報きたあきた」参照)

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