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奥州市江刺愛宕西下川原。盛街道沿い。
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愛宕神社の近くです。たまたま見つけました。跡地ということで案内板のみの紹介です。近くに京城苑という焼肉屋さんもありました。肝煎の方がいらっしゃったら奢って下さい。牛タン、ハラミ、豚ホル、サンチュ、ナムル、生ビール、日本酒のみでOKです。
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江刺郡大肝煎只野市兵衛屋敷跡(郷土文化顕彰会、平成25年3月)…『仙台藩は、江刺郡四十一カ村を東十八カ村、西二十三カ村に仕分し、東方、西方大肝煎を配し、各村々には、肝煎を配して、統治の要とし、当屋敷は、寛政、享和、文化、文政年間、地肝煎(侍の土地の管理者)、村肝煎(行政、村の役人)、郡西方大肝煎(行政、司法、警察等の役人)、郡大肝煎(郡全体の役人)、検断(町場の行政、運送等の役人)の諸役を務めた屋敷跡である。【新六こと市兵衛(当家八代目か)】寛政8(1796)年没。高寺村住民。安永風土記高寺村、良民書上げに列し、寛政元(1789)年岩谷堂城主の地肝煎を拝命し、寛政6(1794)年依り3カ年、高寺村肝煎を務める。検断として、役職の記録が残るも所載不詳である。【襲名二代目藤兵衛こと市兵衛】文政8(1825)年没。寛政9(1797)年先代を継ぎ市兵衛と改名し、高寺村肝煎を仰せ付かる。文化2(1805)年第六代岩城宗隆岩谷堂城主の地肝煎を拝命する。文化5(1808)年依り文化10(1813)年江刺郡西方大肝煎、同年から江刺郡大肝煎を文政5(1822)年迄10年間務める。【襲名三代目周助こと市兵衛】文政3(1820)年増田栄之進知行地の地肝煎を拝命する。文政5(1822)年より、父の跡を引き継ぎ文政9(1826)年まで、江刺郡大肝煎を務める。又検断として、役職の記録が残るも所載不詳である。』
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