青森県青森市浪岡大字北中野天王。
浄土宗名越派行丘山西光院。御本尊阿弥陀如来。津軽八十八ヵ所霊場第二十七番札所。
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『金光上人は正治2年に師の命により東国三十三ヵ国を布教するため京都を旅立ちました。承元4年に津軽外ヶ浜の蓬田を通りかかった際に、川の中に夜ごと光るものがあり村人たちが恐れているとの話を耳にし、川を捜してみたところ、それは光り輝く阿弥陀如来の仏像でした(阿弥陀川の由来)。上人はこの阿弥陀如来を背負って布教に努めましたが、当時の浄土宗は新興宗教であったため梵珠山では修験者と論争の末、土牢に入れられるなどの迫害を受けました。土牢から釈放された上人は藤崎城主の安東氏を訪ねて藤崎を中心に布教に努めましたが、浪岡の領主が念仏宗に帰依して建保3年に行岳西光寺を建立。当時の浪岡領主は平泉藤原泰衡の子頼通で、平泉藤原が滅亡の後に縁者である藤崎城主安東氏の支持を得て現在の吉内館跡に居館し、浪岡兵衛吉六と称したといいます。上人は浪岡では東奥念仏最初の道場を開いて布教に努めましたが、無理がたたって胸の病にて建保5年に63歳で亡くなりました。その遺骸は北中野の地に葬られ金光塚と称されています。上人が建立した草庵はその後、行岳山西光寺と名付けられましたが、弘前城築城により仏像とともに弘前へ移されました。弘前へ移建された西光寺跡地には開山金光上人の墓守として小さな庵が残されました。これが現在の西光院の前身です。その後、増上寺からの許可によって再建されて現在に至ります。寺宝としては弘化4年に弘前市土手町の竹内四郎左衛門直完が寄贈した金光上人真筆の掛軸や、増上寺から贈られた阿弥陀三尊像(阿弥陀如来立像、脇侍:観音菩薩立像・勢至菩薩立像)、開山金光上人の木彫があります。』・『浄土宗開祖法然上人の高弟金光上人によって開かれたとされる西光寺は、金光上人が正念往生した(建保5年)七日町村(浪岡町五本松)の草庵から始まりました。その後北畠氏の浪岡城築城の頃に伴い四日町村(浪岡町北中野)に移されたと考えられます。京徳寺同様に西光寺も浪岡城落城後は衰退の極みにあったと考えられ、縁起等によりますと、たまたま鷹狩に来て休息していた為信があまりの零落を哀れに思って厨子入りの三尊仏を寄進し、更に供田十三石を与えたことになっています。縁起では慶長14年8月8日のこととされ(津軽一統志では慶長4年)、更に浪岡八幡宮の別当も兼ねさせられています。その時期は「浄土宗諸寺院縁起」によりますと慶長年中とされ、元和元年頃、光蓮社何某(「蓮門精舎旧詞」では寂蓮社良然)によって再興されたとします。はじめ寺町(現在の元寺町)に置かれましたが、慶安2年の大火によって大寺五ヶ寺が焼失、西光寺は翌年新たに町割りされた新寺町に移転して貞昌寺講の一角をなしました。西光寺の弘前城下への移転に伴い、四日町村(中野村)の旧地は浪岡寺とも呼ばれたようですが、後に正式には西光庵と称するようになります。弘前市新寺町の西光寺が明治2年8月に廃寺となり西福寺に合寺された(※同13年再興)ことに伴い、北中野西光庵は西光院の寺号を公称、金光上人遺跡寺院を標榜しました。』・『浄土宗開祖法然上人の高弟金光上人によって開かれた。金光は師の命により、東奥に念仏を弘めようとやってきたが、蓬田村で川中に阿弥陀如来像を見いだし、それを背負い布教、藤崎安藤氏の庇護で藤崎に摂取院を開き、建保3年浪岡・五本松の地に庵を結んだ。これが西光寺の前身で本尊は先の阿弥陀如来である。念仏の弘道に励んだが、建保5年3月25日、63歳を一期として往生し、そこに葬られたとされている。その後、14世紀末頃北畠氏が入部、顕義が浪岡城を築くのは、応仁の乱の頃と考えられているが、新館の建設に伴い、西光寺と金光の墓は、四日町村(北中野)の地に移された。北畠氏からも手厚い保護があったものと思われるが、資料的には定かではない。浪岡城の落城(天正6年)に伴い、西光寺は衰退を余儀なくされたが、「津軽一統誌」や縁起によれば、鷹狩りにきた津軽為信の好意により慶長4年再興された。慶長年中在方の寺院を弘前城下に集める命令により、正保3年(元和元年とも)城下へ移転した。