
青森県黒石市温湯鶴泉。日蓮宗壽(寿)量山遠光寺。御本尊釈迦牟尼仏。

江戸期の温湯村ははじめ津軽郡平賀庄、のち田舎庄。はじめ弘前藩領、明暦2年分家黒石領、文化6年から黒石藩領。村高は正保高帳では平賀郡の新田として村名が見え179石余、明暦2年御知行割印形之控では不動館村(中野村)と合わせて190石余、寛文高辻帳・寛保高辻帳・天保郷帳ともに167石余、旧高旧領81石余。慶安年間の絵図によりますと家数17。慶安2年道筋帳によりますと、東根小道を高木村で分岐する脇道があり、広舟村から当村まで1里18町、当村から山形村まで5町。また、日沼村から山形村・石動館村に至る小道の途中に当村の東北にある蛾虫坂が記されており、60間、幅2間で荷付馬の通行は自由とされていました。蛾虫坂は明和年間の藩律では津軽40坂の1つに数えられており「上60歩下40歩温湯道」と見えます。坂下で中野路と板留路に分岐。明治初年の国誌によりますと、天保年間に竜田山と改称されましたが旧称が用いられていると記しています。残存する山形村の明暦2年検地帳には当村の小字が含まれています。享保年間の黒石田方御検地入候節上中下場所附之覚では、温湯村上下を上田、温湯大平を下畑としています。温湯は温泉地として知られており歴代弘前藩主も数度訪れています。享保19年頃の温湯・板留・沖浦三ケ所へ申渡候覚によりますと、湯宿には年中1匁の役銀、湯守には50目の役銀の上納が定められ、また、湯治客目当ての遊女宿が禁止されています。安永10年の手本山形道中記(浅瀬石川郷土志)には揚屋があり、春秋には青森・鰺ケ沢から遊女を集めるとあり、菅江真澄も「津可呂の奥」で家は30軒ばかり、湯小屋は軒をつらねると記しています。村内の神社としては宝暦9年の黒石神社書上帳に宝永7年勧請の稲荷神社が記されています。寺院としては黄檗宗瑠璃院薬師寺・日蓮宗寿量山遠光寺・浄土真宗鶴泉山智隆寺があります。このうち薬師寺は黒石の法眼寺の塔頭で、寛永元年当村に遊んだ花山院忠長が夢に薬師の化身を見て像を安置して温湯の守護としたのをはじまりとする伝承があり、延宝7年宗運が薬師堂の傍らにあった庵を譲り受けて黄檗宗の庵を結びました。天和3年、黒石領主津軽信敏の死去に伴い位牌を当庵に置いて宝厳山法眼寺と改めましたが、元禄4年に命により黒石山形町に遷されています。その後は元薬師堂となりましたが、享保9年温湯に入湯のため当地を訪れた弘前藩主津軽信寿によって再び寺号が許されました。遠光寺は黒石の妙経寺の末寺で、享和3年寺社領分限帳や法輪山最初より記録写、重宝錦嚢に名が見えます。寛永元年浅瀬石千徳家の遺臣佐藤式部が庵を結び本照院と名付けたことにはじまり、その後一時廃絶しましたが、延宝7年寿領院日永が廃庵を受けついで道久庵として再興。その後、再び廃絶しましたが、明和元年日尭が再興して遠光庵とし、明治12年寺号を許されています。智隆寺は黒石感髄寺の末庵で、古くは鶴の庵という花山院忠長の草庵があり、元禄年間に無住となった後、越前国長沢の産慶が一宇を再建、享保4年智隆が庵号を受けて開山し、明治中期から寺号を称したといいます。温湯村は明治4年、黒石県、弘前県を経て青森県所属。同11年南津軽郡に属します。国誌によりますと戸数69、うち支村新道5。村況は「村居平坦。土地菲瘠。食料足らす耕耘の余隙には薪炭を鬻き、春当所多く旱藕を采る」とあり、また、当時村内には木地挽職人7戸があったといいます。同11年温湯小学を開設し、同12年の教員数は男1、生徒数は男23。同年の共武政表によりますと戸数62・人口379(男188・女191)、馬14、人力車1。物産は米・大豆。同22年山形村の大字となっています。

