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青森市長島2丁目。病厄除守護神、廣田神社。青森開拓の一大恩人である進藤庄兵衛正次の神霊を祀り、一切の厄・病気・災難を祓い除ける全国唯一病厄除守護の由緒ある神社です。
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青森市ゆかりの掲示板(平成6年11月21日青森市教育委員会)「進藤庄兵衛正次」1614年~1686年(慶長19年~貞享3年)…『出羽国(現:山形県)に生まれる。祖父太郎左衛門正勝の代に最上家が没落したため、一家は津軽油川郷羽白村(現:青森市)に移住してきた。その時、庄兵衛は9歳であった。父は甚右衛門。庄兵衛は寛永17年(1640)三代津軽藩主信義に召し出され二百石を賜った。その後正保4年(1647)には、弓足軽頭になり百石加増され都合三百石になった。慶安2年(1649)藩主信義とともに江戸勤番中に、死を賭して藩主の夜間外出を止めたことが出世のきっかけになり、四代藩主信政の代には「国にもかえがたき臣」といわれるようになった。寛文12年(1672)12月1日年寄役(家老職)を仰せつけられる。延宝元年(1673)、青森城代・二代目(御仮屋)に任ぜられた。庄兵衛は就任すると、新町に市場を開かせて商売を奨励し、青森を商港として発展させるようにした。新町に市場ができると同時に御仮屋の外郭の整備に着手した。その時、目の不自由な人達の力を借りたという。また、進藤堰といわれている用水渠を通し水利の便を良くした。これによって大野近村(現:青森市)の開墾が急速に進められるようになった。なお、庄兵衛は進藤堰の完成後、毘沙門堂の側に観音堂を建て、正観音を祭って青森近郷町民の信仰の場所とした。貞享2年(1685)、四百石加増され都合千石となったが、翌3年6月13日弘前城内の邸宅で病死した。行年73歳であった。青森町民は庄兵衛の遺徳を慕い、庄兵衛夫妻の木像を広田神社に奉納して冥福を祈ったという。』・Shōbē Masatsugu Shindō 1614-1686…『Born in Dewanokuni,which is the present day Yamagata Prefecture.At the age of 9,he moved with his family to Gōhajiro Village,in Abura-kawa in Tsugaru,which is the present day Aomori City.In 1673,he took up his post as the second warden at the temporary fortress at Aomori.Following his orders to open the market in Shinmachi to encourage trade,Aomori developed as a commercial port town.At the same time as the completion of the market,the outer wall of the fortress was built,thus establishing its permanency.Also,owing to the improvement of the water supply flowing through the "Shindōzeki"irrigation channel,the cultivation of Ōno Village proceeded at a rapid pace.』
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満州獨立守備隊員顕彰記念碑(工藤俊二謹書)。昭和56年8月22日建立。満州独立守備隊員に対し顕彰の念を込めて青森県独歩会によって建立。
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社号標「廣田神社」
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裏面「凱旋紀念 標石・杉貮千本 氏子中 明治三十九年六月廿日 本間覃山謹書 石工松澤金次郎」※本間覃山は書家小山内暉山の教えを唯一受け継いだ人物。
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千鶴萬亀之塔。昭和43年、明治百年を記念し恒久平和と将来を生きる青年等の心の糧となることを願い日本郷友連盟青森県支部が主となり建立。
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石碑には五箇條の御誓文が刻まれ、日本並び青森を代表する方々の直筆にて書かれています。
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題字・東久邇元宮様
