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青森市高田川瀬。
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2.5
真浄寺の北方。天正13年に落城したと伝える土岐則基の城です。
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高田城跡標柱。
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ほぼ読み取れませんでした。
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高田は青森平野の南部に位置しており、東部は平坦地ですが西部は大釈迦丘陵が広がります。東端を堤川(荒川)が北流しており、南部で入内川が荒川に合流。宇日野に高田館跡があり、館主は南部氏の家臣土岐大和之助則基と伝えられ、天正13年もしくは18年に大浦(津軽)為信に帰伏したといいます。また、宇朝日山に蝦夷館があり、山林と化しましたが郭跡・堀跡を残します。
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江戸期以降の高田村は津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は正保高帳614石余、貞享4年検地水帳832石余(田732石余、畑73石余、屋敷地26石余)、寛保高辻帳614石余、天保郷帳870石余、旧高旧領937石余。貞享4年検地水帳によりますと小字に「川瀬・朝日山・日野」があり、反別は田71町8反余・畑屋敷21町1反余(うち郷蔵屋敷を含めて屋敷地3町2反余)、この他に見取場(畑)7町8反余、開発可能地(田畑)2町歩、漆木畑地2ヶ所・3畝余、漆林及び村中の漆木11,249本、河原地10ヶ所・1町6反余、空地3反余、永荒地(田畑)1反余、古館地2反余、虚空蔵堂地・境内林9反余、不動堂地6畝余、熊野堂地2反余。また、田は上田から下々田まで、畑は上畑から下々畑まで設定されていました。元禄3年には浦町組に属しており村位は上。宝暦9年改の御郡中郷村位付帳でも村位は上。当村は水田耕作のほか畑作や漆木植栽など林産業も盛んな村でした。享和3年に朝日山の仕立見継山を当村の3人で1ヶ所ずつ管理するよう藩命をうけています。当村は津軽平野と外ケ浜を結ぶ大豆坂通の沿道に位置。文久4年の御領分中道程駄賃定によりますと浪岡~高田村の距離は4里8町31間で、夏本荷169文・夏軽尻113文・夏歩行夫85文・また、高田村~青森の距離は2里23町8間4尺で、夏本荷60文・夏軽尻40文・夏歩行夫30文。大豆坂については菅江真澄が『すみかの山』にて「往かふ豆が坂はまむか坂にて、かの津軽大領馬武などの栖家しつらんも此近きに在り」と記しています。
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神社としては新山宮、熊野宮、不動堂が見えます。新山宮は文禄3年に高田・大別内両村の産土神として創建され、慶長14年に大谷村を加えた3ヶ村で再建。貞享4年検地水帳に虚空蔵堂と見えるのが新山宮。熊野宮は同社の末社で草創年月不詳。寛文年間に高田村中にて再建と伝えられます。新山宮末社として惣染堂(馬頭観音堂)と弘化5年建立の疱疾社もあります。明治初年の神仏分離に際して新山宮は熊野宮を本社とし、惣染堂は保食神社、疱疾社は久須志神社となり、それぞれ熊野宮に合祀されています。神仏混淆神社調帳によりますと、明治初年不動堂は愛宕神社への改称を願い出ていますが許されずに廃堂となったといいます。寺院としては青森正覚寺末庵の浄土宗浄土庵が川瀬にあります。同庵は万治元年教念の開創と伝えられ、寛政4年磐城(現福島県)専称寺39世良迎から真浄庵の庵号を授与されました。昭和25年に寺格を得て高田山真浄寺と称することになります。高田村は明治4年弘前県を経て青森県所属。同11年東津軽郡に属します。国誌によりますと明治初年の戸数106で、村況は「南北に連り、東は川に近く、西に山あり、商販市店あり、蕨餅当村の名物なり」とあります。また、大豆坂について「坂路三丁十二間、これを超て一ノ沢(入内村の支村)に達る」とあります。明治10年には高田小学が開校し、開校時の生徒数男48・女6、教員1。同12年の共武政表によりますと、戸数118・人口691(男356・女335)、馬141、学校1、物産は米・縄。同22年高田村の大字となります。昭和30年からは青森市の大字。明治24年の戸数107・人口827、厩32、学校1、船1。明治10年に高田小学を開校。明治22年には高田村役場が字川瀬に置かれており、昭和30年以降は青森市役所高田支所となっています。昭和22年高田中学校が開校しており、同23年に中野坂中学校を合併。同37年から南西方の大谷字山ノ内の山地に青森空港が建設されて同40年に開港。関連して主要地方道青森浪岡線(旧大豆坂街道)をはじめ地域内を通る道路網が大きく整備されました。うち主要地方道青森環状野内線は青森浪岡線と交差し、北方と東方に向かってそれぞれ市の中心街に至ります。交通網の整備に刺激されて平地の水田地帯には住宅が増加。
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上記のように宇日野に高田館跡があり、館主は三戸南部氏の家臣である土岐大和之助則基と伝えられ、津軽郡代南部左衛門尉高信に仕え、高田村及び荒川村に800石の知行を持ち、天正13年もしくは18年に大浦(津軽)為信に帰伏したと伝えますが、高田城において討死し(もしくは浪岡城にて討死)、則基の長男である善兵衛則里も浪岡城にて討死したとも伝えます。高田城はこの大浦為信の攻撃により廃城。
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『津軽封内城趾考』(小友叔雄著、青森郷土会出版)より…『城主は土岐大和之助則基なり。南部の臣下にして、浪岡城主北畠氏の旗属たり。高田、荒川地方にて八百石を知行し、外ヶ浜関門の守備に当れり、天正六年七月浪岡城落城の時一戦を交えずして南部へ落行きたり、今七戸町に高田氏を名乗り其子孫存するという。』※二男善助則忠、三男善四郎則古が生き延び、南部高信の次男南部彦次郎政信の娘を三戸城主南部大膳太夫信直のもとに連れ、後にその娘が七戸隼人正直時に嫁いだ際に土岐から高田に改称し七戸へ定住したといいます。
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横約32m×縦約84m。
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城跡の一部は宅地となっております。
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奥﨑先生報徳碑(枢密顧問官鎌田榮吉書)
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碑文…『先生名ハ嘉作先代春吉翁ノ長子ナリ明治二十二年東都ニ出デ慶應義塾ニ入ル仝二十五年同塾ヲ卒業スルヤ郷里高田村ニ私塾ヲ開ク私立漢英學舎ト称ス地方ノ子弟教ヲ受クル者夛シ今ヤ門下数百士或ハ官界実業界ニ入リ或ハ自治体ノ中心人物トナリテ各方面ニ活動シ其ノ成績見ルベキモノアルハ皆ナ先生ノ熱誠ナル薫陶ニ因ラザルモノナシ先生亦政界及農界ニ尽力シ曽テ村會議員村長郡会議員郡会議長縣會議員トナリ亦村農会議員郡農会議員郡農会特別議員縣農會議員トナリ亦縣ノ嘱託ニ依リテ数々縣外ノ農事視察ヲナシ其ノ功績頗ル顕著ナリ吾々門下一同深ク其ノ恩徳ヲ顧ミ茲ニ報徳碑ヲ建設シテ其ノ功績ヲ後世ニ傳フルモノナリ 昭和八癸酉年八月 私立漢英學舎門下ノ希望ニ依リ奥﨑嘉作自書』
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百万遍之塔(高田村中)。
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腹ごしらえ!
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