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岩手県花巻市上根子熊堂。県道12号花巻大曲線沿い、西光寺の西方。
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上根子は北上川支流の豊沢川沿いに位置。北上川沖積地帯に属する平坦地。中世の稗貫氏一族根子氏本貫地。隣接して中根子があります。地内熊野神社周辺は蝦夷塚古墳群をもって知られており、蝦夷森という古塚が累々と50基近くあったとされていますが、現在でも原状を留めているものは1基のみ。発掘された遺物から当地を「日本後紀」延暦23年5月10日条に見える斯波城と胆沢郡の間に設置を許された駅家の故地に擬する説もありますが定説とはなっていません(湯口村誌)。
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江戸期以降の上根子村は稗貫郡のうち。盛岡藩領。享保20年から万丁目通に属します。村高は「邦内郷村志」1,336石余(うち給地112石余)、天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」では1,340石余(蔵入高1,228石余・給所高112石余)、「旧高旧領」1,424石余、明治8年には1,516石余。根子村が貞享年間頃当村と中根子村・下根子村に分村して成立したといわれますが「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」にはともに根子村として記されており、幕府に対しては根子村一村として届けられていました。宝暦初年の「万丁目通御代官所惣高」によりますと村高1,337石余で、うち役高900石余・役高炭焼高318石余・新田高6石余・給所高112石余(神山又八50石・八幅又右衛門50石余・平賀儀兵衛10石余・平沢伝右衛門1石余)。「邦内郷村志」では家数146、集落別で上根子63・古館13・鬼屋敷20・荒(新)屋敷10・法前17・中野23、馬180。「本枝村付並位付」によりますと位付は上の上、家数133。集落別内訳は古館29・糸煮屋敷31・新屋敷19・法前26・中野28。天保8年には天保飢饉にもかかわらず藩が重税を課したため、当地方の農民が仙台藩に訴えて解決を図ろうと数千人が鍋倉村に結集し、中央道を避けて西山根通りを南進し、仙台藩の立会いで訴えの一部は達せられましたが、当地の上根子喜四郎などの首謀者が打首となっています。神社としては坂上田村麻呂が勧請したと伝えられる熊野神社が鎮座しており、かつての領主根子和泉守の祈念所として毎年玄米7石ずつの寄進をうけたといいます。江戸期にはこのほかに熊野社が2社ありましたが(1社は字鬼屋敷で、もう1社は字道願にあったといいます)、明治維新後に合祀されています。寺院は時宗西光寺があります。なお、地内字下田に大同2年建立という長命寺がありましたが文治年間に焼失、また地内玄蕃の北の安浄寺屋敷と呼ばれる地は寛文11年に花巻川口町に移転した安浄寺があった所です。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同9年の村の幅員は東西約28町・南北約9町、税地は田160町余・畑59町余など計263町余、戸数163・人口903(男473・女430)、馬130。根子学校の生徒数187(男107・女80)、職業別戸数は農業161、物産は米・粟・稗・大麦・大豆・胡麻・粒油・麻・絹糸・真綿。明治6年に湯口校の前身校が当村玄蕃の民家に仮設されており同9年円満寺に移転。同年上根子西光寺に上根子小学校(上中小学校の前身校)開設、上根子・中根子の児童を収容しました。同16年上根子字和田の地に校舎を新築。同年学区が2つに分かれて中根子に根子小学校を設けました。同19年上根子尋常小学校と改称、この時根子小学校を廃止して学区を合併。同22年湯口村の大字となります。昭和29年からは花巻市の大字。戸数・人口は明治22年162・985、大正6年162・1,430。世帯数・人口は昭和25年294・1,719、同28年290・1,740、同40年336・1,738。中山街道は安永8年に開削された道路ですが、現在の道路は明治26~28年にかけて完成、大正12年花巻~鉛間が県道に編入され、更に大正4~14年にかけて同街道の路面上に花巻電鉄鉛線が敷設されています(鉛線は昭和44年廃止)。大正4年上根子・中根子の2校が合併し、字熊堂に上中尋常小学校が新築開校(児童数244)。同校は昭和14~21年現在の湯口小学校上中分教場を経て同21年独立、同22年上中小学校、同41年若葉小学校と改称、同43年若葉町に新築移転。同年の児童数730。
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石塔群。
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鳥海山(明治12己卯歳8月8日)
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和讃念佛(明治26年7月20日)
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微妙に読み取れない碑。
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和讃念佛供養。
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こちらは追分石ですね。
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不明の石。
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県道12号花巻大曲線沿いからの参道(社殿北方)。
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熊堂古墳群へ。
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境内にあります。
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上記に従えば、内熊野神社周辺は蝦夷塚古墳群をもって知られており、蝦夷森という古塚が累々と50基近くあったとされていますが、現在でも原状を留めているものは1基のみとのこと。そして境内案内板に従えば原形をとどめていたものは皆無であったとのこと。
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ってことで、ほとんどは復元されたものなのかな。
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花巻市指定史跡熊堂古墳群(平成3年5月24日指定)…『熊堂古墳群は、8世紀頃、現在の上根子地域に拠点を置いていた「蝦夷」の墓と考えられており、発掘調査で熊野神社の境内を中心に10数基が確認されています。小山状の墳丘は直径約10m・高さ1.5m、周囲が円形の溝で囲まれており、中央部に川原石を積んだ石室があって、そこに棺が納められていました。副葬品は、勾玉・切子玉などの玉類、蕨手刀などの刀剣類、長頸壷などの土師器、和同開珎などで、この地域に朝廷の勢力が及んでいたことを示す資料と見られています。出土資料は、花巻市博物館に展示されています。花巻市教育委員会』
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石室。