第一条・佐藤栄作先生(元内閣総理大臣)
第二条・竹内俊吉先生(青森県知事)
第三条・津島文治先生(元青森県知事・参議院議員)
第四条・佐藤尚武先生(元参議院議員)
第五条・長谷川才次先生(時事通信社長)
結文・塩沢清宣先生(日本郷友連盟会長)
鶴亀の画・棟方志功先生(青森市出身)
門柱標・岸信介先生(元総理大臣)
門柱標・荒木貞夫先生(元陸軍大将)
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碑文…『明治百年を奉祝するに當り其の國是とせる五ヶ條の御誓文を刻し塔を建てて其の聖(※下部は壬)業を偲び更に後世に心の糧とせられん事を期す 昭和四十三年四月六日 日本郷友連盟青森縣支部會長成田良策 名譽顧問有末精三 謹誌』
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案内板「千鶴萬亀之塔」より…『明治百年を記念し将耒青少年の心の糧として永く教養の資たらん事を切に乞い願い建塔す。』
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前回の記事:『廣田神社 (青森市長島)
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廣田神社の由緒…『当神社は往古一条天皇の御代・長徳年間(西暦996年)時の左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方公(ふじわらのさねかたこう)が蝦夷鎮撫の為、外ヶ浜貝森村に「夷之社(えびすのやしろ)」を創建して陸奥国長久の平安を御祈願されたのに発祥する。天明四年(西暦1765年)疫病大いに流行し、その中でも深沢部内が猛威を極めた。その惨状を徳川将軍が聞き召され、江戸幕府より疫病除として箱入り御札一体、白木造り御祠入御弓二張、御矢二具を、時の代官笹森権蔵、佐藤忠太夫の両名宛に送付された。「之を外ヶ浜産土神に奉安して息災を祈れ」との命があったので、同年之を当神社に祭祀、祈願して漸く病魔を退散する事を得た。以来廣田社(廣田宮とも社とも称呼されていた)は霊験あらたかなる、疫病の守護神として広く一般の崇敬を集めるようになった。当神社は、時代の流れに起こる諸問題を克服しながら、幾度(四回)となく遷宮が行われ、明治三十四年(1901年)に現在の社地に鎮座となった。平成八年(西暦1996年)に鎮座一千年祭を挙行し、その記念事業として社務所・会館を建設し、現在に至る。【御祭神】主神:天照皇大神、配祀:大国主命・事代主神・蛭子命・進藤庄兵衛正次(第二代青森城主)・藤原実方(源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれた中古三十六歌仙の一人でもある)【例祭日】六月二十日(大祭)・六月十九日(前夜祭・宵宮)【御神徳】病気平癒・無病息災・交通安全・家内安全・商売繁盛』
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狛犬は道路を挟んで一対。
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大正15年6月20日(山田平太郎奉納・青森市石工:山田末吉、山田石太郎)
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あっ、ここにも狛犬。
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大鳥居。
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社号額(内閣総理大臣大平正芳)
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廣田神社一千年記念碑(第15代宮司田川英蔵)。平成8年12月23日に御鎮座一千年(草創長徳2年外ヶ浜貝森村)を記念し、これからも永く御神徳が発揚されるようとの願いにより建立。
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廣田神社宮司歴碑(廣田神社一千年記念、平成8年12月23日、十六代田川信行建立)。
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境内案内図…『廣田神社では境内に鎮座する五社(一番社~五番社)を全てお参りするのが正式な参拝となります。また、五社参りを二十日間続けることによって百度参りの大願成就。二百日間で千度参りの千願成就、そして二千日間続けると、万度参りで満願成就となり、心の願いが御神意に叶い成就されるといわれています。』
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一番社 廣田神社
①二番社金生稲荷神社
②三番社八大龍神宮
③四番社乃木神社
④五番社二十三夜大神
⑤手水舎
