青森県五所川原市広田榊森。
社号標は以前私が参拝した時のものと同じですが、新しく塗り直されており、裏面のこの部分「青森市旭町 一戸丑之助 大正十五年」だけ、このような形で残されていました。
過去の記事:『広田神明宮 & 大日如来堂 (五所川原市広田)』
鳥居。
かつての広田村大日宮。
馬頭観音堂。
力士嶽の浦作太郎之碑。
広田についてです。津軽平野北部、岩木川支流十川右岸の平坦地に位置。地名の由来は平山日記によりますと「寛永之頃広田村派之節七ツ館之古名を取、広田となる(中略)其後七ツ館村古館跡之派候に付、各改二而七ツ館と成る、往古広田と申、館主広田ノ住人と有」とあり、七ツ館の古称を受け継いだものと考えられます。江戸期以降の広田村は津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は寛文高辻帳790石余、貞享4年検地水帳1,104石余、寛保高辻帳790石余、天保郷帳838石余、旧高旧領1,107石余。当村は寛永年間に開発されて成立。寛永18年には下柏木派立(後の梅田村)と当村との間に十川橋が架けられました。貞享4年検地水帳によりますと小字に「榊原・柳ケ沼・さがり松・藤浦・あじろ」があり、反別は田103町2反余・畑屋敷13町1反余。また、御蔵屋敷、開発可能な田畑地、柳原3ヶ所、沼、永荒田、漆木4本があり、この他に除地として恵念寺屋敷、山伏清学の屋敷、大日堂地と境内林などがあります。用水は広田堰を利用。元禄3年には広田組に属し村位は上、家数50、うち庄屋1・百姓32・水呑17。同7年の諸職諸家業覚では居鯖2人が見えます。延享元年の海道宿継駄賃御定には、梅田村~広田村の距離25町20間で、夏は本荷16文・歩行夫8文、広田村~飯詰村の距離1里35町58間で、夏は本荷46文・歩行夫23文とあります。安永4年に十川橋が流失し、村中で馬船1艘を備えて渡しとなりましたが、享和2年には十川大橋が架けられ、梅田―広田―飯詰を結ぶ道にあって同橋は重要な役割を果たしました。寛政12年には御役家業として酒小売1・豆腐1・桶屋1が見えます。集落の北側に大日堂があります。なお、大日堂は明治4年に神明宮となっています。旧村社。寺院は万治元年の創立とされる浄土宗円通山専念寺が集落の南部に見えます。明治4年弘前県を経て青森県に所属。同11年北津軽郡に属します。明治初年の戸数78。村況は「十川に添而東西に家を構ひ、十川の南に一区あり、又当村の西に続て二小区梅田村の支村下梅田あり、姥萢村の支村広田姥萢は本村の西に続き一村の如し」とあり、また、特産の甜瓜について「俗に島瓜と名る甜瓜の一種にして、当村に産するは味殊に甘き故に世に広田瓜の賞あり、真黒屋敷・七ツ館村々よりも多く出すみな共に冒命して広田瓜と称す」と記します(国誌)。明治22年に栄村の大字となります。昭和29年からは五所川原の大字。明治24年の戸数89・人口495、厩56、学校1。大正4年に広田尋常小学校は栄尋常小学校の分教場となりましたが昭和16年に廃止。同37年栄中学校が姥萢から当地に移転し、同47年第三中学校と改称。同52年一部がみどり町1~8丁目となります。同55年の世帯数262・人口930。
こちらはう~ん…不明としておきます。
広田神明宮の御祭神は天照皇大神。
こちらの小祠には『奉鎮祭 屋船久久能智神 屋船豊受姫神 手置帆負神 彦狭知神 廣田水神宮新築神祠 壱宇』と見えます。
水神宮と言われると水虎様に見えてきますね…って前回の記事では水虎様と紹介していましたね。
で、こちらも水虎様と。
石灯籠一対(昭和11年)
御神馬一基(昭和37年旧10月16日鳴海貞作)
狛犬一対(明治33庚子年3月16日村中奉納)
社殿。
拝殿向拝神額。
拝殿内。
神社庁より…『創建年代不詳。元禄十五年堂社縁起修験道由緒に 「広田村 大日如来堂 寛永年中(1624~44)同村開発砌、往古堂地河添有、洪水損崩之故検堂地、有小森此、穿土地古礎顕則一宇建立…」 とある。安永5年(1776)広田組中安全五穀成就の祈願所として吹畑村八幡宮、喰川村の神明宮とともに3年目毎に組神楽の執行方仰せつけられる。明治3年神仏混淆分離調の際、祭神を天照皇大神に改め、社名を神明宮とした。それまで祀っていた大日如来像は別に堂を建立し残された。明治6年4月村社に列せられる。明治44年10月本殿造営。大正2年8月神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。昭和25年12月国有境内地無償譲与許可。昭和55年7月27日幣殿、幣殿改築。』
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