慶安2年に寺町(元寺町)の寺院は大火によって五ヶ寺を焼失、それに伴い翌年新寺町へ移転した。天和4年2月25日庄屋次郎左衛門の絵図によると、現在の金光上人墓の西側に「西光寺屋敷」というのが見え、さらに四日町村の枝村山道村に「寺有」四十間三十間と記されている。ここが現在の西光院の場所と思われる。西光寺の弘前城下移転に伴い、その檀信徒は何かと不便が生じたため、跡地に庵が建てられ、「西光庵」と称した。安永元年庵再興・建立の棟札(庵主は木蓮社良誓長老)が現存する。明治初年、西光庵は寺号を公称して、「西光院」を名乗り、明治2年8月28日弘前・西光寺の廃寺(西福寺に合寺、明治13年再興。それには貞昌寺弟子木村源導和尚の力による)に伴い、「金光上人遺蹟寺院」とされ、「東奥念仏最初道場」を標榜した。』※金光上人が川から拾い上げた阿弥陀如来像は西光寺の本尊とされ、西光寺で入滅した。(御伝翼賛遺事より)※阿弥陀像を梵珠山釈迦堂下の寺に祀った。(梵珠山釈迦堂縁起より)※金光上人は摂取院で入滅(藤崎町摂取院寺伝より。摂取院には金光上人縁の阿弥陀如来像がある)※浪岡の西光院の阿弥陀如来像は室町時代末の作とされ金光上人の時代と合致しない。(弘前の文化財より)
中野村西光庵について国日記(寛政4年4月2日条)では中野村西光庵がこの4月7日が師僧の百ヶ日に相当するので、27年前の大地震(明和3年)で亡くなった人々や天明飢饉にて餓死した人々の供養のため、当月3日から9日の7日間、別時念仏百万遍の興行をしたいと願い出ています。明和3年の大地震では西光庵の堂宇も崩壊したのではないかと考えられます。現在の北中野西光院に残されている最も古い棟札によりますと、西光庵の再興は安永元年建立、同3年8月吉日入仏となっています。その時の庵主は木蓮社良誓法岸長老。普請奉行松野屋忠兵衛の名と共に大工6名の名前も見え、裏面には浪岡町域の村々の施主54名の名前が記されています。西光寺の弘前城下移転後、西光寺の代わりの役割を担ってきた中野村の西光庵を守り立ててきた檀家の方々ではないかと考えられます。天保6年に西光庵庵主は藩庁に次のように願い出ています。これまでの庵地は弘前西光寺の知行畑であったが、昨年御蔵入となった。そこで住む事は出来ず、また雪の時節は出入りが難渋なので、浪岡村領片平町寺屋敷(榊章司の土地)へ引っ越したいとして許可になりました。ところがこれは庵主が檀家や村方に相談せずにしたことであり、翌年浪岡組六ヶ村の西光庵檀家連中が勘定奉行に訴えました。現庵地は西光寺が弘前へ引っ越しした跡地であり、金光上人や後住その他250軒余りの檀家の先祖の墓もある。畑作もできる状態ではないので、御蔵入の上納は村方で代わりにやるので引っ越しさせないで欲しいと。藩庁では協議の結果、引っ越しは中止、片平町寺屋敷は元の持ち主に返し、また上納もしなくてよいことに決定。※嘉永3年7月吉日本堂再建の棟札現存(元蓮社良暁龍音代、棟梁浪岡村岡田傳八、普請奉行平野清介)
「東奥念佛最初道場・金光上人墳墓之地・浄土宗行岳山西光院」
裏面「開山上人七百年御遠忌檀中・當山第七十四世光譽観靜代・大正七年三月廿五日」
行岳西光院(東奥最初念佛道場)…『浄土宗開祖法然上人の高弟金光上人が念仏布教のため津軽の都なみおか(行岳)へ来た。波岡の領主藤原頼通(別名は波岡兵衛吉六)念仏宗に帰依したので建保三年行岳西光寺が建之された。浪岡町観光協会』
「西光院檀信徒内竝浪岡地區戰死病歿者諸英霊位・古城會總裁錦旗捧持者波岡城主二十三世北畠顕宣老公三四忌菩提・西光院供録外護之大檀那波岡御所北畠顕義公尊霊・皇子五輪塔移轉奉戴者西光院七十三世法巖老和尚品位 石垣金光上人開山所西光院境内所在五輪塔・長慶天皇皇子一品式部卿征東大将軍寛光親王尊位・應永二十二年乙未三月九日崩波岡城奉葬波岡﨑 西光院七十八世龍導代・本碑建立發願主金光上人讃仰會御詠歌部・責任者前田喜一郎翁追悼浪岡史蹟顕彰會代表皇霊廟主小田桐眞昭」
「東奥念佛最初石垣金光上人」「増上寺大教正立譽上人行誡大和尚御吟詠 流連てハ千年にちかき吉水の寸免るを見るにさしくまれつゝ」。その他に他の地から境内に移転建立されたと伝える梵字を残す五輪塔と諸霊位を刻銘した石碑あり。
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