秋田県山本郡藤里町藤琴藤琴。藤里町役場の隣。
曹洞宗義峰山宝昌寺。御本尊釈迦牟尼仏。
開創は寛永年間(江戸時代初期※嘉永2年の火災により詳細な年月日不明)。
開山還安嶺州大和尚(本寺・鱗勝院四世※現秋田市)、寛文4年遷化。開基山口多治右ヱ門(太良鉱山管理職)、正保3年寂。
涅槃の木「沙羅双樹」…『「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」(「平家物語」の冒頭句で有名)。お釈迦さま(釈尊)はサーラ樹の林で頭を北に向け、右脇を下にして涅槃(大いなる死)の床につかれた。そのとき、沙羅の花は時ならぬのに花が咲き、満開となり、釈尊の体にふりかかり、降りそそぎ、散りそそいだ。時に2月15日夜半、釈尊は多くの弟子、信者のみならず鳥や獣など52類の衆生に慟哭の別れを惜しまれ、静かに偉大なる80年の生涯を閉じ、永遠の涅槃に入られた。お釈迦様の国インドでは「サーラの木」は、古くから災難よけの木、縁起のよい木として造船用材や家具、寝台に利用されている。沙羅双樹は、仏教三大聖樹(悟りの菩提樹、誕生の無憂樹)の一つであり、お釈迦様ゆかりの尊い木として宝昌寺開創350年、位牌壇改造事業の竣工を記念して植樹す。平成8年9月30日義峰山宝昌寺丗世孝道代』
藤琴は米代川支流藤琴川の上流部に位置。流域に沿って縄文前期~後期の遺物が広範囲に分布。地名の由来は坂上田村麻呂伝説を伴う「不二琴」説(浅利安養院日記)やアイヌ語の「フジコタン」「フチコトイ」説などがあります。弘法大師伝説を伴うイチョウの大木(県指定天然記念物、権現の大銀杏)があります。藤琴村は戦国期に見える村名で出羽国檜山郡のうち。史料上の初見は「慶長6年秋田家分限帳」に、秋田実季の家臣大高甚助の代官給地として藤琴村114石とあります。天正18年に豊臣秀吉の実季に与えた朱印安堵状では糠野村の内に含まれると推定。
江戸期以降の藤琴村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。近世村落整備により糠野村の一部を合わせて、慶長8年707石余の村として成立と推定。元和6年から梅津政景の知行地。藤琴川上流に太良銅山があり、更に北限の釣瓶落峠越えに津軽藩領と接しており御境郷に指定され、米代川中・下流北部の寄郷10ヶ村の親郷となります。親郷肝煎を世襲した伊藤吉兵衛家に文書を伝存。白神山地の広大な山林地帯は総じて御留山となり、山拠人も親郷肝煎家が兼帯。元和8年・宝暦5年など大洪水に悩みながらも再開発が継続され、枝郷の市野渡・高石沢・坊中・湯野沢・小比内・寺屋敷・大落・大砂崩・金沢(茶屋)・真砂子・岩橋の11ヶ村はいずれも寛文~元禄年間に成立といいます。「正保国絵図」では本田当高770石、「享保黒印高帳」では村高928石余・当高770石余(うち本田625・本田並2・新田143)、「寛政村附帳」は当高815石余(うち蔵分716・給分99)、「天保郷帳」は770石余。親郷肝煎家文書に宝永5年以後の検地帳があります。村鎮守は富士権現社(明治初年に浅間神社と改称)、曹洞宗義峰山宝昌寺(久保田町鱗勝院末寺)は寛文年間の開基。他に修験白竜山千寿院・義明山安養院や愛宕社など5社が見えます。村鎮守では祭日に駒踊を行います。戸数は「享保郡邑記」で259軒(うち枝郷分108)、文化10年に419軒・2,160人・馬594頭。明治7年開校の藤琴学校は同19年小学校と改称。同22年山本郡藤琴村の大字となります。藤琴・大沢・太良鉱山3ヶ村が合併して成立。大字は旧村名を継承し3大字を編成。太良鉱山は明治38年から古河の阿仁鉱業所支山として経営され、大正初年最盛期を迎えましたが大正6年に休山、昭和12年再興後も振わず同33年廃山。藤琴営林署と太良鉱山の盛衰により村勢は大きく変わりました。明治7年藤琴小学校、昭和22年藤琴中学校、同23年県立能代高校藤琴分校が開校。昭和30年に粕毛村と合併して藤里村成立。3大字は藤里村の大字に継承。合併時の世帯・人口980戸・6,225人。同38年藤里町の大字となります。