⑥実方桜(幸せを呼ぶ御神木)
⑦庖刀碑(料理庖丁の慰霊碑)
⑧十二支開運燈籠(開運を招く石燈籠)
⑨御鎮座一千年記念碑
⑩満州獨立守備隊員顕彰記念碑
⑪千鶴萬亀之塔(恒久平和を願う塔)
⑫大鳥居・社号額(元内閣総理大臣揮毫の額)
⑬社号標
⑭じゃんばら大注連縄(邪を祓う大注連縄)
⑮廣田神社宮司歴碑
⑯境界塀建立碑
⑰青森市ゆかりの掲示板
⑱祖霊社(ご先祖様の御霊を祀る神社)
⑲永代祭祀奥津城(神道式で御遺骨を埋葬する合同の墓)
おススメのお参り順路
開運厄除のお参り…五社参り→⑧→⑭
えんむすびのお参り…五社参り→⑥→⑧
健康増進のお参り…五社参り→⑦→⑱
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五社参り・パワースポット案内板。公式HPとこちらの案内板を利用しながら紹介していきます。
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往古一条天皇の御代、長徳年間(996年)に左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方朝臣が蝦夷鎮撫のため、外ヶ浜貝森村(現在の青森市)に「夷之社」を創建して陸奥国長久の平安を祈願したのに発祥します。そのため、御祭神も神功皇后が新羅御討伐の際に、皇軍を擁護したまわった天照大御神の荒御魂を主祭神として、これに国土経営の神様である、大国主命、事代主神並びに蛭子命を相殿したことは実方公の深慮から出たもので、後世その功績を思い、永くその英霊を慰めるべく一面和歌の神として廣田神社に配祀をしました。したがって公私の崇敬篤く、寛永二年(1625)津軽二代藩主信牧公が青森町を開設する際には開港奉行であった森山弥七郎に命じて、青森湊鎮護のために青森の産土神(守り神)として町の中心に遷座させました。また、外ヶ浜総鎮守城とも称される青森御仮屋の(後の青森県庁)二代目城代であり、弘前藩の家老でもあった進藤庄兵衛正次に指揮をさせて青森の開拓・発展を推し進めました。その結果、市場を開き、都市整備・開墾を行うなど数々の功業を重ねて現在の青森商業発展の礎を築きました。その偉業を称え、青森の人々は開拓の一大恩人として、庄兵衛が深く崇敬をしていた廣田神社へ“青森守護神”として配祀をしました。また、藩公が青森に来られた際には親しく参拝され、天保五年(1834)には御紋章入りの幔幕を奉納の上、本殿、鳥居、神橋などの再建を仰せつかりました。しかし昭和20年(1945)の青森大空襲により御社殿をはじめ数多ある社宝をが無残にも灰燼に帰しましたが、昭和47年(1972)に氏子崇敬者の篤い敬神の心によって現在の御社殿を再建しました。こうして青森の歴史の変遷と共に幾度か鎮座する場所が変わりながらも、平成八年には御鎮座一千年記念大祭を盛大に斎行し現在にいたります。
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手水舎。
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実方桜。御祭神の藤原実方朝臣の歌「桜狩雨は降りきぬ おなじくは濡るとも 花の影に隠れむ」に由来して、恒久平和を願い植えられたこの桜はお参りした後、桜の前で願いを掛けて翌日に雨が降ると幸せを呼ぶ御神木と言われています。また根元の紫陽花はいくら切っても綺麗な花を咲かして実方桜に寄り添うことから夫婦円満の御神徳があるとされています。
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主祭神は天照大御神荒御魂。御神徳は万物成就、厄災難除。天照大御神の荒御魂を主祭神とし中古三十一歌仙の藤原実方朝臣並びに青森城代進藤庄兵衛正次翁を祀る唯一の神社にしてあらゆる災難・厄・病を祓い除く病厄除けの守護神として崇敬を集めます。
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相殿神…大国主命(縁結び、病気平癒)・事代主神(大漁満足、海難防止)・蛭子命(商売繁盛、開運招福)。配祀神…外ヶ浜経営の一大元勲たる藤原実方朝臣の神霊並びに青森の建設と発展に絶大なる貢献を致された青森開拓の一大恩人である青森城代二代目進藤庄兵衛正次の神霊。
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じゃんばら大注連縄。津軽地方で多くみられる「じゃんばら」と呼ばれる注連縄。「じゃんばら」とは邪を祓う「邪祓(じゃばらい)」が訛って転化したものといわれ、幾何学模様をした大注連縄はあらゆる災厄を祓い除けると言われています。廣田神社のじゃんばら大注連縄は日本最大級の大きさを誇り、男綯いと女綯いを組み合わせた特殊な縄の編み方をしており、くぐることで夫婦和合の御神徳もあるとされています。【伝承】…『十数年前。三厩村より参拝に訪れた子供が手水を済ませて神殿前の鈴を鳴らした所、突然紐から外れて大怪我をしてしまいました。後日、宮司がお見舞いに行くと何かに怯えているような口調で、神社の周りに不吉な悪霊がいると騒ぎ出したため、急遽神事を執り行い祓い清めました。さらに、再び不吉な禍いが起こらないようにと宮司が兼務している瀬戸子八幡宮の氏子に依頼し、邪祓を語源とするじゃんばら型の大注連縄を作ってもらいました。すると、程なくしてその子供も元気に立ち返り事なきを得ました。以来、不吉な事が起こることもなく、大注連縄をくぐりお参りすると、その複雑な文様で災いを絡め取り、心身が浄化されるといわれるようになりました。そのため、現在でも3年に一度、廣田神社の崇敬団体である敬神会より奉納されるようになりました。』
