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青森県青森市浪岡大字浪岡林本。行岳八幡宮(浪岡八幡宮)。正称「行岳寃狭大神宮」。
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浪岡八幡宮由緒(昭和31年8月15日社務所)…『【祭神】應神天皇「誉田別命」御一座【創建】桓武天皇延暦年間宇佐太神を勧請し勅願使坂上田村麻呂國家鎮護の為この地に創建す。【由緒】平安時代の始め東夷暴れ坂上田村麻呂征夷大将軍となり之が鎮定にあたる。その時宇佐八幡宮の神霊をこの地に勧請し行岳莵狭太神宮と稱したと傳える。當社の古記によれば清和天皇貞観七年に修覆行われ、室町時代北畠氏浪岡城に入るに及んで崇敬更に厚く修理を加え吉野天皇の御緒太を茲に奉納して當時北畠家主席家老の赤松隼人を詞官たらしめて祭事を重くし天正の頃より津軽氏この地を領するに至って代々の祈願所として崇敬し慶長、寛永、寛文、元録、寶暦、寛政、嘉永等各時代とも藩費を以て宮居を修覆し年々の祭事も惰りなく執り行はした。明治維新には郷社に列し昭和十三年七月十二日縣社に昇格し地方屈指の名社として近郷の尊敬深く昭和二十三年神社法の改革に伴って崇敬者中心となり維持経営して今日に至る。【例祭日】8月15日』
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裏面由緒板寄附者(奉納八幡講)
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社号標「浪岡八幡宮」(昭和10年8月15日建立、山内亮吉)
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社号標「八幡宮」(明治44年8月15日、社司七十三翁阿部文助書之、衆議院議員阿部政太郎建之)
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庚申塔(慶應二年丙寅年七月四日、願主鎌田萬藏、長谷川作之亟、山内九兵衛、對馬専七、武田權七)
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猿田彦の碑。六角柱(高さ70cm、幅38cm、台座も六角柱が二段)が珍しいですね。「天保十四癸卯年九月二十日建之平野氏秀盛」と刻みます。
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御祭神は誉田別尊。延暦12年3月上旬、坂上田村麻呂創建。別当如意山宝妙院(法明院とも。現存せず)。慶長19年津軽信枚再建。旧県社。
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行岳八幡宮、五本松の加茂神社(加茂大明神宮※上賀茂神社を模す)、北中野の廣峰神社(祇園宮)は北畠時代に京の都を模して春日神社(現在廃社)とともに浪岡城を守護するための四社として建立されたと伝えます。伝承では初めに社司をつとめたのは伊勢より出羽国秋田の修験・般若坊を経て、北畠氏に仕えた赤松隼人といいます。赤松氏は北畠家の執政を勤め、神官を兼ねたといいます。赤松隼人には男子がなかったため有馬兵部の子を養子としました。永禄日記の永禄元年の条に「(五月)五日天気よし。(中略)子供八幡之競馬見物ニ出。」とあり、元亀二年には「五月五日八幡宮競馬、早朝ニ見物仕候。」、天正二年には「五月五日競馬見物仕候。落馬二人有之候。二人共ニ怪我不仕候。然共不思議之事ト人々申候」とあり端午の節句の賑やかさと競馬が盛んであったことがわかります。これは京都賀茂神社の神事を取り入れたものと伝え、京都では応仁の乱後に中絶したものを当地で復活させたのだといいます。その後、行岳八幡宮は大破しており、北畠時代のことについては記録に乏しい状態にあります。現存する最も古い棟札によりますと、慶長19年6月上旬に弘前藩二代藩主信枚により造営され(大工藤原新九郎、鍛冶平田道貞吉房)、信枚は寛永6年に、長禄3年に書かれた縁起の痛みがひどいため高野山の覚応法印に修復を頼み、ちょうど当時津軽に配流されていた花山院忠長に書いてもらったとします。寛文6年には四代藩主信政が再営。その後藩政時代を通し、神楽料を藩から頂いたり、寺社方へ訴えて修復をしてもらうなど藩の手厚い庇護を受ける祈願所となっていきました。なぜ厚遇されたのかといいますと、為信の養祖父大浦政信の故事に遡り、政信が宿願あってお忍びで行岳八幡宮へ七夜丑の刻詣でをしましたが、満参の夜、神前より法螺貝を手に入れました。その法螺貝の音は味方の兵には勇気を湧き起こし、敵には臆病風を吹かせるというものでした。その後、為信が津軽統一の陣中にてこの法螺貝を用いるとまさしく霊験あらたかであったという話によるそうです。
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参道舗装池周囲石積工事寄附者芳名碑。
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『創建は延暦12年又は大同2年に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が開創したと伝わります。伝承によりますと田村麻呂が蝦夷討伐で当地まで進軍した際、思いもよらず苦戦し、戦勝祈願と国家安寧の為に宇佐八幡宮(大分県)の神霊を当地に勧請して行岳蒐狭大神宮と称したのが始まりとされます。貞観7年に修築がなされ、室町時代に入ると浪岡城の城主北畠氏から信仰されました。北畠氏は村上源氏の後裔とされ南北時代に南朝に与し、その後当地に下向して浪岡城を築くと京都の町並みに模する為に浪岡城の周囲に祇園神社(北中野広峰神社)、八幡神社(浪岡八幡宮)、加茂神社(五本松加茂神社)、春日神社(廃社)などを配しました。浪岡城は浪岡北畠氏7代目当主とされる北畠具永が大きく拡張したと推定され、加茂神社と広峰神社の両社が具永によって社殿が造営されている由緒を伝えていることから浪岡八幡宮も何らかな庇護を受けていた可能性があると考えられます。