
青森市高田朝日山。陸奥高田城跡の西方。標柱に関しては読み取れず。読み取りたかった…その理由は後ほど。
鳥居。

高田は青森平野の南部に位置しており、東部は平坦地ですが西部は大釈迦丘陵が広がります。東端を堤川(荒川)が北流しており、南部で入内川が荒川に合流。宇日野に高田館跡があり、館主は南部氏の家臣土岐大和之助則基と伝えられ、天正13年もしくは18年に大浦(津軽)為信に帰伏したといいます。また、宇朝日山に蝦夷館があり、山林と化しましたが郭跡・堀跡を残します。江戸期以降の高田村は津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は正保高帳614石余、貞享4年検地水帳832石余(田732石余、畑73石余、屋敷地26石余)、寛保高辻帳614石余、天保郷帳870石余、旧高旧領937石余。貞享4年検地水帳によりますと小字に「川瀬・朝日山・日野」があり、反別は田71町8反余・畑屋敷21町1反余(うち郷蔵屋敷を含めて屋敷地3町2反余)、この他に見取場(畑)7町8反余、開発可能地(田畑)2町歩、漆木畑地2ヶ所・3畝余、漆林及び村中の漆木11,249本、河原地10ヶ所・1町6反余、空地3反余、永荒地(田畑)1反余、古館地2反余、虚空蔵堂地・境内林9反余、不動堂地6畝余、熊野堂地2反余。また、田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定されていました。元禄3年には浦町組に属しており村位は上。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳でも村位は上。当村は水田耕作のほか畑作や漆木植栽など林産業も盛んな村でした。享和3年に朝日山の仕立見継山を当村の3人で1ヶ所ずつ管理するよう藩命をうけています。当村は津軽平野と外ケ浜を結ぶ大豆坂通の沿道に位置。文久4年の御領分中道程駄賃定によりますと浪岡~高田村の距離は4里8町31間で、夏本荷169文・夏軽尻113文・夏歩行夫85文・また、高田村~青森の距離は2里23町8間4尺で、夏本荷60文・夏軽尻40文・夏歩行夫30文。大豆坂については菅江真澄が『すみかの山』にて「往かふ豆が坂はまむか坂にて、かの津軽大領馬武などの栖家しつらんも此近きに在り」と記しています。神社としては新山宮、熊野宮、不動堂が見えます。新山宮は文禄3年に高田・大別内両村の産土神として創建され、慶長14年に大谷村を加えた3ヶ村で再建。貞享4年検地水帳に虚空蔵堂と見えるのが新山宮。熊野宮は同社の末社で草創年月不詳。寛文年間に高田村中にて再建と伝えられます。新山宮末社として惣染堂(馬頭観音堂)と弘化5年建立の疱疾社もあります。明治初年の神仏分離に際して新山宮は熊野宮を本社とし、惣染堂は保食神社、疱疾社は久須志神社となり、それぞれ熊野宮に合祀されています。神仏混淆神社調帳によりますと、明治初年不動堂は愛宕神社への改称を願い出ていますが許されずに廃堂となったといいます。寺院としては青森正覚寺末庵の浄土宗浄土庵が川瀬にあります。同庵は万治元年教念の開創と伝えられ、寛政4年磐城(現福島県)専称寺39世良迎から真浄庵の庵号を授与されました。昭和25年に寺格を得て高田山真浄寺と称することになります。高田村は明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年東津軽郡に属します。国誌によりますと明治初年の戸数106で、村況は「南北に連り、東は川に近く、西に山あり、商販市店あり、蕨餅当村の名物なり」とあります。また、大豆坂について「坂路三丁十二間、これを超て一ノ沢(入内村の支村)に達る」とあります。明治10年には高田小学が開校し、開校時の生徒数男48・女6、教員1。同12年の共武政表によりますと、戸数118・人口691(男356・女335)、馬141、学校1、物産は米・縄。同22年高田村の大字となります。昭和30年からは青森市の大字。明治24年の戸数107・人口827、厩32、学校1、船1。明治10年に高田小学を開校。明治22年には高田村役場が字川瀬に置かれており、昭和30年以降は青森市役所高田支所となっています。昭和22年高田中学校が開校しており、同23年に中野坂中学校を合併。同37年から南西方の大谷字山ノ内の山地に青森空港が建設されて同40年に開港。関連して主要地方道青森浪岡線(旧大豆坂街道)をはじめ地域内を通る道路網が大きく整備されました。うち主要地方道青森環状野内線は青森浪岡線と交差し、北方と東方に向かってそれぞれ市の中心街に至ります。交通網の整備に刺激されて平地の水田地帯には住宅が増加。

