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秋田県山本郡藤里町藤琴鳥谷場。
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鬱蒼としていますがこの上まで登ります。
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あれ?少しだけ登ったら…
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建物がもう見えました!
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と思いきや…
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6.5
参道途中の地蔵堂でした。
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建物の脇に道が続いておりました。
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あっ!今度こそ見えました。
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まだまだ道は続きますが。
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到着。
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江戸期以降の藤琴村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。近世村落整備により糠野村の一部を合わせて、慶長8年707石余の村として成立と推定。元和6年から梅津政景の知行地。藤琴川上流に太良銅山があり、更に北限の釣瓶落峠越えに津軽藩領と接しており御境郷に指定され、米代川中・下流北部の寄郷10ヶ村の親郷となります。親郷肝煎を世襲した伊藤吉兵衛家に文書を伝存。白神山地の広大な山林地帯は総じて御留山となり、山拠人も親郷肝煎家が兼帯。元和8年・宝暦5年など大洪水に悩みながらも再開発が継続され、枝郷の市野渡・高石沢・坊中・湯野沢・小比内・寺屋敷・大落・大砂崩・金沢(茶屋)・真砂子・岩橋の11ヶ村はいずれも寛文~元禄年間に成立といいます。「正保国絵図」では本田当高770石、「享保黒印高帳」では村高928石余・当高770石余(うち本田625・本田並2・新田143)、「寛政村附帳」は当高815石余(うち蔵分716・給分99)、「天保郷帳」は770石余。親郷肝煎家文書に宝永5年以後の検地帳があります。村鎮守は富士権現社(明治初年に浅間神社と改称)、曹洞宗義峰山宝昌寺(久保田町鱗勝院末寺)は寛文年間の開基。他に修験白竜山千寿院・義明山安養院や愛宕社など5社が見えます。村鎮守では祭日に駒踊を行います。戸数は「享保郡邑記」で259軒(うち枝郷分108)、文化10年に419軒・2,160人・馬594頭。明治7年開校の藤琴学校は同19年小学校と改称。同22年山本郡藤琴村の大字となります。藤琴・大沢・太良鉱山3ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承し3大字を編成。太良鉱山は明治38年から古河の阿仁鉱業所支山として経営され、大正初年最盛期を迎えましたが大正6年に休山、昭和12年再興後も振わず同33年廃山。藤琴営林署と太良鉱山の盛衰により村勢は大きく変わりました。明治7年藤琴小学校、昭和22年藤琴中学校、同23年県立能代高校藤琴分校が開校。昭和30年に粕毛村と合併して藤里村成立。3大字は藤里村の大字に継承。合併時の世帯・人口980戸・6,225人。同38年藤里町の大字となります。
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12.4
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上記の愛宕社かどうかは確信に至らず、由緒等についてはわかりませんでした。というよりちゃんと調べておりません。
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火伏せの神が祀られているものかと思います。
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石碑。
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読み取れず。
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せっかく登ったので景色を楽しみます。
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いい景色です。
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すぐ近くに宝昌寺が見えました。
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