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拝殿向拝神額。
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祖霊社。ご先祖様の御霊を祀る神社。
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五社参りのため道路を渡ります。
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廣田苑(製作:黒石造園主渡辺撤美氏、昭和54年5月21日完成)
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境界塀建立記念碑。青森空襲の戦災復興都市計画において、本殿正面へと延びる参道を青森市へ譲渡することとなり、その境界を明確にするため昭和32年10月1日建立。
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二番社の金生稲荷神社鳥居・参道。
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石灯籠一対。
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御祭神は倉稲魂神・大宮能売神。
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天保9年(1838)に創建。我々人間の営みの根源である衣食住を司る正一位の神階を授かる稲荷大明神です。畏くもその神霊を祀る現社殿は、青森大空襲によって無残灰燼に帰した際、一刻も早い人々の心身の恢復に再建せられた廣田神社の社殿を、後に移築して遷座せられました。日本列島龍骨の首に位置する八甲田山系の氷雪と大海より吹く偏東風(ヤマセ)に、度々街中が飢餓飢饉の狼狽を極め、愈々神慮を仰ぎ五穀豊穣の御神威受け奉らば外ヶ濱一円の崇敬を集めるようになりました。明治期には寺院街守護神である寺町稲荷神社を合祀し、昭和50年(1975)には往時一大遊郭であった森紅園を擁護し給わる浪打稲荷神社も合祀に至りました。以来、大小種々の稲荷社合祀を為し、五穀豊穣に始まり工業、商業、水産業に続く殖産興業の御神徳赫々たる奇福を戴くものとなりました。社名冠の“金生(かねうみ)”とはそうした創建爾来の御神徳にあやかり“金を生み出す稲荷さま”と何時しか呼ばれるに至ったものであります。特別に一日数組限定で金生稲荷神社社殿にて商売繁昌・事業繁栄・金運招福祈願をすることも出来ます。
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三番社の八大龍神宮。
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十二支開運燈篭。
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十二支が配されたこの特別な燈篭は生まれ年の動物を撫でると開運招福の御神徳があると言われています。
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手水舎。
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御祭神は市杵島姫命・弥都波能売神・ 底筒男命・中筒男命・表筒男命。御神徳は水産豊漁、芸道向上。
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天保13年(1842)創建。現社殿は明治19年(1886)建立。
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万物の命を生む水を司る当水神の御社は、始め弁財天堂と呼ばれ、後に淡島神社となり、広大無辺の神慮に北前船の商人等の帰依信仰篤く、航海安全を乞い願い住吉神社も合祀されました。年普くうちに龍神合一に至り、いつしか八大龍神宮と呼ばれ一層の尊貴を受けるようになりました。その御神徳は祈雨を仰ぎ一切の災禍を水に流すという灼然なるものであります。