浪岡八幡宮は北畠氏の崇敬社と庇護され吉野朝の天皇の御緒太が奉納され主席家老の赤松隼人が祭祀を司りました。天正6年には大浦為信の侵攻により浪岡城が落城、浪岡八幡宮もその兵火と庇護者の没落により衰微したと考えられます。その後、領主になった大浦氏(津軽氏)が再興し、江戸時代に入ると弘前藩の藩主となった津軽家が祈願所として庇護。大浦為信は南部家の一族である久慈氏出身であり、南部家は元々甲斐源氏の後裔だったことから、津軽家は非公式ながら源氏の氏神である八幡神を信仰していたと考えられ、特に浪岡八幡宮、弘前八幡宮、白八幡宮は津軽三代八幡宮と称されて崇敬されました。また、浪岡八幡宮は本城である弘前城から見て北方にあたるため、四神相応の玄武(北方の守護神)に相応する説を唱える人もいるようです。慶長19年に2代藩主信枚が社殿再建、寛永15年には3代藩主信義が社殿再建。以後、元禄、寶暦、寛政、嘉永の改修には藩費によって賄われました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃されると郷社に列し、昭和13年に県社に昇格。』
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狛犬一対(平成30年6月26日寄贈、山中運輸株式会社)
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参道。
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御即位記念敷石之碑(大正4年8月建立)
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手水舎。
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神馬堂。神馬堂前石灯籠一対は嘉永元年8月15日のもので阿部文助ほか工藤權七、平井■■、佐藤茂助、工藤■衛門、竹田三左衛門、■■■衛門、川村■次郎と名を刻みます。
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横にあるこちらは…
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頑張れば読み取れます。頑張りません。
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参道。参道にある石灯籠は寛政13年正月吉日(浪岡邑中甼、茶屋町講中、平井■■■、長谷川作■■、川村大次■、塩崎要■■、平埜■■、平井市三郎、竹田佐右エ門、下山安太郎、神山助三郎、平埜■■)・弘化4年8月15日(平野喜八郎)・安政6己未年8月15日。
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頌徳碑…『波城阿部政太郎翁は郷社八幡宮社司奏任待遇文助翁長男にして安政六年十二月浪岡村に生る少時既に穎脱長ずるに及び氣節高邁にして憂國の念深し明治十二三年の交政論沸騰するや青森縣亦其の渦中に在り急進保守兩々相對峙す翁謂へらく保守急進何れも眞に國家を興隆する所以に非ずと乃ち蹶然起ちて郷黨の靑年を糾合し皇室中心の大義に依り一心社を組織す是れ實に明治十三年十一月翁が齢僅に二十三歳の秋なりき十七年二月青森新聞を發刊し椽大の筆を揮ひて其の主張を宣ぶ二十一年三月自ら進んで郡内同志政社を組織し翌年五月遂に縣下を統一するに至れり爾來今日に至る迄四十有餘年間其の同志は一絲紊れず去就を共にし來れる畢竟翁が幹局徳望の大なるに由らずんばあらず四十一年衆望を負ひて代議士に選ばれ青森築港大湊鐵道敷設等翁の提言に依りて實現せられたるもの多し大正二年地方大凶歉に際するや翁は時の政友會支部長として其の救濟に關し政府との間に斡旋頗る努む大正六年以後選れて青森市長たること二回此の間種々なる難局に處して治績を擧げ畫策計營する處頗る大なり晩年閑地に就くと雖も老來意氣毫も衰へず常に同志と共に縣國の爲に献替する所多し而して其の馴雅なる人格温籍玉の如く遠近其の高風を景慕す抑浪岡の地たる南朝の忠臣北畠氏歴代の古城址にして松籟永へに南風競ふ翁は節義の士にして忠信篤厚一代の人心を維ぐ洵に其の衣鉢を承く歟茲に縣下同志胥議り翁の古稀を壽ぐと共に其の徳風を傳へんとし碑文を予に囑す予翁と政界に交遊すること二十有餘年乃ち其の事歴の一班を叙して碑石に勒すと云爾 昭和三年十一月十日 正五位勲三等 東武撰 本間靜山書』・『(背面)建設者… 長谷川信太郎 長谷川宗一 今井仁右衛門 大阪金助 柿崎守義 外川平八 田中藤三郎 田邊憲一 高杉金作 鳴海文四郎 成田治 竹内和徳 成田哲郎 成田富太郎 鳴海長左衛門 梅村大 山内佐四郎 宇野勇作 山内敏英 前田忠八郎 山内傳三郎 阿部亀之助 秋田喜十郎 藤井達也 菊地武憲 渋谷文男 笹森榮 平山又三郎 平山為之助 樋口喜助 川浪荘之助 幸田健作 須藤兼吉 設計施工者…太田哲之助』
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頌徳碑…『前浪岡八幡宮社司阿部五郎大人は文助翁の五男として明治十三年六月二十七日浪岡村に誕生された 大人は人も知る氣節隆々剛毅清廉の士で神明奉仕者とし最適の人物であった初め浪岡尋常小学校に学び後青森第一中学校に進み更に明治三十一年には陸軍教導団に入り引き續き軍籍に身を委ねられた 大正七年尊父が老齢によって社司を辞任されたので後を継で祖父傳来の聖職を守られ兼ねて浪岡村購買販賣利用組合長や青森縣神職会南郡支部長に就任地方産業界の發展や神社界の興隆のため貢献された 昭和三年の今上陛下御大典を記念して浪岡八幡宮は縣社昇格申請の内示に接した元より由緒正しい神社であるが昇格といふことは神社にとって容易な事業ではない 幾度か申請書類が返戻されるごとに社司初め関係者は直ちに上京して内務當局に交渉の勞をとられた それにもまして困難を加へたことは社殿や神域の整備である即ち本殿神饌所供進使舍社務所の増改築の費用の調達には阿部社司自ら陣頭に立って昭和十三年迄實に十ヶ年の長きに渉って東奔西走全く寝食を忘れ粉骨碎身身を挺して盡力されその目的が達成されたのである 現社殿がその規模や設備に於いて地方稀に見る偉観を呈し神徳一入森嚴を加ふるのも故なしとしない大人は昭和二十二年一月十一日神去られたがその功績の大きかった事を今更ながら追憶し茲に神社関係者相計って碑文に刻し永くその遺徳を讃えんとするものである。 