上記のように高田には新山宮、熊野宮、不動堂があり、新山宮は虚空蔵堂、熊野宮は同社の末社、更に新山宮末社の惣染堂(馬頭観音堂)と弘化5年建立の疱疾社もあり、神仏分離にて新山宮は熊野宮を本社とし、惣染堂は保食神社、疱疾社は久須志神社となり、それぞれ熊野宮に合祀され、不動堂は愛宕神社への改称が許されず廃堂になったとのことです。新山宮は文禄3年5月に高田村尾別内村の産土神として崇敬され、棟札として元禄12年、明和3年、天保11年があり、本社板葺建坪五尺四面、雨覆茅葺建坪東西二間半南北五間、神楽殿茅葺建坪東西二間半南北三間、神事は3月13日。不動堂は高田村の建立再建で、棟札として安永9年5月、天保11年4月があり、本社板葺建坪二尺四面、雨覆萱葺建坪七尺四面、社司屋敷壱軒東西二拾二間南北八間。

で、一旦説明は置いておいて…

鳥居。

手水石的な石。

こちらは…


一つは庚申塔(昭和11年旧4月18日)でした。他は読み取れず。

不明の巨石。

何かを模っているような…

しかし文字は彫られているかどうかもわからず。

社殿。


拝殿内。
本殿前に金精様、両脇に御神馬が見えます。
実は上記の何れかの神社、もしくは高田の地蔵堂(江戸時代前期)、金堤十和田宮(観音堂、祖神宮。創立不詳。御祭神は稚産霊神、保食神)かと思って参詣したのですが…

松ノ木神社!(平成11年5月28日信者一同)ってことで由緒等はわかりません。

雰囲気的に保食神社となった惣染堂、また、金堤十和田宮の祖神宮は「そぜんぐう」なので金堤十和田宮とも感じましたがよくわからず。ちなみに祖神宮(祖神堂)は高田熊野宮に現存しており、不動堂は場所が違いますし、雰囲気的に地蔵堂でもありません。やはり惣染・馬頭観音といった雰囲気。ってことで、菅江真澄の「すみかの山」を再読…『高田の村はずれにきた。ここに九十九盛りといって、広い田の面につむれ(つむ形に土の小高くなっているところ)とかいうものが、ひしひしとならんでいる。この土地の話に、むかし山姥というおくかない(おそろしい)女がいて、浅虫の浦の裸島が寒そうだから麻衣を織って着せようと、つむいだ麻糸をたくさん、へそにつくって(糸をつむに巻いて)おいたのが、化して多くの塚になった。その山姥は神となり、いまは機織の宮と申すのであると、八十歳にもなる老人が、たわいもない昔話をした。九十九森は、そのむかし、ここを開墾したときの土をかきよせ積みかさねたものであろう。機織の社は、中に天御中主の神、左にたなばたひめ、右にいざなぎの神、この三柱をまつっている。この社の西北方の岡の上にも祠があって、稚産霊神、保食神をまつり、村人は祖神堂(そうぜんどう)とよんで、五月五日に、近いあたりの人が牛馬をひきつれ、ここにうちむれ詣でるのだという話である。』
機織の社?…でも「つむれ」がよくわかりません…ってことで、やっぱり松ノ木神社です!!



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