
岩手県奥州市水沢佐倉河西高山。膽澤宗宮髙山稲荷神社。

水沢佐倉河は、北は胆沢川、東は北上川に囲まれた肥沃な胆沢扇状地上に位置し県下随一の米作地です。明治8年(1889)10月17日、水沢県による村落統合に伴って、佐野村と八幡村が合併して宇佐村となり、上葉場村と栃木村が合併して満倉村となり、安土呂井村・四丑村・茄子川村・瀬台野村が合併して常盤村になりました。明治22年(1889年)4月1日、町村制施行に伴って、宇佐村・満倉村・下河原村及び常盤村のうち旧安土呂井・四丑・茄子川村域が合併して佐倉河村が発足しました。ちょっと複雑ですね。

江戸期の佐野村は胆沢郡のうち、北上川右岸、胆沢扇状地の水沢段丘上に位置。仙台藩領。胆沢風土聞誌によりますと、建保5年国司北条義時が八幡村をさいて佐野村を置いたことに始まるといいます。村高は寛永検地108貫余(田105貫余・畑4貫余)、元禄郷帳997石余、安永風土記102貫余(田93貫余・畑8貫余)、天保郷帳1,115石余、旧高旧領1,026石余。明和9年の家数50。安永風土記によりますと蔵入地17貫余・給地84貫余、人頭54(うち寺1)、家数54、人数250(男137・女113)、馬56、神社は熊野社・伊勢社・白山社・稲荷社、寺院は修験寺の証成山金剛院霊験寺が見えます。寒風の熊野・伊勢・白山の3社は日本武尊の勧請、嘉祥3年慈覚大師の開山と伝えます。3社の別当である霊験寺も慈覚大師の開山。戦国期の天文年中、義永法印の中興をうけて羽黒派修験となっています。同寺は葛西一揆、柏山伊勢守の祈願所となり、田地1,000苅の寄進を受けたとも伝えます。また、佐野宿北の古館(佐野館)は大町将監先祖の住居と伝えます。宿集落の北、現在の公民館脇の畑地が館跡で通称は館畑。湿地帯(現在は水田)に浮かぶ島状の平城でした。水濠跡が残っているそうです。南北100m・東西70m。村の広さは南北13町余・東西12町余で、用水は若柳村三堰から引水し、溜高は93貫余。伊達駿河守家中の不断組が置かれた不断町があります。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県を経て、同4年水沢県所属。同8年宇佐村の一部となります。
一方、八幡村は北上川と胆沢川の合流点、胆沢扇状地の北上川氾濫原に位置。村名は安永風土記によりますと、延暦20年に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地に八幡宮を勧請したことに由来すると伝えます。当地には古代胆沢城が造築されました。延暦21年に征夷大将軍坂上田村麻呂は造胆沢城使に任命されており、同年内に築城は完工したと伝えます。その跡地は江戸期にも「方八丁」と呼称されていました。戦国期に見える村名であり伊沢郡のうち。伊沢八幡宮(鎮守府八幡)の在所。天文8年、柏山明吉は石川太郎に対して「伊沢郡柳田村ニ而二千苅、八幡村ニ而三千苅」を給与。石川氏は平泉地蔵堂の開祖と推定。八幡八ツ口の八幡古館は古代の胆沢城北外郭線近くの河岸段丘上にあります。比高5m、東西50m、南北500mの小山。頂上周縁に空濠を廻らします。館主は不明。八幡北館の川端館は胆沢城の東郭にあたります。古代の遺構を再利用したもので空濠跡を残します。館主は不明。下代の真言宗医王山伯斎寺は慈覚大師の嘉祥年間開山と伝えます。はじめは天台宗。境内に薬師堂が建っています。伊沢八幡宮鳥居前の藪中には鎌倉中期の弘長7年の板碑及び無年号の板碑があります。伯済(廃)寺薬師堂境内にも無年号板碑1基があるそうです。江戸期以降の八幡村は胆沢郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地192貫余(田186貫余・畑6貫余)、元禄郷帳1,767石余、安永風土記142貫余(田131貫余・畑10貫余)、天保郷帳1,938石余、旧高旧領1,422石余。明和9年の家数86。安永風土記によりますと、蔵入地34貫余・給地107貫余、人頭90(うち寺2)、家数95(うち水呑5)、人数493(男264・女229)、馬5、舟9(うち大渡舟1・舟橋舟5・御穀瀬取艀下舟1・渡舟1・作場通用舟1)、村の広さは南北9町余・東西12町余。神社は鎮守府八幡社・伊勢社・祇園社・新山社・飯綱社・加茂社・白山社、寺院は修験宗峨等山宝積院・真言宗医王山伯斎寺、ほかに薬師堂・弁財天が見えます。また、用水は若柳村三堰よりの引水で溜高108貫余、同村茂井羅堰よりの引水で溜高23貫余。旧跡として方八丁(胆沢城跡の土手)があります。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県を経て、同4年水沢県所属。同8年宇佐村の一部となっています。
ポツーンと鎮座しております。
境内。伝高山掃部長者屋敷跡。
鳥居(平成17年9月吉日建立、奉納小野寺正寿)
御神木。


参道を振り返るの図。

社殿。
古いけどしっかりと管理されている感じがしますね。

拝殿内。稲荷大明神の神額がありました。


棟札「奉齋膽澤宗宮髙山稲荷神社守牘 國家安寧 五穀豊饒 郡邑平和 萬民𢗲樂」「昭和十六辛巳年九月十日勤行 齋主恐白」・「奉祭祀膽澤宗宮髙山稲荷神社社殿修繕攸 天下泰平 國家安寧 五穀豊饒 郡邑平和 氏子安全 萬民𢗲樂」「昭和四十七年六月十日勤行(※崇敬講奉竒進者・地主・大工棟梁・崇敬者名省略)」

膽澤宗宮高山稲荷神社…『當社、天平勝宝2年(750)鎮守判官大野朝臣横刀が勧請したと傳えられ、膽澤宗宮と称し貞観元年(859)に當道宿禰が再興し、毎年9月10日を縁日とし祭神は「素戔嗚命」の子倉稲魂命にして諸人哀憐の心深く八百萬の災いを祓い、五穀成就を守り下さるので諸人から厚く信心崇敬を受け、昔から六百四十八束刈の祭田(稲荷田)を持ち、宗社多賀城神社と共に榮えていました。傳説では、弘長弐年(1262)高山掃部長者の屋形焼亡の時にも災いを免れ、弘安4年(1281)土々井沼の大蛇の犠(いけにえ)に擧げられた松浦小夜姫は神明の加護により難を逃れ、見分森に登って四方を見分けた時、土々井の大堤の向こうに杉や楓の梢茂り、森々たる膽澤宗宮高山稲荷神社を見渡しています。時を経て戦国の世となり鎮守府膽澤城も影を止めぬ様になって、當社又衰亡し元和4年(1618)閏3月、部落有志相協力して再度復興したが、既に往時の豪華さを失い明治17年(1884)當社大破の為同年8月、現在の堂宇を建立。以来、年々手入れを重ね、太平洋戦争の時には、地区民一同で祈願維持に務め、戦後20数年風雪に晒され、この際鉄板葺きに替えるべく、昭和44年より工匠高橋梅治氏に託して屋根の改修、堂宇の補修をなし、昭和47年6月10日落成の祝典を揚げ、国家繁栄、五穀成就、家内安全、家運隆昌を守り給えと、謹んで宮社の来歴を記し崇敬の誠を捧げます。(高山稲荷神社崇敬講)』



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