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昭和53年(1978)に整備され開苑した神苑の廣田苑に鎮座しています。大小2つの滝はそれぞれ、雄瀧は“龍神の瀧”、雌瀧は“護神の瀧”の名を神社より授かり神魂を宿しています。
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また、神池に湧く地下水の幽闇な黒さは人々の悩み苦しみを呑み込んだ形象であり、古くから “ヒロタの龍神様に行けば悩みを吸い取られるで”と云われ、名鏡止水の祓濯を成すものです。近年では大東亜戦争の空襲の折、神池に飛び込んだ者は皆助かったそうです。
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龍神の黒池…『龍神の滝と護神の滝が落ちるこの神池はもとより黒い水をしていますが、町の中心にありながら様々な生き物が生息しています。その黒い色から廣田の龍神様に行けば悩みを吸い取ってもらえると言われています。また青森大空襲にて一面が焼き尽くされる中、神池に逃げ込んだ人は唯一助かったそうです。』
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四番社の乃木神社。御祭神は乃木希典命。御神徳は必勝祈願、学問成就。昭和8年(1933)9月13日創建。御祭神の乃木希典命は陸軍大将の重責を務め、晩年には第十代学習院院長を任ぜられ、自身の生涯を皇国日本の為に捧げた偉大な将軍でした。その最期は明治45(1912)年7月30日に明治天皇が崩御せられ、大正元年9月13日に御大葬が行われた夜に、辞世の句「うつし世を神さりましし大君の御あと慕ひて我はゆくなり」「神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」を残し、乃木将軍と静子夫人は殉死を以て御聖恩に報い身罷られました。御事蹟はもとより文武両道、質素と謹厳を兼備する崇高な人格に、後世御遺徳を偲び、国民普く敬仰し、神霊として祀る乃木神社が全国に創建されました。当地で創建に至った経緯は定かではありませんが、もと官修墓地を境内に有し青森市初の招魂祭を斎行するなど、度々の戦禍で国難に殉じた戦没者を懇ろに慰霊し奉る当神社に生前御参拝せられたと伝えられています。然るにそうした行跡に敬慕し、国に赤誠を尽くした神慮を畏み一入広く道徳の亀鑑とする為に鎮座に至ったのではないかと拝察されます。 なお、現社殿は昭和34年(1959)に鰊漁で一大財を得た外ヶ浜広瀬村(現蓬田村広瀬)の田中吉兵衛氏の邸宅にあった社殿が寄進されたものです。田中氏は鰊漁で莫大な財産を築いた人物であり乃木神社を深く崇敬していました。
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五番社の二十三夜大神。
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御祭神は二十三夜大神、猿田彦神。
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諸神一層尊ぶ三貴神の天照大御神を太陽の象徴とし、月読命を月の象徴とし、須佐之男命を海の象徴とする通り、古来より闇夜を開き普く照らす月は神聖な存在であり、人々はその光明を仰望し拝していました。 月待信仰に由来する二十三夜大神も月を御神体と崇奉し、下弦の月光を御神光として愛で慈しみ精進潔斎の忌籠りを成すことで心身浄化の精華を発揮するものであります。 近年までは二十三夜講が組織され、月と縁由深い女性が多数参集して月を礼拝し、月読命の御神影を写す掛軸に降神を賜り、夜通し飲食を共にすることで神人合一の境に浸り信仰を深めていました。 依って今尚安産や子授けの御神徳は霊験あらたかで、報賽の感恩深く額づく者も絶えないでいます。 現在の場所には正保~文政年間(1645~1829)頃に建立した石塔が列なり、猿田彦神や庚申塚諸々とも習合して鎮座しています。 尚、二十三夜は下弦の月に相当するが、理由は如何なるものか不明だが当二十三夜石塔に記されているのは上弦の月となっています。
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庖刀碑。平成8年3月18日建立。食に関わるあらゆる御神徳があると言われています。使用出来なくなった庖丁などを埋葬して慰霊するために、日本料理人で組織される青森清庖会が中心となり建立。以来、毎年4月中旬に庖丁に感謝を捧げ慰霊する庖刀碑慰霊祭並び料理の神様にこれからの料理向上と安全を祈願する四條公祭が執り行われています。
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以下、青森市史「広田神社」「青森観音堂」より一部抜粋(長いのでスルーして下さい)。