六地蔵。
手前に水かけ地蔵。
紅葉がとても綺麗でした。
お釈迦さまお悟りの木「菩提樹」…『お釈迦さまは長い苦行の後、ブッダガヤのピッパラ樹の巨木の下で確固たる決意をもって坐禅の行に入り、12月8日の早朝、明けの明星を見て最高の悟り「菩提」を完成し、覚者・仏陀となる。その時からこの樹は、悟りの木として「菩提樹」、または「成道樹」と言われ、最高の位を持つ木となった。インドでは神聖な樹、智慧の木、緑陰樹として尊ばれ大切にされており、お釈迦様ゆかりの聖樹として植樹す。平成11年10月10日義峰山宝昌寺丗世孝道代』
藤里町戦没者慰霊碑(秋田県知事小畑勇二郎書)
宝昌稲荷大明神。
正一位京伏見宝昌稲荷大明神。
京都・伏見稲荷大社より天保4年に勧請し、当山鎮守、檀家守護神として寺檀共に大切にお祀りいただいている社です。商売繁昌・五穀豊穣・交通安全・家内安全・被災地復興等を祈願する法要、お焚き上げ供養も行います。
正一位京伏見宝昌稲荷大明神の縁起…『このおいなりさんは宝昌寺鎮守「正一位伏見稲荷大明神」(宝昌稲荷)と称し、天保4(1833)年の大飢饉のとき、当時21世住職仏心和尚さまが困窮せる檀信徒や村人を救済し、人心の安寧を計らんがため全国稲荷神社の総本社・京都の伏見稲荷大社より勧請された仏法守護神なり。「伏見のおいなりさん」は、萬幸守護の神として昔も今も庶民信仰の人気第一の神様であり、宝昌寺と檀信徒の守護神としてお宝が昌んになる縁起の良い名の宝昌稲荷の御神徳を尊信し、精進努力する者は左の諸願成就の霊験守護ありと篤く護持伝来せるものなり。「商売繁昌、事業隆昌、家内安全、五穀豊穣、交通安全、開運厄除、身心堅固、無病長寿、諸病平癒、受験合格、学業成就、技能上達、立身出世、良縁成就、家庭円満、安産子授、災難消除、苦悩滅除、萬幸守護、心願成就、諸縁吉祥」御祈祷・お守りのお申込みは「寺務所」へお申し出下さい。縁日は毎月10日、例大祭は毎年6月10日。平成10年6月10日例大祭の辰、義峰山宝昌寺三十世住職新川孝道謹白、宝昌稲荷講講頭佐々木義務・世話人一同』
宝篋印塔
参道。
宝昌寺本堂。
以下、宝昌寺沿革。
享保14年(1729)15世中興・梅嶽香門大和尚の代に現在の本尊・釈迦牟尼仏座像(京都・大仏師〈蔵之丞〉作)を奉安
天保3年(1832)21世・仏心大頂大和尚の代に涅槃図掛軸(京都仏師・奥村重右ヱ門、藤原周平画)を奉安
天保4年(1833)伏見稲荷大社(京都)から当寺鎮守として正一位・伏見稲荷大明神を勧請、宝昌稲荷として奉安※毎年7月に「宝昌稲荷例大祭」開催
嘉永2年(1849)火災により本堂を焼失
大正4年(1915)28世重興・大心活道大和尚の代に現在に伝わる本堂を再建
大正12年(1923)末庵・宝源庵(旧太良村)が鉱山閉鎖に伴い廃寺(本尊及び仁王像、過去帳は当寺に合祀)※毎年8月上旬に墓地の清掃・慰霊供養を実施
昭和33年(1958)29世重興・機岳孝俊大和尚の代に開山堂・位牌堂を建立
昭和48年(1973)30世・泰岳孝道大和尚の代に本堂大改修
昭和62年(1987)庫院・研修道場を新築
平成8年(1996)位牌壇改造
平成16年(2004)31世現住・泰道の代に六地蔵尊建立
平成18年(2006)晋山結制にちなみ境内・参道改修
平成19年(2007)晋山結制にちなみ須彌壇を新調
平成25年(2013)開山・還安嶺州大和尚350回忌奉修
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