
岩手県奥州市前沢山下。浄土宗無量山攝取院専念寺。

昭和三十三ヶ所観音霊場二十八番札所(千手観世音菩薩)。
庚申塔。

浄土宗宗歌(法然上人作)「月かげの至らぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」(平成11年8月7日瑞譽代)

寿安上堰ホタル川(ゲンジボタル生息地)

無量山専念寺由緒…『【宗派】浄土宗磐城国(福島県いわき市)専称寺の末寺【創立】文明二年(1470)【本尊】阿弥陀如来。木仏座像…御長二尺四寸(73cm)、台座より後背まで総高五尺九寸(178cm)。観音菩薩…御長二尺六寸(87cm)【脇侍】勢至菩薩…御長二尺六寸(87cm)【由緒】本寺は文明二年の創立にして、随円大和尚を開山とし常願寺と称した。六代本華和尚の万治元年(1659)上伊沢郡鳥村広岡(現胆沢町南都田)の邑主飯坂出雲宗長が、前沢領主に移封されるや、無謀にも前沢村に在る神社寺院に転退を命じ、代わって飯坂氏の御家中寺の香林寺、松岸寺、本浄寺の三ケ寺を当地に移した。このため常願寺は東山小島村(現平泉町長島)に移り、ここの仮宅に在ること四年、本華和尚は故地前沢に帰還を夢みつつ、寛文二年(1662)空しくこの地で遷化した。よって仮宅は無住となったので、本尊並に仏具一切を同宗の下伊沢中野村真城寺(現水沢市真城)に引移した。寛文四年七世中興俊貞大和尚に至り、真城寺より、本尊仏具一切を引取り、無量山専念寺と相改む(現在第三十一世)。また、以前は天台宗で、開山随円大和尚の代より浄土宗に改まった。尚、境内には閻魔堂、不動明王堂が建立されている。』

参道石段と石灯籠一対(平成6年3月吉日、安部和香子)


前沢は北上川中流域、胆沢扇状地の扇端部の台地上に位置。地名の由来は「前胆沢」説・「駒胆沢」説・地形説などがありますが不詳。「伽羅先代萩」で有名な政岡のモデルは当地ゆかりの三沢初子といわれます。
中世の前沢は南北朝期から見える地名で伊沢郡のうち。舞沢ともあります。「正法年譜住山記」永和2年条に「下伊沢郡舞沢郷之内、椙崎田千苅道於之寄進」とあります。黒石正法寺領として寄進された田地のことが知られます。「柏山平左衛門先祖の事」によりますと、柏山譜代の侍、三田仁左衛門は前沢4,000石を給されていましたが、謀叛の嫌疑をかけられて討死。三田刑部(将監)も同時に自害したといいます。三田氏の滅亡は天正16年頃の出来事かとされます。柏山家宿老としての三田氏の声望は大きく、郡内に肩を並べるものなしといわれました。三田主計にあてた葛西高信の文書1通、三田弾正少輔に宛てた葛西晴信の文書3通などが知られています。なかでも天正15年10月の晴信の文書には、三田刑部が柏山家の陣代として50騎を引率、気仙・元吉方面で活躍したことが記されています。三田氏滅亡後、柏山の一家、小山氏が前沢の領主となりました。三田氏生き残りの1人は和賀鬼柳氏の許に身を寄せました。近世には盛岡藩士となります。字陣馬の前沢城は町並を見下す比高80mの高台にあり、本丸跡は旧前沢中学校のグラウンドで今は公園。東西50m・南北120m。東・南・西の3面は断崖。城主は樫(柏)山彦九郎常治、または柏山平四郎と伝えます。三田氏滅亡後、当地に入部の樫山(小山)氏の一族とも推定。上野の白山社跡は中尊寺白山社の本宮跡と伝えます。檀ケ森は奥羽三十三番札所のうち18番漆寺長谷観音堂の旧跡と伝えます。村鎮守熊野社は天正年間に樫山彦五郎より田地3,300苅の寄進を受けたといいます。中屋敷の一里塚は平泉藤原秀衡時代のものと伝えます。楊生森は八幡太郎義家の的場跡と称します。同じく駒吸清水は義家の馬が吸い出した名水といいます。臨済宗宝林山霊桃寺は鎌倉後期の正応2年仏源禅師の開山、或いは文永6年の開山ともいいます。はじめ興化寺、慶長年間の泰安禅師によって興化山宝林寺と改められ、その後更に現在の寺号に改められたといいます。