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『広田神社は一条天皇の御代、長徳年間、藤原実方公は左近衛中将より陸奥守に任ぜられ、蝦夷鎮撫のため、奥羽地方を巡閲し、外ヶ浜を経て羽後象潟に至る。(奥羽観跡聞老志)当社が実方公によって貝森村(青森市蜆貝町附近)に「夷之社」として創建をみたのは此の時である。実方公は陸奥国の長久の平安を御祈願あらせた。従って、御祭神も神功皇后が新羅御征討の砌、皇軍を擁護したまわった天照大神の荒魂を主祭神として、之に国土経営の神、大国主命、事代主命並びに蛭子命を配祀したことは、実方公の深慮から出たもので、後世実方公の功績を思い、一面和歌の神として永く其英霊を慰るべく当社で配祀している。寛永元年、津軽二代藩主信牧公が、徳川氏が幕府を江戸に開いてから、江戸が日本の政治経済の中心地となり、人口が急激に増加した。江戸の主食である米を東北諸藩が供給することになり、わが津軽藩は地理的に便利な善知鳥村を青森村と改めて開港、翌二年、江戸向け米の積出を行った。その後、夷之社は海産、農産の神として奇瑞多く、ために開港奉行森山弥七郎は青森町の建設にあたって産土神として、町民の信仰の厚い夷之社を南の方へ移した。現在の香取神社すなわち毘沙門堂の社頭に遷宮した。この寛永二年に毘沙門堂の社頭に遷宮したことについて、青森市沿革史著者葛西音弥は年代が相違していると書いている。すなわち、青森総鎮守の毘沙門堂でさえ寛永十八年の遷宮であるのに、同社の門前町ともいうべき社頭に移った夷社が、それ以前の寛永二年の遷宮である筈がないという。寧ろ、青森観音堂が夷社と東西に対峙していたお堂で、正保二年の遷宮になっているから、この時代に遷宮したものか、もしくは春日社の勧請が承応三年になっているので、このころに夷社も遷宮したのであろうと葛西音弥がいっている。元禄年間以前の古絵図を見ると、柳町通りが、毘沙門堂にむかって通じ、その右側(西側)が禰宜町といって蓮長坊、兵庫太夫、東庫太夫の屋敷があり、毘沙門堂地前に夷社があり、その東側に進藤庄兵衛が信仰した青森観音堂がある。柳町の参道の中間に蓮長坊屋敷の前に毘沙門堂の鳥居が建っている。夷社の社地について、青森市栄町和田幸之助方の内山武右エ門の書いたものに「古来広田宮社地の儀は、当時田川東庫並柿崎上総、地福院三家の墓地有之場所の由」と書かれている。ところが明和三年の大地震のとき、青森町中の被害は大きく、倒家三百七戸、焼失百三十三戸、圧死者百二人、焼死者九十一人があり、神社の被害は「善知鳥之堂破損二社 毘沙門堂不潰少々曲る、末社、拝殿、神楽殿何れも大破 広田社、神明社、諏訪社此三社本社不痛、末社並拝殿、神楽殿何れも大破 観音堂不残潰広田社境内にて」(青森市沿革史上巻)。明和三年の青森町の大地震の神社の被害は右記の如くであるが、拝殿、神楽殿は何れも大破した。そこで夷社は、柳町神明宮附近の津軽大膳の土地に遷宮した。このことについて、前記内山武右エ門記によると「明和三年の大地震にて潰れ後、田川の屋敷江宮相建て」とあり、また小豆沢長松談(大正九年六月)によると、「明和年間大地震の際、社殿の大破を来たしたるため、柳町(今の田川蔵司所有三十一番地の西方飯島弁護士の向いにあたる)に遷宮したり、而して該地は津軽大膳様(近衛様へ御養子となりたるも復帰し、八百石の知行を受けて、御分家せられたりと云ふ)の御寄附になりたるものにして、爾来御祈願社となり、三枝葉の牡丹の丸の幔幕をも寄附せられたり」とある。但しこの津軽大膳という人物については、どんな人か、また如何なる理由で青森に住居していたか不目であるが、津軽信義の四子に津軽大蔵為貞という人がある。この人は初め仏門に入ったが還俗し、弘前に帰り兄津軽玄蕃政朝の家に入り津軽大蔵と改名、のち信寿時代知行八百石、城代となった人である。小豆沢長松は大膳と大蔵とまちがいたのであるまいか。何れにしても内山武右エ門と小豆沢長松の両者の記録によると、明和三年の大地震後、柳町に遷宮したことが判る。天明四年の大凶作のとき、領内で疫病流行し、病死するものが多かった。特に深沢地方で疫病猖獗を極めたので、藩主信明公は疫病除けとして、箱入御札一通、白木造御祠入御弓二張、御矢二具を時の代官宛に送られ、これを外ヶ浜産土神に奉安し、息災を祈れとの命があったので、広田神社に奉安、祈願してようやく病魔を退散することができた。神社誌編輯誌料に「天明四辰年、時疫流行し、就中深沢部内猖獗を極めたることを体香院様遙かに聞召され、江戸表より右疫病除けとして、箱入御守札一通及び白木造御祠入御弓二張、御矢二具を外ヶ浜両組中へ下附せられ、之を適当の社宮へ安置して重患の者あらば、その何れの組中たるを問わず、庄屋之を奉持して、頭上え頂かせ以て快復を祈らしむべしとの恩命を、時の代官笹森権蔵、佐藤忠太夫の両名之を拝し、同年七月安置奉祀せり、是よりして夷の社は疫病者の守護神として、亦大に崇敬せらるゝに至れりとぞ」然るに、天保二年に柳町、神明宮附近から、柳町杉畑へ遷宮(柳町七番ノ一号にして今の市役所敷地西南の一部)することとなった。如何なる理由で移転することになったか、その理由が判らない。遷宮の年月は神社誌編輯誌料によると、文政十二己丑年とあり、青森市沿革史には天保二年とある。