昭和三十七年八月十五日 青森縣護國神社宮司 山邊貞一郎撰 浪岡八幡宮總代 平野勝衛書』・『(背面)浪岡八幡宮 社司阿部幡彦 社掌有馬足世 顧問松井市太郎 同藤田八太郎 總代平野勝衛 同倉内健吉 同小倉元作 同平野慶助 世話役信平多藏 同長谷川瀧治 同高田武夫 同棟方善四郎 同工藤奥次郎 同平野民五郎 同岡田秀雄 昭和三十七年八月十五日建之』
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句碑(昭和12年土台改修、津島忠八)…『日のもと能 者なさき帝し 富士の山 三十六翁■■■島金次郎 九十八■ 阿部文助建 』
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鼓殿。
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参道脇にある鳥居。
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鳥居の先へ。
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井戸がありました。
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こちらの小祠は恐らく稲荷宮。
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更に橋を渡って…
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狛犬一対と小祠一基。
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浪岡八幡宮表参道に戻ります。
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狛犬一対(紀元2582年、大正11年8月15日)
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入内の石神様みたいなものがありました。
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稲荷神社(稲荷堂)鳥居。
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稲荷神社前石灯籠一対(安永4乙未年8月15日杉澤氏)※改修されています
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拝殿神額「稲荷神社」
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稲荷神社。
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日露戦役記念碑(明治45年5月、発起人山内次郎左衛門、髙山松堂書)※背面は明治37、38年戦死者名
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悠忠神社鳥居。
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狛犬一対。
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社殿。
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拝殿神額「悠忠神社」。
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戦没者560柱余の御霊を祀っております。毎年8月16日に慰霊祭が行われています。
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為武士之塔「嗚呼忠臣」
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御神庫。
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社殿。
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拝殿向拝蟇股・木鼻。
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棟札として、慶長19年6月上旬造営、寛永15年菊月27日葺替鳥居新造、寛文6年菊月上旬吉祥日新造、宝暦10年8月吉祥日再興、寛政4年5月吉祥日再興、文政5年8月吉祥日葺替、明治16年7月郷社八幡宮再興、明治35年10月14日葺替八幡宮神殿、明治35年霜月中旬吉祥日八幡宮精舎葺替、大正13年8月吉祥日本殿葺替、昭和9年8月14日幣殿本殿玉垣新饌所新築、昭和13年8月15日縣社昇格浪岡八幡宮(昭和3年10月昇格申請)、昭和18年8月15日相撲上屋新築といった棟札があります。
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拝殿内。
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幣殿・本殿。
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