青森市栄町。栄町公園の横。浄土宗一光山摂取院阿彌陀寺。御本尊阿弥陀如来。津軽八十八ヶ所霊場第23番札所。

立派な山門。

比較的新しい感じですね。本堂は昭和47年建立。

二十五菩薩像があります。

順不同(観世音菩薩・日照王菩薩・普賢菩薩・獅子吼菩薩・虚空蔵菩薩・金剛蔵菩薩・宝蔵菩薩・山海慧菩薩・薬王菩薩・珠宝王菩薩・華厳王菩薩・無辺身菩薩・定自在菩薩・地蔵菩薩・白象王菩薩・三昧菩薩・龍樹菩薩・月光王菩薩・光明王菩薩・金蔵菩薩・徳蔵菩薩・陀羅尼菩薩・法自在菩薩・薬上菩薩・大勢至菩薩)
栄町ははじめ作道村の一部であり、浪打新町と称され、明治16年に同村から分離して成立。青森平野中央北部、堤川右岸に位置。当町域はもと作道村南部に広がる原野でしたが、明治3年知県事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には作道村にも士族の帰農在宅が行われ、農商の移民も相次ぎました。特に明治5年の火災で焼失した諏訪社が堤橋東畔に再遷座されて、更に同9年天皇御巡幸に際し新道(国道4号)が開通してからは、もとの裏通(浪打新町、後の栄町)が表通となって徐々に町場が形成されたといいます。もとの表通(奥州街道)沿いは茶屋町で、明治初年の国誌によりますと茶屋町の状況を「南北二区に分れ、北の区旧の南部街道(奥州街道)にして市店あり、南は堤川新橋より(中略)新道に至る両側にあり(中略)家合て八十軒」と書き記します。この頃はまだ当町域が茶屋町の南半分として扱われていることがわかります。このため茶屋町を古茶屋町、後の栄町を新茶屋町と称することもありました。明治9年青森市中の道路・橋梁などに等級を設定しましたが、この時作道村通に栄町が見えています(青森市沿革史)。同14年新道の北側に青森寺町正覚寺円蓮社竜弁和尚が浄土宗一光山摂取院阿弥陀寺と称して開基し、同19年正式に寺号を許されています。明治15年には作道村浪打新町の住人は家数120軒余を数え、また商家が多いため作道村から分立し栄町と称することを願い出ており、翌16年に許可されて当町が成立。青森港が発達し博労町が繁華街となると、馬市が茶屋町・栄町へ移りました。秋の馬市には大変な賑わいを見せ、馬市は後の明治34年頃まで続いたといいます。明治22年青森町、同31年からは青森市所属。明治22年の戸数200・人口1,026、反別は畑1町余・宅地5町余・雑種地0、8町余。慶応年間創業の醤油醸造業者があるほか、菓子製造業が大正期~昭和期にかけてみられます。昭和41年町内の一部と造道の一部をもって1~2丁目を起立、残部は同44年花園1~2丁目となりました。


元は作道村(造道村)の一部であり、一帯が野原でしたが弘前藩士族が明治3年頃より移り住み、加えて諏訪神社(元は造道村浪打の地である合浦の稲荷神社隣に鎮座し、その後寛永8年に開港及び航海安全の守護神として堤川の中州(青柳橋下流付近)に移されましたが、明治5年の大火にて御神体以外を焼失し、栄町一丁目の地に再建するも、更に昭和20年の大空襲により再度焼失)が堤町から現在地に移ったことで町の形態が徐々にできていきました。