同記録の出典は村井旧記より引用されたものであり、天保二年六月五日「広田の宮は今度繰替地の杉畑に御遷宮に相成候」(村井旧記)とあり、ここに鎮座する七十八年の後、明治三十四年九月、現在の社地(青森市大字大野字長島百二十四番の一号及八十五番ノ一号、此坪数千八百坪)へ遷宮した。その理由は新町から青森県立師範学校が明治二十六年に現在の市役所の敷地へ移転したが、生徒が増加してきたので狭隘を感じ、同敷地内の広田神社を他に移転することとなり、明治三十四年移転が実現したのである。(中略)拝殿-神明造(鉄筋コンクリート造り、間口七間、奥行六間)末社- 一、稲荷神社 一、淡島神社 一、乃木神社(中略)配祀-藤原実方公(奉祀年代不詳) 、天児屋根命(明治四十二年七月二十一日境内末社春日神社ノ合祀ニ因ル、該神社ハ承応三甲午年五月町民ノ信徒ニテ崇敬シタルモノナリ)。表筒男命、中筒男命、底筒男命(以上三柱ノ神ハ天保三壬辰年四月、浜町船問屋中ニテ住吉神社ヲ境内ニ建立崇敬シタルモ、明治四十三年九月十四日、本社へ合祀セリ)。倉稲魂命、猿田彦神、大宮能売神(以上三柱ノ神ハ天保九戊戌年、滝野沢重左エ門、夏原藤兵衛外信徒中ニテ稲荷神社ノ境内ニ建立崇敬シタルモ、後廃社合祀シタルニ、明治十二年十二月一日、宮田源太郎、新山清左エ門、斎藤亀次郎外寺町講中ニテ再興、明治四十三年九月十四日、復ヒ本社ヘ合祀セリ)。市杵島姫命(天保十三壬寅年伊香泰作胸肩神社ヲ境内ニ建立崇拝シタルモ、前記二社ト同時ニ本社ヘ合祀セリ)。(中略)広田神社の社殿は前記の如く度々移転があった。最初に貝森村から毘沙門社頭に遷宮した夷社の社殿については、元禄十一寅年五月の広田宮の縁起により知ることができる。「広田宮縁起書 夷神広田四社明神宮 一、本社 太神宮 一、左社 蛭子 一、右社 大国主神 事代主神 一、磯崎社 中将実方公 後に相殿になる 御詠歌 なかめやる雲井の空はいかならん今ぞ身にしむ外浜風 毎年五月五日御蔭祭 十月二十日忌籠祭 抑外浜貝森村夷之宮由来を尋るに、中将実方公之草創にして、蝦夷鎮護の御神也、別而田畑を守り給ふゆへに広田之神と祭りける。一、夷社一丈四面葦葺一宇 一、長床三間四面葦葺 一、鳥居三ヶ所橋一ヶ所 古来草創年号不詳、寛永二乙丑年三月引移被仰付候奉行森山蔵之助取扱に而御座候 一、末社春日大明神一宇 承応三甲午年五月新建 追記-夷之社五月五日御蔭祭と申唱、前浜にて仮屋取建遷宮いたし、農漁其外旅泊の船人迄群集、夜籠有り繁栄之旧社に候所、明暦二申年凶作の砌衰微仕り、元禄八亥年大凶作以来祭祀永く絶転に相成、宮居も追年零落に及、既に絶転可成申所に、津軽大蔵様御下浜の節、御参詣にて由来御尋に候間新東庫太夫委細申上候処に於て、旧社絶転に及候儀厭の旨御意有之て、本社一丈四面葦葺、馬床三間四面葦葺、鳥居橋迄御再興被仰付候、御知行之内深沢大野村に於て田方二十二人役御寄附に相成候、万歳々々 元禄十一寅年五月神主重太夫」以上の追記にある通り、まさに絶転、廃社にならんとするとき、本社、拝殿から維持費に大野村の知行田二十二人役寄附した広田宮再興の恩人ともいうべき津軽大蔵は、津軽三代藩主信義公の四子である。はじめ数馬貞経といい、のち大蔵為貞といった。慶安二年の出生で、享保十六年八十三才で没している。初め出家して高野山に登り、貞栄と称して仏道に精進し、自性院住職となった。ひそかに還俗して寛文八年弘前に帰り、兄津軽玄蕃政朝の家に入り、津軽大蔵と改名したが、兄信政(四代藩主)の怒りにふれ、金木村に蟄居を命ぜられた。元禄三年赦免となり、翌四年に三百俵十人扶持給せられた。同十年大番頭、累進して五代藩主信寿のとき八百石となり城代となったのである。広田宮は明和三年の大地震で大破したとき、柳町神明宮附近の津軽大膳の土地へ遷宮した。社殿の構造はわからない。前記の如く大膳は大蔵であるとすれば、大蔵の建てた社殿をそのまゝ移築したのであるまいか。越えて天保二年に柳町、杉畑に移転した。その時の縁起によると「青森県管下陸奥国東津軽郡 青森柳町杉畑 村社広田神社 一、祭神及由緒 略す 一、社殿七間三間 境内二千十七坪八合 一、境内神社五社 春日神社(祭神天児屋根命 建物三間二間 由緒承応三甲午年五月当所為繁栄町中にて建立) 住吉神社(祭神三筒男命 建物三間二間 由緒天保三辰年四月入津船之為海上安全浜町船問屋中にて建立)稲荷神社(祭神倉稲魂神 建物三間二間 由緒天保九戊戌年願主滝野沢重右エ門、原藤兵衛両人にて建立)胸肩神社(祭神市杵島姫命 建物三尺二尺 由緒天保十三壬寅年願主伊香泰作建立)稲荷神社(祭神倉稲魂神 建物三間二間 由緒明治十二年十一月宮田源太郎、新山清右エ門外建立)然るに明治二十六年に杉畑に青森県立師範学校が移転、校地拡張のため同地域に建築してあった広田神社、神明宮の移転が要望され、ついに同三十四年、広田神社は青森市大字大野字長島の現在地(境内千八百坪)に移転することになった。境内がせまかったので、境内に建てられていた前記末社を本社へ合併することになった。」(中略)以上の住吉神社三間二間の社殿は神器庫とし、稲荷神社三間二間、胸肩神社三尺二尺の社殿は時価にて売却、其代金を以て社務所の修繕費に充当したい旨の届出をしたところ、明治四十三年九月十四日に青森県知事から聞届けられた。