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勾玉。
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切子玉。
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須恵器、長頸瓶。
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御神木。
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古墳は社殿の横。
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県道12号花巻大曲線沿いから参詣すれば社殿横に繋がります。
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ってことで、社殿の向き的にはこちらが表参道(東方)のようですね。
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社号標「村社熊野神社」(昭和11年旧4月3日)
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石鳥居。
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案内板「熊野神社由来」…『【祭神】伊佐那岐命、伊佐那美命、宇加之御魂命【建立】大同元年(西暦806年)4月3日【由緒】延暦21年(西暦803年)坂上田村麿将軍が胆沢の蝦夷を平げて胆沢城を築き、ここを根拠地として更に北方の平定を企て翌年、志和城を築いて北辺の警備の地としました。その時代は道路も橋も無く胆沢城と志和城との距離は一日では到達できない為両城の中間に盤基駅を設けて相互の連絡を容易に出来る様にしました。その盤基駅が今の熊野であるとされて居ります。そして坂上田村麿将軍の信仰して居りました熊野大権現を勧請しました。以前は三熊野と称して、現在地と鬼屋敷と道願と三社有りましたが、明治維新後現在の熊野神社に合祀されました。ではなぜ盤基駅が熊野であったかと申しますと、上根子には蝦夷塚と称される数多くの古墳群がありました。その数48、9との事でしたが、その古墳から大和民族の東北開拓時代に、当時の有位の官人が用いていた物が数多く出土されている事から盤基駅は熊野であることが判明しました(岩手県立博物館にも出土品の一部が展示されてあります。)この古墳群も天保年間(西暦1830年)頃まではそのまま保存されていましたが、時の奉行の命令で、畑地に開墾され、原形を残しているものが今では1ヶ所もありません。』
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参道。
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手水舎。
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手水石。
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石灯籠一対。
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う~ん…明治三十…眼痛っ!!
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狛犬一対(皇紀二千六百年記念・支那事變出征記念奉納、昭和15年9月16日)
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御祭神は伊佐那岐命、伊佐那美命、宇迦之御魂命。例祭日6月25日。
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由緒(神社庁より)…『征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、胆沢城を築き、ここを拠点地として更に北方の平定を企て、翌年志和城を築き、北辺警備の地とした。当時は道路も、橋梁も備わらず、危急相助ける便を欠き、両城の連絡を容易にしようと磐基駅が設けられ、熊野大権現を勧請した。時に大同元年(806)4月3日であった。また永禄年間(1558-1570)より天正年間(1573-1592)まで、当地の領主、根子和泉守の祈願所として、社禄を寄進されていた。』
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拝殿に立て掛けてあった神額。
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拝殿向拝蟇股・木鼻。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。
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社務所。
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神楽殿。
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石碑群。
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こちらは梵字に「天王」とだけあります。紀年銘萬延元年6月15日(當邑世話人)
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こちらは…眼潰れたっ!!たぶん庚申塔。
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月山三社(鳥海山・金華山)
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當國三十三所観世音(大正15年8月1日)
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石塔群。
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多いですね。ちょっぴり紹介。
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観音像3躰が線刻されている湯殿山碑(慶應元年かな)
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和讃念佛(明治30年8月朔日)
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當國三十三所観世音(昭和61年6月吉日建立)
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同じく當國三十三所観世音のより古いもの。
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日露戦役紀念(昭和12年9月25日)
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その他、興味のある方は現地へどうぞ!
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