結論から申しますと…高照神社から遊歩道を使って桜林公園へ行き、あわよくばその勢いで無謀にも岩木山山頂を目指そうと試みるも達成できない記事です。
高照神社鳥居。
いにしえ偲ぶ岩木、高照遊歩道案内図(1800m)。※案内標示番号順的には岩木山神社→高照神社。
高照神社~240m~お茶の水~130m~津軽信政公廟所~85m~森岡補衛霊社~165m~後長根川~105m~溜池(休憩場)~570m~大マブ沢~175m~求聞寺~250m~蔵助沢川~20m~百沢寺霊園~180m岩木山神社~岩木山神社奥宮登拝口(頂上迠里程6,352m)~岩木山百沢登山道(山頂まで4時間15分)~1km~桜林公園
さてと…
まずはラーメンの幟に負けて、「お食事処高岡」で腹ごしらえ。近くには「高岡の森古民家カフェ山の子」もございます。
写真撮り忘れました。美味しかったです。程よい甘さがあって体力も回復!まだ何もしていませんが。
さてと…
遊歩道へ向かいます!
何か天気がかなり怪しい…
高照神社本殿。
高照神社廟所(国指定重要文化財二棟二基)…『本殿の背後約200メートルの場所に位置する廟所は、石造の津軽信政公墓二基が前後に並び、その前面の廟所拝殿、正面の廟所門と瑞垣・木柵で構成されています。廟所拝殿は平入の建物で丹塗り仕上げ、屋根は切妻造銅板葺です。廟所門は素木造の腕木門で、屋根は切妻造銅板葺で上方にyるやかに膨らむ形状になっています。弘前市』
高照遊歩道。雨が…
お茶の水。
馬場跡へ。
馬場跡。
高照神社と馬場跡…『高照神社は、宝永7年(1710)弘前藩四代藩主津軽信政が死去すると、五代藩主信寿がその遺命に従い吉川神道に基づいて、この地に神葬したことに始まります。法令整備や新田開発・産業振興など多方面に業績を残し、寛文蝦夷蜂起への出兵など様々な課題を克服した信政は、のちに「中興の英主」として顕彰されました。弘前の古名を冠する地「高岡」に所在する高照神社は「高岡様」と称され、藩主や藩士より広く尊崇されました。藩は境内を定め霊地とし、社領300石を与え、神官としての祭祀役を置き、神社の管理を行うため掃除小人らを配置し、藩による維持体制を整えました。社殿は、五代信寿が正徳元年(1711)に廟所、同2年に本殿などを建てて社頭景観を整えました。次いで七代信寧が宝暦5年(1755)に拝殿を造り替え、九代寧親が文化7年(1810)に随神門、文化12年(1815)に廟所門を建立するなど、歴代藩主により社殿群の整備が進められました。高照神社の馬場は、文政13年(1830)十代信順により構築され、完成後「神馬牽入始之儀」も行われました。歴代藩主や一族、重臣により神社に奉納掲額された大絵馬に、神馬奉納の華やかな光景を垣間見ることができます。馬場は高照神社整備の最終段階に構築され、馬場の完成をもって神社としての機能が完備されたとされます。19世紀初頭「北の黒船」と称されるロシアの脅威が迫った時期に、高照神社の整備を進展し機能を完備させたのは、信政の「神意発揚」を願い、藩の意識を「北狄の神」に収斂する目的があったものと考えられます。平成29年12月弘前市教育委員会』
高照神社奉納額絵馬。
高照神社拝殿内部。
高照神社境内絵図。
津軽信政公廟所へ。
津軽信政公廟所…『津軽藩主四代信政公は、宝永7年10月に65才をもって没しました。遺命によって五代信寿公がこの地に廟を建立し送葬しております。』
廟所前の通り。高照神社本殿方面。ここまで通ってきた道です。
遊歩道へ戻ります。
森岡補衛靈社。
森岡補衛靈社…『森岡家七代目盛岡民部藤原元隆は、四代藩主津軽信政公の訃報に接し江戸より帰藩中、津軽領内にて割腹殉死する。津軽家ではこの忠誠心に対して靈地約300平方米程を与え葬むると共に靈を慰さめたのである。』
遊歩道。
後長根川を渡ります。
砂防設備(後長根川砂防ダム1号床固工)
謎の看板。
後長根川を振り返るの図。
このような道が続きます。
新法師温水溜池竣工記念碑(昭和29年9月日建之、八十七翁松堂書)
記念碑の周囲が雑草に覆われて近寄れなかった上に、その雑草と大雨のためよく見えなかったのでかなり適当ですが内容は通じるかと…『今より約八百年前発祥開拓した新法師の水田に寛政二年の藩制により百沢地内字寺沢と国有林内後長根沢との両清水を開水に高岡と配水使用して来たが屢々の冷水害と旱魃と戦ひ抜いて来た宜なる裁政府の農政要務の補助規畫あるを好機に村當局指導の下縣経營の名で工事を起すとの部落の議決で國庫及び縣の補助を加えての巨額の豫算と荒地を開くに荒地■■てとの部落民の熱意で百沢字寺沢に昭和廿七年十月十日此■を起し翌廿八年七月十日遂に其功を竣へた工費実に三百五十万円を要した蔭に村農業委員會長笹兵治殿の特別な指導と犠牲■奮励監督力が大きい此の完遂は郷土の土深くから■生し成長し大成させる根源となり米穀穣々永く其の恵に頼り時代により放つ光芒の色香が変ってくる事を銘し後昆に傳へ将来如何に生くべきかの思想と生涯の鏡とする。』
謎の石垣ゾーン。
馬頭観世音飼馬青馬供養塔
裏面碑文…『為中野家飼馬青馬供養、平成16年10月31日中野はつゑ、隆光、隆夫、みつ、寿美建之』
途中、普通の農道みたいな感じに。
完全に土砂降り状態になってきました。
大マブ沢付近で悩む私。
山では状況を的確に判断し、潔く下山を決断できなければなりません。
ってことで、一旦求聞寺への分岐へ。
本堂の裏から向かう感じ。
求聞寺…『津軽三十三観音札所のうちの第三番靈場であり、虚空蔵菩薩を安置しております。津軽二代藩主信牧公が天海僧正に師事し、国家の安泰と子孫の長久を祈念して寛永6年眞言の秘法をもって百ヶ日の願行を行なった所であります。以来津軽藩の重要な祈願所となりました。現在は丑寅生れの守り本尊として信仰を集めています。』
何となく裏技使ってワープした気分。
狛犬一対(昭和29年旧8月13日)
さてと…大雨だけど…次回…
どうする!?yuki康…
ってことで『高照遊歩道~其之弐』へ続く…
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