1
秋田県山本郡三種町外岡羽立東。社地は県道211号金光寺鵜川線に面していますが、参道入口は鵜川川が流れる神社西方。社号標「保量神社」(平成17年5月5日氏子一同建立)。
2
外岡はかつて「そでおか」ともいい、袖岡とも書きました。八郎潟北部に注ぐ鵜川川の上流部及びその支流外岡川の流域部に位置。周囲一帯は金光寺野から志戸橋野に続く標高約40mの段丘地帯。中央部の台地を長峰台といい、その外側に集落が成立し地名の由来をなすといいます。鵜川川上流部の五本松地点から縄文中期の遺物、集落西方の長者屋敷という台地上から糸切り土師器片がそれぞれ出土しています。江戸期以降の外岡村は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山郡)のうち。秋田藩領。はじめ内岡村を称したといいますが未詳。藩政初期の野代-大間越街道の整備によって、中世末期の志戸橋村の西部を割いて成立した村と推定。慶長19年に向右近から藤田政之丞に宛てた福岡村開発の指紙があります。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに56石の村として図示。しかし「享保黒印高帳」では村高397石余・当高284石余(うち本田43・本田並131・新田110)と認定。独立後の猛烈な新田開発の様子が示されています。用水は小規模の堤を多数造築して補っています。羽立・逆川・黒瀬・長峯の4ヶ村が新田村の枝郷として成立しましたが、17世紀末までに黒瀬・長峯両村は廃村となったといいます。また、享保13年打直検地に際して、肝煎桜庭徳蔵は年貢率減免を嘆願したと伝えられています。「寛政村附帳」では当高300石余(うち蔵分65・給分235)。親郷は当初は森岡村、安永期以降は豊岡村。「享保郡邑記」の戸数49軒(うち枝郷分32)。「文化7年南山本郡書上帳」では当高353石余・55軒・295人・馬98頭・村有林4・入会地4・堤池84とあります。「天保郷帳」は284石余。安政4年には当高310石余・71軒・319人(肝煎信太氏)・馬52頭とあります。村鎮守熊野堂(別当は金光寺村修験宝光院、明治初年村社熊野神社に改称)のほか、伊勢堂が見えます。明治22年山本郡金岡村の大字となり、昭和30年からは山本村、同37年からは山本町の大字となっています。明治30年の戸数86・人口611。
3
一之鳥居。
4
社殿前参道。
5
二之鳥居(昭和56年4月25日佐々木政義奉納、施工者安藤コンクリート)
6
三之鳥居。
7
境内社。
8
中央に太平山。
9
向かって左に金毘羅大明神。
10
右に…何だろう…唐松様?
11
唐松講中御詠歌がありました。
12
参道。
13
狛犬一対(慶應2年)
14
14.5
こちらは不明。
15
こちらの建物も不明。
16
社殿。御祭神は誉田別命。例祭5月5日。草創不詳。明治6年8月村社。
17
石灯籠一対。
18
18.5
拝殿向拝神額。
19
幣殿・本殿。
20
本殿横の御神木。
21
21.5
拝殿内。正面に金剛力士の掛軸が見えました。
22
町指定無形民俗文化財の羽立ささらが奉納されます。江戸時代の中頃に根田(旧合川町)から伝播したものといわれ、獅子舞ということもありますがささらと呼ぶのが正しいとされます。このささらにはかつて棒舞もみられましたが、奴舞とささら舞のみが演じられています。奴舞にはサシヤッコ・下引きヤッコ・新拍子などがあります。ささら舞は一人立ち一頭獅子で、雄獅子、中獅子、雌獅子の三頭で演じられ、岩川獅子・町獅子の2種類があります。ささら舞には囃子の大太鼓、笛とともに唄がつけられます。毎年7月1日を幕開きとし、8月7日には神社に奉納、盆の13日には地域の各所で演じ、9月1日を幕納めとしています。
23
羽立ささら(羽立獅子舞)…『言い伝えによれば、どこからともなく来た3匹の獅子のうち2匹は長旅のあまりの疲労にどこかにはぐれ、最も体力があった雄獅子だけが辛うじてここまで辿り着いたといいます。そこで村人は、雄獅子の面を手本に中獅子と雌獅子の面を作り、3匹そろえて「ささら」の面にしたと伝えられています。現在は8月14日、15日に神社境内、集落「宿」で披露されています。』
24
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