大館市山田字山田。

境内定書が石製でかっこいいですね。

鳥居横のコンクリート階段と建物(地蔵堂、平成11年12月6日新築移転)。

ジンジョ様です。当神社のすぐ近くにもジンジョ様がありました。
ジンジョ(地蔵)様は山田地域8ヶ所(館町、向館、上名、赤坂、川反、前田、新明岱、美杉)に祀られている藁人形の神様で、禍から集落を守る道阻神と考えられています。ジンジョ様のお堂を見て回るのも楽しいかも知れませんね。
男女の象徴があからさまですね。「塞二柱大神神璽」(裏面:平成30年12月5日、片岡俊仁)「塞二柱大神神璽」(裏面:令和元年11月25日、片岡俊仁)「久那斗大神神璽」(裏面:叶)「久那斗大神神璽」(裏面:叶)という4枚の木札がありました。
八幡神社参道。
「寄進八幡神社土止他修繕工事 昭和61年旧3月15日 山水建設合資会社 寄進者:社長水戸嘉七 氏子総代責任役員:浅利金太郎、片岡鉄藏、浅利岩松、岩沢信夫、田村種男、幸坂誠三」

社号標「八幡神社」(大正9年3月15日、田村規矩雄敬白)

社殿階段改修記念碑(昭和16年5月10日建立)

一之鳥居。
参道階段。

石灯籠一対(大正9年3月15日)


微妙に湾曲している参道階段。
「山田部落会所有地 地番山田字山田170-1」という標柱。

参道階段。既に社殿が見えています。

社殿は正面に見えるのですが…
参道は山田農村公園方面にクランク。

石灯籠一対(大正9年3月15日)


参道階段。

階段参道上正面。正面に馬神、左側に社殿。右側にも色々ありました。
石灯籠一対(大正9年3月15日豫備歩兵岩澤幸吉、上等兵田村源藏)


あれ?大正9年3月15日がとても多いですね。

手水石(明治29年申3月15日寄進前田組、願主幸坂米太)

狛犬一基(大正9年3月15日、淺利伊助、幸坂久助)
石灯籠一対(大正9年旧3月、秋田市石工伊藤市兵エ刻)


裏にも参道がありました。
裏参道鳥居。

裏参道の途中。当八幡神社は山田館という城跡になります。築城時期などは不明。浅利則頼の家臣勝山越後三郎が居住。浅利勝頼の攻撃により陥落し勝山一族は滅亡。

女坂。

裏参道。
女坂上。旧社殿跡があるそうですがこれのことかな。

狛犬一基。
状態が悪く詳細は不明。先ほどの一基とは対になるものではないと思います。
史蹟勝山越後三郎一族終焉之地(昭和42年9月建立)。

詳細は裏面碑文にて。「…武神勝山八幡ヲ奉ジテ…」などの文も見えるので、当神社の由緒にも関連すると思いますが、碑が大き過ぎて私の身長と視力では厳しかったので省略(状態は良好です)。

頌徳碑(建立協力者山田 浅利司 施工比内町扇田(有)小林石材店)…『慶長七年(1602)五月、佐竹義宣公常陸の国より出羽の国秋田へと国替えの折、修験となり太田の荘板子の地より霊山田代山を仰ぐ山田の地に至りし海蔵院は、阿宇山を開山致しました。爾来、比内地方の修験にあって領内の鎮守鎮護を祈り、山田郷の繁栄と安寧を専らとしたと語り継がれております。明治元年(1868)、神仏分離令により修験の活動は変更を余儀無くされましたが、その歴史や文化そして精神は今猶時代を越えて連綿と受け継がれております。此度、阿宇山海蔵院を祖とする大館町の封前髙橋文右衛門翁の末裔髙橋文太郎、謹んで代々の懿徳を称えますと共に、山田郷の安寧と彌栄を、世に蔓延する疫病(新型コロナウイルス感染症)の終息を、産土八幡大神、郷の遠近に鎮まり坐す神々にご祈念申し上げまして、茲に石碑を奉納致します。令和三年十月吉日奉納者茨城県古河市髙橋文太郎(三隆)』

「秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト」より…『大館市山田地域を一望できる高台にある八幡神社は、通称「勝山八幡」と呼ばれています。戦国時代、勝山越後三郎という地侍が治めたこの場所には「山田館」と言われる城がありました。旧山田小学校に飾られた集落マップにも登場する勝山越後三郎は、山田の人々に愛されてきた地域を象徴する人物です。戦国時代の侍の石碑を昭和に入ってから建立するところに、山田の人々の勝山越後三郎への愛着がうかがえます。山田の名が歴史に多く登場するようになるのは鎌倉時代。比内地方を治めた浅利氏が山田と関わり始めてからです。浅利氏は甲斐源氏の流れをくむ一族。平安後期の源平合戦で活躍した浅利義遠は「三与一」と呼ばれ、那須与一、佐奈田与一と並ぶ弓の名手でした。恩賞として比内地方が浅利氏に与えられ、秋田の県北エリアを舞台に浅利一族の名が歴史に登場することになります。勝山越後三郎が登場する時代は、浅利氏が安東氏、南部氏、津軽氏との勢力争いを繰り広げた時期と重なります。山田には山田館跡を中心に多くの中世城館跡が残っており、浅利氏にとって要害の地であったことをうかがわせます。小高い丘を中心に、迷路のように入り組んだ町並みが残る山田集落の姿からは、中世の侍の名残を見ることができます。豪快な人物のエピソードが残されているのも山田の歴史の特徴です。長慶金山の開発で名高い伊多波武助は、山田にある洞雲寺の再建費用を「全て負担した」と伝えられています。名僧を輩出している洞雲寺は、山田の歴史を語る上で欠くことができません。火災による焼失と再建を繰り返したこの古刹には伊多波武助が金山で死亡した鉱夫を慰霊する目的で建てた宝篋印塔という塔が残っています。森林資源に恵まれた山田には多くの入会地があり、ジンジョ様などの道阻神は農耕が盛んな地域ならではの文化とも言えます。また、農耕にはほとんどの家で馬を使用したといい、山田には中世の武士の根拠地だったころの名残が色濃く残されているようです。』
馬神(蒼前社)。

御神馬。

御神木。

巨木です。


社殿前(参道階段左側)
鳥居・階段改修記念(大正9年3月15日、石工今定五郎)

碑(奉獻大正9年3月15日岩澤由藏敬白)…『當神社明治五年四月列村社四十季一月十日昇格指定神饌幣帛料供進神社四十三季㪅合祀無格社赤坂神社曁石山神社稲荷神社愛宕神社等之數祠者也云 明治庚申之春 天行鬯謹書』

狛犬一対(平成15年旧3月15日、山田氏子一同建之)
こちらは…
如意宝珠(稲荷宝珠?)

大正9年3月15日。


社殿。
御祭神は応神天皇、火霊神、少彦名命、宇迦魂命、大己貴命。

例祭旧暦3月15日。特殊神事として400年以上続く「じんじょこまつり」(山田地蔵祭、旧暦10月末日の前日)があります。

神社庁によりますと「不詳なれど明治6年村社となる。」とだけあります。

拝殿内。

拝殿から見た境内。
拝殿から見た参道階段。どことなく館跡の面影がありますね。























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