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猿賀神社。
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奥州津軽の霊地猿賀神社御由緒略記…『一、御祭神…主神:上毛野君田道命(崇神天皇の五世孫)農漁業諸産業開発並交通安全守護神。相殿:保食神(五穀農耕の守護神)。一、御由緒…御祭神上毛野君田道命は仁徳天皇55年(皇紀1027年・西暦367年)伊寺の水門に於て暴夷と戦って戦死せられた。延暦12年8月23日(皇紀1453年・西暦793年)征夷大将軍坂上田村麻呂霊感を受けて現地西方猿賀野に仮遷座し更に勅命により大同2年8月15日(皇紀1467年・西暦807年)現在地に正遷座奉った。爾来深砂宮(神蛇宮)と崇められ農業漁業諸産業交通安全の守護神として神徳四辺に遍く地方唯一の津軽の霊地として仰がるるに至った。明治4年猿賀神社と改称する。一、大祭…例祭旧暦8月15日、七日堂大祭旧正月7日。一、境内…約一万六千坪。一、本殿・棟札(県重宝)…現本殿の建立に関しては文政9年(1826年)6月29日の「奉造営奥州津軽郡猿賀山深砂大権現精舎一宇(後略)」という棟札と安政3年(1856年)9月25日の「奉修覆奥州津軽郡猿賀山深砂大権現精舎一宇(後略)」の棟札がある。本殿は素木造の簡素な社殿であるが規模が大きく梁間三間の流造で形式的にも珍しいもので平成6年4月25日県重宝(県指定文化財)となる。』
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子護り獅子。
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子護り獅子…『子を護り、向い側の獅子とともに厳しく外敵をにらみつけている珍しい親子の高麗犬です。子供の頭を撫でてあげましょう。子供を護る「お守り」が社務所にございます。』
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狛犬たくさんおります。
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6.4
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津軽三味線福士政勝顕彰碑。
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社殿。
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拝殿横の矢場前にある芳賀徳蔵先生頌徳碑。津軽スポーツ振興の父と仰がれた故芳賀徳蔵先生。昭和3年に本町の今井ラジオストアの所に医院を開業し、付近の医療に従事するかたわら、スポーツの普及発展につとめ、県体育協会長などを歴任し、本県スポーツ界に不滅の功績を残された方。猿賀神社境内のこの位置にこのような形で建てられていることから相当崇敬された人だとわかりますね。ちなみに羽賀氏の名字の由来についてですが、各地にこの地名があるので一例に過ぎませんが、下野國芳賀郡によるものとされ、又羽賀とも名乗ります。各地の芳賀郷から起こり、やがて津軽にいたって、弘前・常盤・大光寺等で活躍し定住。偉人としては徳川初期の剣客羽賀一心齋、医師で芳賀育英会創設者の芳賀徳蔵、十和田湖科学博物館長の芳賀喬一などがおります。
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裏面「芳賀先生略年譜」…『一、明治二十二年十一月九日、堀越村門外、安次郎長男として生を享く。二、堀越小、青中、仙台医専卒。大正五年門外に芳賀医院を開業。大正七年財団法人芳賀育英会創成。爾来幾多の英俊を世に送る。三、先生少青年時既に野球選手たり、後弘前野球協会幹事長として活躍。大正十二年かの弘前南塘球場を私費にて整備完成。四、先生の温情と後援を得て、道川茂作は、極東大会一万メートルに、樺沢繁市、日満華大会マラソンにそれぞれ優勝栄冠を郷土に飾る。五、昭和三年平賀町本町に移転開業。かたわら益々広く斯道に尽力せられ、青森県スポーツ界の父と仰がるるに至る。(1)中南青年陸上競技連盟結成、昭七~昭三十四、28回(俗称芳賀の運動会。(2)岩木山、猿賀両神社間往復参拝マラソン創始、昭和十二~連続至現在。(3)昭和二一、青森県体協会長。昭二四、第四回国体県団長天皇杯八位獲得。六、昭和十五・10・30文部大臣表彰。昭和二五・12・6第三回東奥賞受賞。七、昭和二十九年四月十六日逝去せらる。時に先生享年六十四。』※県民体育大会町の部における優勝杯の銀杯(芳賀杯)は先生の後継者山田竹松氏が昭和33年に金3万円を投じて純銀にて製造したもの。
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裏面台座上碑文…『積徳院廣済十三回忌昭四一マラソン三十周年昭四一記念、芳賀先生頌徳碑建立。除幕:昭和四十二年八月十九日。発企:中南青年陸上競技連盟(会長)山田竹松。協賛:青森県体育協会、弘前市体育協会、黒石市体育協会、南郡陸上競技協会、中郡体育協会、尾上町体育協会、平賀町体育協会。題字:竹内青森県知事。撰文:平賀町一灯庵タテノヤ。石工:黒石市倉島金四郎』※平賀町一灯庵タテノヤは「津軽のことば」の著者で有名な鳴海助一先生(大光寺)。
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大光寺史に『芳賀徳蔵、明治二十二年中郡堀越村に生れ、玉成高小、東奥義塾を経て、四十一年青森中学卒、大正三年十一月東北帝大医学専門部を卒業して伊東病院に勤務、堀越村門外の自宅に開業、レントゲンや入院室をも設置し地方医療界に貢献した。またスポーツに趣味あり、中南陸上競技連盟を組織して地方青年にスポーツを普及その発達をはかった。学校医となり、県体育協会長にも就任したが、終戦後公職追放をうけ、解除後は町教育委員に選任されたが任期中途にして昭和二十九年四月十六日死亡行年六十八間もなく遺族は堀越村の本宅に引きあげたが、芳賀医師の町発展のための功労大きく、自治功労者として表彰された。』とあり、頌徳碑とは死亡行年などが異なります。
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猿賀公園へ。社殿横から胸肩神社・日吉神社(鏡ヶ池)方面に抜けることができます。
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工藤善三先生の像。
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碑文…『大正八年、儀一長男として尾上町大字長田に生まれる。先生は、青森県立柏木農学校在学中から、ぶどうの研究に没頭した。同校卒業後、昭和二十八年、青森県ぶどうの会結成。同三十八年、県南ぶどう協会と合併、新たに青森県ぶどう協会を作り、初代会長に推される。また一方、栽培技術大系を定め、作付面積が全国有数となり、一大恩人と仰がれている。いま同志相謀り、胸像を建立してその栄誉を永く後世に伝えるものである。昭和48年6月16日、顕彰会長山口以佐美、撰文と揮毫宮川松子』
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