浅瀬石城主千徳家の家臣佐藤式部が、為信による浅瀬石城落城後の寛永元年に石名坂から鶴派立村(現温湯)に移住し、田地四十人役(約4ha)余を開墾するとともに新田開拓庵室を創立して本照院と名付けましたが廃庵。その後、正徳5年に日永法師が再興。日永法師は姓を伊藤といい、秋田佐竹藩の家臣(久保田藩主佐竹家の一族で横手城の城主戸村十太夫の家臣)で、延宝7年に秋田の横手から温湯に移住。在村四十余年、その間村民に武芸などを教えていましたが晩年出家し、黒石妙経寺11代の日利上人の弟子となり正徳3年に庵室建設を願い、同5年に許可され再興。しかしながら享保4年に日永法師が無くなると無住となり再び衰退。これを再興したのが黒石妙経寺13代の日堯上人(中興)で、明和3年に妙経寺隠居寮として再建を願い出て許可され、壽量山遠光庵と改め、明治12年に遠光庵は遠光寺と寺号を名乗ることになります。

昭和8年の21世日東上人代に全山消失。昭和10年に天女壁画(寺島春童画伯)の本堂再建(現本堂)し、門で閉ざす事をしない寺観に整備。昭和48年には庫裡や厨房も完成。本堂前には手入れの行き届いた庭がありますが、昭和10年に本堂建立の際、先代の日東上人が「信心のない人にも草や木をみせて仏心を呼び起こさせよう」として造園したものといいます。また、境内には江戸時代末期から明治のはじめにかけて津軽相撲の大関として活躍した岩木川万之助の石碑があり、更に文庫には石川啄木が丹羽洋岳に宛てた書簡が保存されています。行事としては七面天女祭(4月19日)、妙見大士祭(7月15日)、宗祖大士御会式(9月12日、13日)、星祭祈祷(冬至の3日間)があり、妙見大士祭は長寿延命・除災招富を祈祷する祭りで、妙見信仰に篤かった黒石元町の初代福士永一郎氏が明治41年に境内に妙見堂を建立して寄進しましたが、昭和8年の火災によって焼失し、現在の妙見像は二代福士永一郎氏が昭和9年3月に父の意を奉じ大阪能勢妙見山より御分体として奉安したものです。

その他、碑として「岩木川金助霊」(明治32年8月3日)、「岩木川金助、玉の川兵吉荒駒・栄次郎」(大正10年7月20日)があります。

『【当山縁起】当山はもと本照院と言い、今を去る三百九十六年前即ち寛永元年(1624年)石名坂から移住して当地の新田を開拓した佐藤式部氏が建てたもので、その後廃院となったものを、秋田佐竹公譜代藤原十太夫の臣、伊藤氏が延宝七年横手から来たって在住すること四十有余年、後出家して道久と改め正徳五年、廃院を再興して道久庵と名づけたが、これまた衰微したので明和三年黒石妙経寺十三世日堯上人復興して、遠光庵と称したのを明治十二年遠光寺と改め、現在二十二代に及んでいる。今の本堂は昭和十年二十一代日東上人の新築で庫裡は昭和四十八年二十二代日弘の改築である。御本尊釈迦牟尼佛は、小山内勇雲の作で壁画は寺島春童画伯の筆である。境内には地方の名力士岩木川万之助の碑、文庫には近代の情熱詩人石川啄木の書簡等がある。【年中行事】七面天女祭禮4月19日・妙見大士祭禮7月15日・宗祖日蓮御会式9月12、13日・歳祭祈祷冬至3日間』令和2年10月13日日蓮宗壽量山遠光寺

すぐ近くのドライブイン西十和田へ。

焼きそばをいただきました。うまっ!大盛いける!

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