(中略)右社殿、工作物及び社務所は昭和二十年七月二十八日の米空軍の空襲で焼失した。さらに戦後施行された戦災復興都市計画事業により、社地を横断する道路が設けられるなど、神社の尊厳を損ずる計画施行があったが、これが幸いし長嶋二丁目、三丁目との交通が便利となり、復興を早めた点もある。戦後、仮拝殿を建て奉祀していたが、このほど(昭和四十六年)鉄筋コンクリート本建築に着手、今年(昭和四十七年)度中に完成の見込である。末社の稲荷神社、淡島神社、乃木神社など何れも復興され、以前にまさる荘厳な神社となった。一、拝殿 神明造(鉄筋コンクリート造り)間口七間奥行六間(中略)工作物-一、献納狛犬(大正十五年、奉納者山田平太郎)一、万亀之塔(昭和四十三年建立)一、広田会館 一、社務所(中略)当神社は往古一条天皇の御宇、長徳年間、時の左近衛中将より陸奥守に任ぜられたる藤原実方公蝦夷鎮護のため、初めて外ヶ浜貝森村に建立せらる。これを夷之社と称す。爾来幾星霜、寛永二乙丑年、津軽信牧公其臣森山内蔵之助に命じて、青森町を開拓せしむる際、地を南方(現今の香取神社前面西北の個所)にぼくし、産土神として茲に遷宮、以来明和三年、柳町神明宮附近、また天保二年、柳町杉畑に遷宮あって後、明治三十四年九月現今の地(青森市長島二丁目十三番ノ五号)に遷宮、現在に至る。その間、昭和二十年七月二十八日の戦災にあい社殿、工作物等悉く焼失せるも、人心の安定と、神社の信仰心の復興にともない昭和四十六年社殿の復興とともに境内の整備が著しく進んだ。一、夷之社はのち広田宮と称せるも、明治初年、神仏混合仕分の際、社名整理の訓令により爾来広田神社と称し奉る。一、古来当神社の祭典は毎年春秋二季行われていた。春季は五月五日の節句に、秋季は十月二十日の収穫期に行い、海産、農産の守護奇瑞があった。ために住民の帰依信仰厚く、いつしか夷之社、広田宮と称された。殊に貝森村より遷宮後は春季の御例祭には、漁師等打集い、御旅と唱い、蜆貝町浜辺へ仮殿建て神幸を仰ぎ、夜籠をなし御神徳を辱うして漁事の祈願をなすを例としていたが、明暦二丙申年、地方凶作の砌、右神幸、夜籠の行事衰微に傾き、更に元禄八乙亥年の大凶作には自然中絶となった。天保五甲午年藩公御下浜の砌、親しく参拝あらせられ、特に御紋章の幔幕を御寄附あらせられてより、漁民信仰大に勃発し、ここに旧例の神幸を再興し、爾来十数年の間継続した。これから天明年間より行ってきた春季の祭日五月五日を五月二十日に変更し、其前日の十九日の忌夜に夜祭を挙行し、爾来恒例とした。所謂夜宮である。そして境内末社として春日社、住吉神社、稲荷神社、胸肩神社等も鎮座するようになった。一、広田神社を初め夷社といったという。これは蝦夷鎮護のため勧請せしによって夷社ということになったと伝えられているが、蛭子命を相殿に祭ることによって夷社と云うようになったと新撰陸奥国誌第一巻に書かれている。さらに同書に、田圃を開墾せし神徳を仰ぎて広田明神と唱えることになったと伝えられている。しかし、これは広田というは広く開墾したというに非ず、広田という神号は兵庫県武庫郡大社村広田に鎮座する広田神社のことで、祭神は天照皇大神の荒魂を祀っている。同社は何ら開墾に関係なく、同社の縁起によると、神功皇后の戦船を先導した大神である。このことについて、新撰陸奥国誌の著者は「当社近き神明宮を片岡の宮と称し、当社を広田の社と号するは、社の東南田野広く、遙に打開けたる所なれば、初は夷社と唱し、後に広田と改めたのは、直ちに神功皇后の祭りし広田社を勧請したのではあるまい。」といっている。当広田神社の祭神は天照皇大神の荒魂である点から考えると、新撰陸奥国誌の著書の言も亦うべなるかなと思われる。一、宝暦六丙子年四月、青森町五社即ち毘沙門堂、神明宮、善知鳥神社、諏訪神社、広田社の霞檀所御町分として、当神社の氏子区域は新町、鍛冶町、柳町、大工町の五ヶ所に定められ、明治四十三年十二月十二日、更に市内大字大野字長島全部が編入された。(後略)』
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青森観音堂…『杉畑へ広田宮が移ったとき、青森観音堂も同時に移転した。以後青森観音堂は広田宮の末社として取扱われた。毘沙門堂の門前に同堂があったときは、独立の境内をもっていた。青森観音堂の創建は正保二乙酉年六月で、青森繁栄のため建立され、御国二十二番の札所である。本願主は佐藤理左エ門、村井新助である。(中略)青森城代進藤庄兵衛は非常にこの観音を信仰し延宝七年に再建している。(中略)青森町民は城代進藤庄兵衛の青森町建設の功労を謝し、庄兵衛の最も信仰した観音堂の前立増長天、広目天に庄兵衛夫妻の像をかざり崇拝していた。明治初年神仏混合仕分の際、本尊を市内常光寺へ寓龕し、堂宇は其後蜆貝町無各社事代主神社の社殿に移築したが明治四十三年の大火で焼失、庄兵衛夫妻の木像は広田神社田川神官が保存、敬っていたが戦災で焼失した。しかしその後、庄兵衛の徳をしたい氏子が新しく夫妻木像を作り、広田神社に奉納した。』
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