岩手県花巻市愛宕町。曹洞宗陽光山雄山寺。愛宕町はもとは花巻市花巻の一部。江戸期は花巻三町の1つ一日市町のうち。町名は当地に愛宕神社があったことに由来。文化~文政年間の花巻御城郭図によりますと、一日市から愛宕神社へまっすぐ向かった通りが愛宕町と記されています。世帯数・人口は昭和27年139・640(男301・女339)、同40年317・1,098(男517・女581)。愛宕神社については邦内郷村志に「愛宕堂、八幡寺の鎮守なり、その草創は不詳だが慶長年間の建立か」とあり、県町村誌には「愛宕神社、元八幡寺(今廃寺)の鎮守にして慶長十六年、南部利直の勧請なりと伝う。祭神加具土命」とあります。同社は花巻の守護神でしたが昭和30年に焼失。同40年一部が一日市・下幅となり、同時に坂本町・一日市の各一部を地内に編入。

寺号標「曹洞宗雄山寺」(昭和18年1月)

「花巻開創、當寺開基、北松斎公霊廟所在、南部利英書」

橋。

おともだち観音。

案内板「陽光山雄山寺」より…『【Ⅰ北松斎公墓碑】天正19年(1591)この地方が南部信直の所領となり、郡代として赴任して来たのが北秀愛であった。まず鳥谷ヶ崎城を花巻城と改め、それまで"四ツ家"と呼ばれていたあたりに四日町を開町新しい町作りに着手したのだったが、慶長3年(1598)業半ばにして病没した。その後任に、父親の信愛(後の松斎)が就任したのである。赴任して間もない慶長5年(1600)、旧領主に心を寄せる和賀、稗貫の残党が蜂起して花巻城を夜討ちする、という難事件もあったが、松斎はよくこれを防ぎ通した。以来、北上川を利用して物資の交流をはかるため川口町を開くなど、町作りに力を注ぎ、"花巻開町の祖"と仰がれるにふさわしい業績を残している。慶長18年(1613)8月17日、北松斎年91歳をもって卒去。陽光山雄山寺に葬る。法名、節叟忠公居士。松斎没後の北家と雄山寺に関する事項を拾ってみると、次のようなものがある。〇没後105年の享保3年(1718)北可継(松斎の三男、愛継の孫)によって、石堂の建立と供養が行われた。〇宝暦12年(1762)松斎百五十回忌に際し、北節継(可継の孫)雄山寺を再興し、寺領十五石を寄進した。〇文化9年(1812)松斎二百回忌にあたり、生前の功績により、法名に院殿号・大字号が許された。この年雄山寺の大修復を行い、松斎公墓碑が建立された。法名は、萬猷院殿節叟忠公大居士である。【Ⅱ新渡戸痴翁墓碑銘】新渡戸維民(1770-1845)は、幼名を栄吉、長じて民司平六、伝蔵などとも称した。湛泉、章卿、痴翁はその号である。明和7年(1770)花巻御給人、常賢の長男として花巻に生まれた。日本伝神武流兵学を小向景紀に師事して勉学に励み、花巻地方兵学の塾祖となった。一時藩政批判の誤解をうけ、半地取り上げの上、田名部川内に配流されたが、許されて後盛岡藩士に取り立てられ、藩の兵学師範を勤めている。長子は、三本木原開拓を成し遂げた新渡戸伝。また国際人である新渡戸稲造は曾孫にあたる。弘化2年(1845)9月7日卒す。享年76歳。当寺には、門人たちによって建立された痴翁墓碑銘がある。【Ⅲ岡山不衣句碑】岡山不衣(1885-1943)本名は儀七、花巻の豪商、伊藤儀兵衛の四男に生まれ、同町岡山直機の養子となる。明治39年(1906)岩手毎日新聞社に入社、編集長時代は卓越した政治・社会批評の論説を書き、或は宮沢賢治の作品を同紙に紹介するなど地方文化の振興に尽した。中学時代、石川啄木らの白羊会に加わったのが文学への目覚め。はじめ明星調の短歌を作っていたが、後俳句に転向、大正4年(1915)松根東洋城の「渋柿」に参加しその有力同人となり、当時岩手県を代表する俳人として活躍した。昭和43年建立された句碑の"鶏頭や夕日に染まり地獄変"は彼の代表作のひとつである。不衣は啄木が「小天地」を発行した盛岡磧町の家の住み、昭和18年(1943)そこで息をひきとった。享年59歳。花巻市』

境内案内図。

北松斎像。

向かって右側・岡山不衣、左側・石川啄木。

案内板より…『【岩手県指定有形文化財(工芸品)桶側二枚胴具足1領、兜、大袖、小具足付】指定年月日:昭和56年12月4日、所在地:花巻市愛宕町、所有者:雄山寺。室町時代末期から戦国時代に多く使用された形式の鎧であり、花巻城代を努めた北松斎(信愛)が着用したと伝えられるものです。当時の具足としては、破損箇所が少なく貴重な資料です。【花巻市指定有形文化財(工芸品)北松斎の遺品(羽織)2点】指定年月日:昭和34年9月7日。北松斎(信愛)の遺品として、具足とともに菩提寺である雄山寺に奉納されたもので、唐織りの羽織と、葵紋付の麻の夏羽織です。【花巻市指定有形文化財(古文書)太平記外古文書7点】指定年月日:昭和40年3月18日。北松斎(信愛)が筆写した太平記および書状・証文などの古文書です。江戸時代初期の南部藩の歴史資料であり、花巻の礎を築いた北松斎の筆跡として確認された数少ない貴重な資料です。』花巻市教育委員会

