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五本松村は東は王余魚沢村に、西南は浪岡村に接します。波岡川中流の右岸に位置し、大豆坂通が地内を通ります。村名の由来に定説こそありませんが諸説あり、伝承によりますと、鷺谷堰の畔に馬頭観音堂があり、そこの地内に枝が5つにわかれた大きな松があったとか、土地草分け有馬氏の屋敷内に、地上から五尺ばかりの四股に割れた珍しい形の松があったとかと伝えられています。集落の成立は古く、村内では遺跡が数多く発掘されています。羽黒平遺跡からは縄文晩期のほか弥生時代の土器の破庁が出土、松山寺遺跡と松山遺跡からは縄文中期・後期の土器に土師器・須恵器が出土。また加茂神社遺跡から土器や竪穴住居跡が検出。天狗平遺跡では縄文中・後期の土器や土偶が出土。
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天文年間の「津軽郡中名字」にみえる宿城・行騫山・板橋がこの村のなかに比定されます。宿城は現在も大字浪岡のうちに小字として残る淋城とする説もありますが、五本松の藤株とする説が有力となっています。浪岡御所の時代には家老赤松隼人が五本松に住んでいたとも、或いは浪岡城の北の備えとして藤株館があり、藤株山城守が居住したともいわれます。また、行騫山は松山村(字平野)とされ、かつてここに行騫山浄勧寺があったと伝えます。板橋は五本松村の枝村であった板橋村付近とされます。大豆坂通から北へ、孫内村に通じる山道にあり、今は廃村となって大板橋・大板橋溜池の地名を残すのみです。五本松村として独立したのは享保11年とされます。それまで浪岡村のうちとして七日町(昔は七日に市がたった町)といい、四日町(中野村~北中野)・九日町(浪岡村)とともに江戸初期まで浪岡村の一部を形成していたと考えられます。中世末期の浪岡城下の名残りともいわれます。
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明治初期のものと思われる絵地図(阿部家の絵地図類※浪岡町誌に掲載されています)では絵地図の上方に加茂神社が見え、更にその上方に「軽井沢鬼首塚ト称スル是…」とあり、永禄日記の元亀三年の項には「軽井沢(王余魚沢)の奥のかうべ塚鳴動諸人行キ見候。右首塚ハ田村丸(坂上田村麻呂)悪鬼を退治し、其かうべを此所に埋候処也。然ルヲ鳴候故、人々不思議ニ存候」と記されています。
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ここまでの写真は浪岡城跡から加茂神社に寄りつつ歩いてきた道中の写真です。下記から鬼神大権現堂。住所は青森県青森市浪岡大字五本松松本。五本松の鬼神社(鬼神大権現)は浪岡城跡(東館)から東へ、五本松の加茂神社を過ぎて右折した付近に鎮座しています。創建不詳。
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五本松の鬼神社は土地所有者太田ツヨ氏(大正7年生)が管理し祭事を行ってきた神社です。祭日は旧暦の5月29日。地元の女性たちが参詣に来て、手作りの野菜や餅を供えて拝み、祭日には田舎館のカミサマ斎藤ミツエが参詣。戦時中は荒れ放題でしたが、戦後に再建され、太田ツヨ氏が奉祀するようになって整備されたといいます。祭日は太田家と拝殿が宿として使用されました。この鬼神社の鎮座地は昔は罪人を処罰した死刑場(北畠時代の刑場跡と伝え、六部が来ると拝んでいた地)であったと伝わり、首塚と彫られた石塔もあったといいます。太田ツヨ氏は次のように語っています。「自分の家のことで相談したいことがありカミサマのところへ行った。すると太田家にカミサマの石があるといった。家に帰って探してみたら、物の台にして使っている石がそれらしいのでよくみたら『鬼』という文字が彫られてあった。また家の人がいろいろとその由来を聞いてまわったら、ここは昔、首塚神社があったところでそれと関連があるのではないかといわれた。それで鬼神社として祭ることにした。以前は祭りの時に町内の一軒一軒から寄付金を貰って色々な供物を上げた。」。※津軽において「鬼神大権現」といえば「(赤倉山)鬼神大権現」を連想させ、鬼神社・巌鬼山・赤倉山のカミサマとの関わりも感じさせますが、当記事では公文書による情報のみで書かせて頂いています。
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参道。下り坂です。
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鳥居跡。
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お堂の隣地には溜池があり竜神様が祀られているとのことでしたがそういった雰囲気は残されていませんでした。前々から鬼神様の池と信じられていた所であり、太田家が鬼神社と共に祭っているものです。祭っている昇り竜降り竜はカミサマが拝みに来た時に教えてくれたものだといいます。
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手水石。
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鬼神大権現の石塔。自然石に「鬼神大權現 有馬左兵衛」と刻んでいます。高さ59cm、幅52cmm、厚16cm。年代不明。
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堂宇。
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堂宇内。
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蛇の絵や絵馬が見えます。
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