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北秋田市道城上堀。下道城地区。境内のイチョウの巨木が社殿以上に存在感を示しております。
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2.5
道城はかつて道場とも書き、阿仁川の下流域、右岸部自然堤防上に中心集落が発達。北方の大野台台地も含みます。台地上に縄文中期の大野遺跡。地名は外城又は小高い丘という意味の「ドジョ」からの転化といいます。戦国期に見える道場村ははじめ陸奥国管内。秋田氏領となり出羽国秋田郡に所属。天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写に「浦田村・道場村」780石余と記載。中世ではこれが唯一の所見史料です。上記の朱印状写では前後の村々が阿仁地方の村々なので、当村も近世の道城村に継承された村と比定。問題は浦田村と道場村の780石余の内訳で、同上朱印状写に記載された村々を見ると浦田村の周囲の桂瀬・寄延村が銘記され、阿仁川の蛇行する耕地狭少な地点に位置する浦田村は慶長8年頃に多く見積もっても252石程度なので、上記石高のうち当村分は少なく見積もっても528石余。しかし近世初期の村切りで確定された慶長8年頃の当村村高は216石余と推定でき300石余の差が生じます。同朱印状写では西接の上杉村(慶長8年頃に503石余と推定)に継承されたとみられる上杉宮村は僅か39石余とあるので、おそらく天正19年当時の道場村はかなり西寄りに広がる範囲と認定されていたかと推定。風張城主松橋氏の家臣鈴木吉郎右衛門は、天正17年当村に来て修験常福院と称したといいます。江戸期以降の道城村は出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに本田当高168石の村として図示。しかし阿仁川氾濫の被害を度々蒙り、貞享3年に村民の一部は半里北方の大野台台地南縁部に移住し、枝郷田ノ上(上道城)・羽立の両村を形成。「享保黒印高帳」では村高324石余・当高205石余(うち本田144・本田並8・新田53)、「寛政村附帳」は当高232石余(すべて蔵分)と認定。戸数は「享保郡邑記」で63軒(うち枝郷分38)、「秋田風土記」で62軒。村鎮守鹿島社及び修験常福院がありました。村肝煎は秋元一族の森岡氏が世襲的に勤めました。親郷不設置の大阿仁下郷の一村として年行事が郷用を代行。寛延2年藩からの強制杣出割当てに対する反対上願書には、大阿仁下郷を代表して当村肝煎(森岡)杢之助が署判しています。「天保郷帳」は205石余。明治22年北秋田郡大野村の大字。
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イチョウ。樹高約20m、目通り幹囲5.5m、推定樹齢100~199年。
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御神木に挟まれた参道入口。
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社号標「鹿嶋大明神」(昭和20年5月3日、松橋嘉市、當62歳)
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参道。
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狛犬一対(昭和9年5月3日、森岡與助)
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石灯籠一対(安政2夘3月吉日)
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両部鳥居。
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御祭神は武甕槌大神、健御名方神、宇気母知神。例祭5月3日。特殊神事に湯立神事。創立年代は不詳。明治6年村社。明治43年秋田県知事の許可を受け、字榎林諏訪神社、字田ノ上稲荷神社、字小堤稲荷神社、字小堤岱相染神社を合祀。昭和28年長床を新築、同60年幣殿を増築。昭和62年交通安全神社を新築。平成4年大鳥居改修工事終了。平成13年幣殿、拝殿内サッシ戸工事終了。
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拝殿向拝神額「鹿島神社」
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神社庁によりますと境内神社として庚申相染神社、稲荷神社、交通安全神社(5月3日祭事)があります。
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相善神・交通安全神・大山神。
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稲荷社。
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稲荷社。
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青面金剛。
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角塔婆には猿田彦大神とあります。
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周防大明神。
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後ろの不動明王らしき像は腕が欠損しているため判別できず。
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以下は不明。
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