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岩手県紫波郡紫波町東長岡天王。土橋渡船場跡付近であり、すぐ近くの北上川沿いに架かる長徳橋に土橋渡船場の跡の碑があります。
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東長岡についてです。南流する北上川中流左岸、同川に注ぐ天王川流域に位置しており、西隣の西長岡に対応。字天王・上大平・林崎に縄文後期の遺跡が残っており、字林崎からは土師器・須恵器も出土。字館には長岡館跡、字長岡の常光寺門前には永仁3年の板碑があります。
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江戸期の東長岡村は紫波郡のうち、盛岡藩領、長岡通に属します。村高は邦内郷村志564石余(うち給地350石余)、天保8年の御蔵給所惣高書上帳566石余(御蔵高214石余・給所高351石余)、旧高旧領627石余。貞享年間頃に長岡村が当村と西長岡村とに分村して成立したといわれますが、正保郷村帳・貞享高辻帳・元禄郷帳・天保郷帳・安政高辻帳には当村の名は見えず、長岡村一村として記されています。邦内郷村志では家数34(集落別では米一田4・天王2・常川5)。本枝村付並位付によりますと位付は上の上、家数60、集落別内訳は本村19・細工田12・林崎6・大平2・常川18・天王3。幕末期の給人とその高は新渡戸因幡67石余・切田弥次兵衛185石余・佐羽内東左衛門18石余・大槌直治48石余・山口権左衛門3石余・玉山連兵3石余・南部主水39石余・毛馬内典膳2斗余・栃内与兵衛54石余・漆戸官右衛門1石余・奥瀬源助6石余で、他に志和稲荷社11石余。寺院は曹洞宗常光寺・天台宗清浄海(寺)、他に修験大学院・清光院があります。常光寺は文亀3年湖心寿徳によって創立されたと伝え、はじめは西長岡にあったといわれており、延宝4年現在地に移転。大学院は牛頭天王(八坂神社)、清光院は八幡堂・雷神堂の別当でした。牛頭天王社は寛永9年、南部重直黒印状によって別当手作り地27石から上納する年貢のうち15駄が与えられていました。明治元年松代藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同10年の村の幅員は東西約1里9町・南北約10町、税地は田56町余・畑50町余・宅地21町余・荒地3町余・鍬下55町余の計187町余、戸数88・人口460(男246・女214)、馬109。長岡学校の生徒数75(すべて男子)。職業別戸数は農業86、物産は馬・鶏・鶏卵・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・黍・蕎麦・蘿菔・柿・麻布・薪。学校は明治6年吉田玄仙宅を仮校舎に長岡小学校を開校、同8年常光寺庫裏に移転、同年字竹洞に校舎新築。同20年栃内小学校を合併し長岡尋常小学校を設立。同22年長岡村の大字、昭和30年からは紫波町の大字。明治22年の面積296町余、戸数84・人口495。昭和14年の戸数76・人口615。同44年字竹洞に長岡児童館、同56年字細工田に長岡公民館設置。他に紫波町農協長岡支所・岩手中央森林組合南部事業所・長岡中央果樹生産組合等があり、水稲・リンゴ栽培を中心とする農業地域。
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鳥居(八重畑木産株式会社八重畑忠奉納、昭和63年4月吉日)。額束神額は「三宝大荒神社」
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社殿。
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6.5
由緒等についてはわかりませんでした。
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本殿。
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