江戸期以降の前沢村は胆沢郡のうち。前沢村宿ともいいます。仙台藩領。天和2年以降は三沢氏が知行。村高は寛永検地242貫余(田196貫余・畑45貫余)、「元禄郷帳」2,131石余、「安永風土記」302貫余(田222貫余・畑79貫余)、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに3,022石余。明和9年の家数226。「安永風土記」によりますと蔵入地4貫余・給地297貫余、人頭253、家数282(うち水呑35・借家22)・人数1,362(男733・女629)、馬149。神社は鎮守の熊野社のほか新山社・愛宕社・秋葉権現社・神明社・天神社、寺院は臨済宗宝林山霊桃寺・浄土宗無量山専念寺・曹洞宗光玉山西岩寺のほか観音堂3・釈迦堂・不動堂・聖徳太子堂があり修験は羽黒派常性院。物産は翠・簾・萱。宿駅でもあり、町住居186軒・村住居96軒、町場は七日町2町46間・三日町2町20間・新町2町24間の3町、計7町30間からなります。霊桃寺は飯坂宗章(伊達忠宗の子)の法名から名付けられたもので、天台宗北長谷漆寺として開山され、後に臨済宗の寺院になりました。菅江真澄もこの寺を訪れており「枯れし枝も花の恵をうるし寺となふ御法のしるしならまし」と詠んでいます。寛永3年にフランシスコ・イエズスが来村しており、その教導でキリシタンに入信した九兵衛(ペトロ)は奥州巡教の後に長崎で捕らえられ同7年殉教。邑学「進脩館」は文政年間に宍戸四郎左衛門が三沢宗為に建議して設立されたもので、宍戸は文武両道教授の功により天保6年三沢氏から表彰されています。大火にもしばしば見舞われており、享保9年129戸・明和8年116戸・天保5年105戸が焼失しています。地内の茂木家は高野長英の親戚で、長英が獄中から従弟の茂木恭一郎に宛てた書簡や漢詩の爪書などが現存。慶応4年会津追討の命が下り、三沢氏の前沢隊も総勢150余人の兵を組織して出陣。また、仙台藩から当村に課された御用金は551切5分でした。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県に所属。一時胆沢県庁が三沢氏の居館に置かれました。明治6年下小路に前沢小学校を開設し、同10年の生徒数262(男191・女71)となっています。同13年の村の幅員は東西約1里8町余・南北約27町余、税地は田241町余・畑151町余・宅地54町余・荒地20町余の計467町余、戸数515・人口2,561(男1,275・女1,286)、牛2、馬107、舟7(荷船4・漁船3)、車38。前沢学校の生徒数289(男217・女72)。物産は米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・麺類・茶・生糸・漁網・菜種。職業別戸数は農業391・商業117・雑業2。新町には5等郵便局があります。同22年前沢町の大字となります。

三界萬霊塔。

閻魔堂。
閻魔大王由来…『閻魔大王の胎内に大仏師(立川在住)宝永五年三月吉日の銘がある。堂内には閻魔大王座像を正面に、向って右に地蔵菩薩、左に脱衣婆を据え両側に十王仏が威儀を正して並んでいる。地蔵十王経によると「【第一秦広王】(初七日)生前の悪事を記録したエンマ帳によって裁く【第二初江王】(二七日)三途の川を渡りこの時脱衣婆に衣類をはぎ取られる【第三宋帝王】(三七日)邪淫の有無を調べる【第四五官王】(四七日)秤で罪の軽重を計る【第五閻魔王】(五七日)浄玻璃の鏡に照らして審判を下す【第六変成王】(六七日)再審を行う【第七泰山王】(七七日)未来が決定される【第八平等王】(百ケ日)【第九都市王】(一周忌)【第十五五道転輪王】(三回忌)」順次十王の裁きを受けて生れ変る世界が定まると云われ、七日ごと、年回忌ごと、追善供養する事で死者の罪が軽くなるとされている。閻魔十王の信仰は公序良俗を正す仏の教えでもあった。多くの信者は、この閻魔堂を訪れ十王を礼拝し、地獄に墜ちる事を怖れ善根を積むことに励んだのである。』

不動明王堂。

不動明王。


裏手にある石碑群(南無阿弥陀佛、三界萬霊塔等)や地蔵尊。


手水舎(御詠歌明照会、平成元年8月吉日)


灯籠一対(平成5年5月三十一世瑞譽代、寄進晋山記念、阿部敬蔵・阿部和香子)・本堂。
「無量山」。コロナウイルス感染予防のため外で合掌礼拝。

宗歌月影(法然上人作)「月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」

六地蔵。

位牌堂。

裏手墓所への道。






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