桶側二枚胴具足。

葵紋付の夏羽織。

太平記。

案内板「新渡戸ロード(新渡戸稲造)」より…『国際連盟事務局次長や東京女子大初代学長などをつとめる。日本の武士道の精神を紹介する本「Bushido」を刊行、日本文化の海外への紹介に大いに貢献する。「願わくば、われ、太平洋の橋とならん」という言葉を遺した国際人』・「新渡戸ロード⓫雄山寺」…『新渡戸氏第33代春治の五輪塔と、花巻系新渡戸本家初代から6代までの墓や分家の墓のほか、太田家7代までの墓があります。太田家は稲造の叔父時敏が養子に入り、稲造も一時養子に入った家です。花巻系新渡戸本家第7代維民(これたみ・稲造の曾祖父)からあとの墓と、太田家8代から後の墓は盛岡にありますが、稲造と万里(メリー)婦人・実子遠益(トーマス)の墓や太田時敏の墓は東京にあります。この墓地の中に兵法家新渡戸維民の弟子達が建てた痴翁墓碑銘があり、万里夫人が本の中で「維民の業績と貢献を記念する大きな碑が花巻にあります」と書いています。』

当國三十三観音霊場(盛岡藩領:和賀郡・稗貫郡・紫波郡)第25番札所。陸中八十八カ所霊場第69番札所(御詠歌:観音の大悲のちから強ければおもき罪をもひきあげてたべ)。奥羽古三十三観音霊場第3番札所。
山門。入母屋、銅板葺、一間一戸、四脚楼門。上層部中央には山号額が掲げられ高欄が廻っています。
本堂前。
六地蔵。

観世音(当國三十三所)

「鶏頭や夕日に染まり地獄変」岡山不衣

岡山家の墓。

本堂側から見た山門。
本堂。

御本尊釈迦如来。開基は北信愛(松斎)で、四男愛邦の死を悼み慶長3年に建立。寺号は愛邦の謚号に因んだもの。寺伝では永禄元年乾外樹碩和尚の開創とし、2世天庵玄甫和尚が師を尊んで開山したものと考えられています。北松斎は南部氏一族の重臣であり、南部信直が豊臣秀吉から稗貫・和賀・斯波3郡を与えられた後、その中心となる花巻城代に任ぜられ、花巻開町の恩人として敬愛されています。慶長18年に92歳で没し当寺に葬られました(法名「萬猷院殿節叟忠公大居士」)。享保3年に後裔である北可継によって石堂が建立され供養が行われており、更に宝暦12年の松斎百五十回忌には北筋継により寺領15石が寄進され、文化9年の二百回忌には堂宇の修復が行われて松斎の墓碑が建立されています。

北松斎着用と伝えられる桶側二枚胴具足(県文化財)や遺品があります。甲冑は戦国武将のものとは異なり質実剛健の実用的なものとされ「三社の甲冑」と呼ばれており、天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神の文字が象嵌されています。三つ葵の紋付の羽織は北松斎が2代徳川秀忠から拝領したと伝わるもので、北松斎が74歳の時書写した太平記や古文書類も花巻市指定文化財に指定されています。また、新渡戸稲造を輩出した新渡戸家の菩提寺でもあり、祖父で花巻地方兵学の塾祖として知られる新渡戸維民の墓碑が建立されています。
本堂前の石。

「陽光山」(北家十三代南部濟揖書)
堂内。


開基殿。
北信愛(北松斎)…『初め剣吉城主、大館城代などを勤めて、秋田氏や大浦(津軽)氏の侵攻に備えた。南部晴継死後の相続争いに際しては、機敏に南部信直を擁立して、三戸宗主権を獲得して九戸政実と対立した。この難局に臨んで、中央権力豊臣秀吉と結ぶことによって、この状態を打開し、近世南部藩の基礎を固めていった。晩年は花巻城代として、和賀・稗貫一揆の平定に功があり、花巻開町の祖となり剃髪して松斎と号したが、眼病が長じて、殆ど盲人と変わらなかったという。知遇を得た信直死後二代利直の城代要請を固辞し、慶長18年8月17日に没した。花巻雄山寺に眠る。彼は庶民にも慕われ、深く観音を信仰し、松斎(花巻)まつりを誘引した。』

こちらはオリエンタルショートヘアのミイラ…
ではなく、雷神とされる獣のミイラです。
鐘楼。

観音堂。



堂内。
平成3年1月26日に新築再建((株)南部家敷社長葛巻久八(大正14年5月15日生(66歳)))されているようです。

こちらの不動明王の台座に再建の詳細がありました。

『台風の為観音堂の屋根に倒木破損の為再建に壱阡万円寄進して再建したものである。更に妻葛巻リツ供養の為にも建立し寄進したものである。平成3年11月28日株式会社南部家敷グループ代表社主葛巻久八』

この中のどこかに新渡戸痴翁墓碑銘があります。未確認。

北松斎公墓碑と手前の墓碑群。
こちらは「北信愛(北松斎)伝」とありますが、とても見辛い石質だったのでパス。

境内からの眺望。
緑の屋根のお寺は妙円寺。



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