ということで、内容が少々被るかも知れませんが、江戸期以降の作道村についても少し触れます。江戸期以降の作道村は津軽郡田舎庄のうちで、はじめ下浜館村とも称していました。江戸期には主に作道村と書かれましたが、明治以降は造道村と書くようになりました。弘前藩領。村高は正保高帳13石余、貞享郷村帳8石余、貞享4年検地水帳572石余(田499石余・畑屋敷72石余)、寛保高辻帳8石余、天保郷帳437石余(うち弘前本では天明8年改出新田293石・寛政8年改出新田136石)、旧高旧領714石余。貞享元年の書上絵図によりますと、下浜館村の家数29、うち本村14・枝村15であったといいます。貞享4年検地水帳では作道村と見えており、小字に「磯野・沢田・浪打・橋本」があり、反別は田70町6反余・畑屋敷43町2反余(うち郷蔵屋敷をふくめ屋敷地7反余)、見取場(畑)2反余、開発可能地(田畑)6町8反余、漆木3本・芝野6ヶ所・10町4反余、沼2ヶ所・3反余、河原地6反余、浜地7町9反余、空地4町6反余、永荒地(田畑)7町9反、諏訪社地、稲荷社地がみえます。また、田は上田から下々田、畑は上畑から下々畑まで設定されていました。元禄3年には横内組に属しており村位は下。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳でも村位は下。当村は田畑耕作の他に漁業も営む農漁村でした。堤川を隔てて湊町青森に接し、奥州街道が東西に通っており、後に堤川渡船場に茶屋が並び、江戸後期には茶屋町として分けて把握されることもありました。嘉永3年の松浦武四郎の東奥沿海日誌には「作道村、人家二十軒斗、小商人一、二軒有」とあります。神社は地内浪打に貞享年間創建という稲荷社があります。同社の由緒書によりますと草創年月不詳ですが寛永元年青森開港当時には既に稲荷大明神が建立されていたといいます。稲荷社の地は稲荷林と呼ばれており、側には諏訪林がありました。ここには寛永8年まで諏訪社がありました。同社は青森開港にあたって御廻船の海上安全を祈願するため、開港奉行森山弥七郎の発願で堤川沿いの中洲に移されています。江戸期には青森五社の1つと数えられた諏訪社ですが、後の明治5年の火災にて焼失し、堤橋東畔(現栄町1丁目)に再遷座。明治4年弘前県を経て青森県所属、同11年東津軽郡に属します。明治3年知藩事津軽承昭が10町歩以上の耕地所有者に耕地献田買上を諭し、これをもとに翌4年には士族の帰農在宅が行われ、当村の浪打にも士族の移住が進み、農商の移民も相次ぎました。明治初年の戸数100、うち支村茶屋町80、村況は「南北二区に住し、南を岡造道と云家数三軒、この北一丁を隔てゝ家数十七軒あり、之を単に造道と呼ふ、土地中、田多し、北は海臨み漁網の利あり」といいます。この頃の当村は浜側の造道と南側の岡造道、及び西部の茶屋町(のちの栄町も含む)に分かれ、支村である茶屋町に家数が集中していたことがわかります。明治7年の県管内村名簿でも当村枝村として茶屋町村が見えています。明治9年天皇御巡幸に際し、新道(のちの国道4号)が奥州街道の南側に開通し、もとの裏道が表通りとなり、のち徐々に表通り(浪打新町)へ中心が移っていきます。明治10年頃の陸奥国津軽郡村誌によりますと戸数142・人口768(男389・女379)、職業は「全村農を専らとす、而してその茶屋町に住する者、或は雇夫となり、或は茶店を路傍に開き行旅の休憩に供するあり」といいます。明治10年造道小学が開校、開校時の生徒数男91・女7、教員1。明治12年の共武政表によりますと戸数192・人口1,070(男528・女542)、馬76、人力車3、学校1、物産は米・大根。同13年当村浪打に青森区裁判所の仮庁舎が設置されています。同年もとの奥州街道沿いに残る松並木を中心に水原衛作によって合浦公園が創設され、のち弟姉崎巳十郎に受け継がれて完成。同14年青森寺町正覚寺円蓮社竜弁和尚が浄土宗一光山摂取院阿弥陀寺を開基し、後の同19年に寺号を許されています。新道沿いの浪打新町が発達し、明治16年栄町と改称して当村から分立。なお、それまで栄町は新茶屋町とも呼ばれており、これに対して元の茶屋町が古茶屋町と称することもありました。青森港が発達し博労町が繁華街となると、馬市が茶屋町・栄町へ移りました。秋の馬市には両町が繁昌し、馬市はのち明治34年頃まであったといいます。明治22年造道村の大字となり、字浪打は青森町の大字造道となりました。



明治14年新道の北側に青森寺町正覚寺円蓮社竜弁和尚が、隠居寺として浄土宗一光山摂取院阿弥陀寺と称して開基し、同19年正式に寺号を許されています。

毎年6月23日に開催されている阿弥陀寺の宵宮は、様々な種類の出店が開かれており、毎年多くの参拝者で賑わうそうです。



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