秋田県能代市柏子所。すぐ近くには相染神社(河戸川相染森)も鎮座しております。
社号標(平成9年9月吉日建立)
参道。
見晴らしがいいです。
社殿の横に着きます。
ちなみに社殿正面にも道があり、こちらが元々の参道のようです。途中まで降りてみましたが、荒れていて下までは行けませんでした。
表参道から見上げた鳥居。
表参道の石段上から見た境内。
石段奉納碑(昭和10年8月吉日、寄進者:相澤卯右エ門、施工協力者:田中小十郎)
鳥居の跡かな。
御神木。
参道。
狐一対。
台座。「能代港町材木町」は読み取れましたが、他は苔によって読み取れず。
石殿一基。
御詠歌碑(作詞:四代目松之助妻マメ、監修:神官佐藤靜夫、平成8年9月吉日七代目大山繁・妻、京建立)
御詠歌。
裏面碑文…『六代大山一郎、八代大山敏幸・美樹、謹書六代目弟大山勝郎』
稲荷の石殿。
こちらはわからず。
柏子所村は戦国期から見える村名で出羽国檜山郡のうち。かつては貸子所とも記し、柏御所の別称で、田村将軍の屯営跡といいます。米代川下流左岸、南部の台地が切れて平地になる所に位置。天正19年正月吉日の豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写には谷地中村と併記して「かしことこ村」とあるのが初見となります。高は2ヶ村で82石余。付近台地に縄文時代の遺跡があることから集落の成立はかなり古いと考えられます。慶長6年の秋田家分限帳では、当村内20石が秋田作兵衛預りの鉄炮衆大内四郎三郎に知行地として分給されています。近世の秋田藩政下では大内田村の枝郷に付せられ、享保郡邑記では戸数9軒。村名は小字柏子所として現存。
秋田県WEB観光案内所HPより…『相染森集落は大間越街道沿いある集落です。特に大きな集落ではないのですが、台地との接点にある為、相染神社や脇沢稲荷神社、庚申塔などが置かれ旧街道の面影が残る空間にも出くわす事が出来ます。又、相染森集落付近には縄文時代の遺跡が多く貝塚からは魚貝類などが多く発見され、地名でも出戸や長崎など海に関連する名前が多くこの付近まで海だった事が考えられます。』
脇廼澤稲荷神社由来碑(平成2年9月吉日、能代市大内田11番地、永代総代六代目大山一郎、七代目大山繁建立)…『今から三百六十余年前慶長年間寅子、淳子、安子の三姉妹の姫があり、水上より寅子姫が脇廼澤に鎮座し、中の淳子姫が赤沼に、末の安子姫は大森にそれぞれ鎮座されたと伝いられて居ります。享和の時代今から百八十年程前、大内田村松兵衛(本家)より、私の初代松之助(大内田別当の家)が分家になる折に、ふもとの八百刈と、脇廼澤稲荷を氏神として譲られ祀られることとなった。四代目松之助が妻マメを同伴して、京都伏見稲荷大神より分祠脇廼澤稲荷神社として信仰し祀ることとなり、その後五代目宇吉郎が、お堂を建て屋内で參拝する様になりました。能代港町より芦田、今野、桜井、相澤卯右エ門の各氏が信仰し參拝に來て居られ、相澤氏は特段の特志をされ、社殿の新増改築をされました。また信者も増えて、諸々の御寄進があり、祭事にあたっては、当大山家並びに相澤氏が中心となり執り行はれて居ましたが、今般信者総意のもと、幣殿、拝殿、長床も新改築され、併せて宗教法人設立と、神社庁包括を設定し、初代会長に中田初雄氏を、現在は会長に能登薫氏宮司佐藤修一氏を選任し、信仰対象として神社運営を図ることとなった。』
社殿前鳥居。
狐一対(昭和9年旧11月吉日、能代港町相澤卯右エ門、能代石工三浦正之助)
手水石。
御祭神は宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神。例祭9月10日。
神社庁より…『慶長年間、秋田城之助実季の城代大高伝右衛門が桧山に居りこの地方を治めていた頃から、赤沼稲荷神社、大森稲荷神社と共に能代地方の三大稲荷として鎮座されたと伝えられている。脇廼沢稲荷神社は幾多の変遷を経ながら、享和の頃大内田村松兵衛より分家になった松之助が特に崇敬を捧げ、5代宇吉郎が社殿を建立した外、能代港町の芦田・今野・桜井・相沢等諸家の篤志によって維持運営がなされてきた。現在、境内地は相沢卯右衛門、大山一郎外7名の連名(9名)となっているが、今般、9名より神社に寄進し、信仰対象としての神社運営を図ることとなった。』
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