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秋田県男鹿市北浦湯本隠台。男鹿温泉郷です。
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新奥の細道(八方を眺望するみち)…『●男鹿水族館GAO…平成16年にリニューアルオープン。男鹿の海を再現した大水槽や県の魚ハタハタの展示などがされている。●戸賀湾…第4のマール湖とも言われる。夏は海水浴場として賑わう。●八望台…一ノ目潟、二ノ目潟、男鹿三山、日本海など八方を見渡せる。●一ノ目潟・二ノ目潟・三ノ目潟…火山活動のとき、水蒸気やガス爆発によってできた世界的に珍しい特殊火山湖。マール(爆裂火口)という。一ノ目潟は国の天然記念物。●星辻神社(湯本)…征夷大将軍坂上田村麿呂が賊大瀧丸を滅ぼし、湯本村に霊地のあるのを見て当社に勧請したのが始まりと伝えられる。』
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3.5
菅江真澄の道(妙見堂(現星辻神社))…『文化7年(1810)4月23日妙見堂に詣でる。この堂は大同年間、坂上田村麻呂が祀った古いものであったが、文祿年間に落雷して、慶安5年(1652)に再建したが、享和2年(1802)に再び雷火に焼かれて、数々の宝物も失せてしまった。』
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湯本はかつて湯元とも記し、男鹿半島北西岸に位置。妙見堂に南北朝期の五輪塔3基、湯の尻にも同期五輪塔の塔身・笠・請宝がそれぞれ1個ずつ現存。江戸期以降の湯本村は出羽国秋田郡小鹿島のうち。秋田藩領。「正保国絵図」では本田当高63石余。「享保黒印高帳」では村高63石余・当高72石余(うち本田64・本田並5・新田3)。「寛政村附帳」では当高52石余ですべて蔵分。「天保郷帳」では村高72石余。戸数は「享保郡邑記」では17軒(うち枝郷分8)、「秋田風土記」では15軒。親郷北浦村の寄郷で枝郷はありませんが「享保郡邑記」「絹篩」「秋田風土記」ともに枝郷湯尻1ヶ村の記載があります。初期から温泉があって久保田給人等がしばしば湯治。温泉の役銀ははじめ45匁6分、地震後は縮小して銀10匁といいます。また、同書には「小屋一軒二間四間余湯壺三ケ所あり、疾小瘡の妙なり、春秋群集せり。一回り湯役」とあります。植立雑木林2ヶ所・附人植立杉雑木林12ヶ所があります。鎮守は妙見大菩薩。田村将軍利仁公が建立したという伝承を残しています。他には修験亀尾山常楽院があり周辺村落に多くの十王堂を末社として持っています。明治11年南秋田郡に所属。同22年南秋田郡北磯分村の大字となります。明治24年北磯村、明治35年からは北浦町の大字。昭和30年からは北浦を冠称、男鹿市の大字となります。
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狛犬一対(安政5年戊午7月)
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6.5
星辻神社…『【通称】北辰神社、妙見堂常楽院【由緒】延暦(782~806年)征夷大将軍坂上田村磨呂が東征の折湯本温泉で休養、この地に霊地のあるのを見て当社に勧請建立された。その後文禄年間に至り社殿は落雷による火災のため焼失す。慶安4年再建。享保3年再度火災に遭い焼亡、この時秋田城之介実季奉納の来光定の宝刀は失ったが、田村麿呂将軍の兜の正面に固定していた妙見像(御神体)は恙なく現在も守られている。また星辻神社は神仏分離まで亀尾山と称し山伏常楽院尊寿の開基でもある。【祭神】天之御中主命・大山祇命・天照大神・綿津見神【例祭】4月18日』
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五輪塔。
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文字は読み取れず。
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石田君碑(明治42年己酉8月、狩野旭峯貴撰、赤星藍城敬書)。
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碑文は読み取れず…
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って思いましたが丁寧にこのようなものがありました。
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参道御神木。
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13.5
社殿前石段。
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神社庁によりますと御祭神は「天之御中主命、大山祇命、宇迦之御魂命、天照大神」。由緒「延暦年中、坂上田村麻呂勅命を奉じ賊徒征討の際、男鹿に至り、戦勝祈願のため、湯本村に北辰神社(維新後星辻神社と改称)を勧請建立された。その社殿は壮麗にして、神威尊厳霊妙不思議は当時世人の普く知るところであった。その後文禄年間に至り、社殿は雷火のため焼滅、田村将軍奉納の兵器数多くの宝物もまた焼失す。慶安4年再建。享保3年再度火災に逢い焼亡、この時秋田城之介実季奉納の来光定の宝刀は失ったが、御神体は恙なく守られて来た。明治45年2月村社に列す。大正6年7月10日無格社稲荷神社・同八坂神社を合祀する。」
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15.5
例祭4月18日。特殊神事として柴灯祭(1月3日)。
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石灯籠一対(文政13年7月吉日)
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17.5
宝篋印塔。
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18.4
18.8
七庚申記念(平成12年12月28日、大坂谷武・古谷秀信・登藤秋雄・平賀一男・佐藤萬吉・渡辺進)
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不明の碑。
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社殿。
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拝殿唐破風懸魚・蟇股・木鼻等。
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海老虹梁・手鋏。
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23.5
拝殿向拝神額。
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脇障子。
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25.5
拝殿内。
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26.4
26.8
幣殿・本殿覆屋。
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鐘楼。
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梵鐘。
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29.5
星辻神社・鐘の由来…『星辻神社は亀尾山妙見社と称していた。江戸時代のはじめ佐竹藩の重臣渋江内膳が梵鐘を寄進され、鐘楼に掛けられていたが、祝融の災で失われた。その後、寛政9年丁巳(1797)3月吉日常楽院尊授の代に大越家が本鐘を寄進された。鐘は故あって久しく相川村の保管にゆだねられていた。平成9年春、境内地を整備するに当り鐘楼を建て旧に復することとした。鐘銘曰「大乗妙典経百部、供養 惣人数并施主、結縁大 菩提之為也」平成9年4月』
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鐘楼横の石碑群。
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大乗妙典経百部供養塔(寛政九年丁巳)
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32.5
その他。細かく見ていません。
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33.2
33.4
33.8
実は周囲に蜂がブンブン飛び回っていたので逃げてきました。
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