青森市浪岡大字浪岡平野。茶屋町。
浪岡川沿い。

浄土真宗大谷派昶映山(ちょうえいざん)玄徳寺。

御本尊阿弥陀如来。旧法源寺末。

寺伝では天正11年の創立(天正14年とも)、延宝7年再建。源三位頼政末孫である釈永信が出家し諸国を布教に回り浪岡に来ましたが、真宗の寺がなかったために天正11年に一宇建立・開基と伝えます。寛永19年に近隣からの出火により全焼し、青森大町に移転、慶安3年には藩命により弘前に移転しましたが、延宝2年に本山より山号・寺号が許可されて、同年再び浪岡に戻りました。五代住職玄竜和尚の時に再度火災に遭って焼失。更に貞享年中に大地震にて倒壊しており、現本堂は寛政2年に再建されたものといいます。※「御堂従建立十三歳後門造作座敷廻出来ス于時寛政二庚戌年秋八月日當寺第七釈恵泉再建也」・「屋根棟梁長谷川仁太郎 同下 山内和助 増館清吉 長谷川弥吉 八澤善太郎 前田重兵エ 大根子與五郎 常盤藤太郎 合計八名」裏面「普請世話係 于時明治廿三年 大工棟梁 山内儀助 長谷川長左エ門 長谷川惣三郎 岡田傳八 長谷川傳左エ門」・「時大正六年九月竣工 祖宗大師六百五拾回忌御遠忌謹修ニ付キ本堂鐘堂ノ大改修 工事監督山内次郎左エ門 棟梁岡田留五郎 願主玄徳寺住職釋榮教」裏面「大工 岡田秀太郎 中畑市太郎 平野初太郎 倉田勝弥 山田嘉之助 今野良助 平井吉弥 大工料一日一工八拾五銭 前食持六拾五銭 時ノ米價一俵八円」ほか、本堂庫裡鞍新築棟札(昭和16年)、玄徳寺改築棟札(昭和29年)、玄徳寺本堂屋根改葺棟札(昭和41年)といった棟札があります。

戊辰戦乱清水谷卿御転陣地(大東亜戦記念、昭和17年)。戊辰戦争と浪岡との関わりにおいて欠かせないエピソードとして、箱館府知事清水谷公考の浪岡滞陣があります。清水谷公考は榎本武揚らの蝦夷地侵攻により本州へ逃亡した新政府の蝦夷地統治の初代責任者。幕府崩壊後の明治元年4月12日、新政府は蝦夷地統治機関として箱館裁判所を設置、清水谷はその初代総督に任命されました。発足したばかりの新政府は政治や軍事の責任者に多くの公家を登用し権威付けを図りましたが清水谷もその一人でした。当時24歳の少壮公家で羽林家と呼ばれる二百石取りの家に生まれました。箱館裁判所は翌閏4月24日箱館府と改称、総督も府知事と改称。清水谷は同26日に箱館に着任、旧幕府の箱館奉行杉浦勝誠と事務引継を行いました。庁舎は旧箱館奉行所と同じく五稜郭内に置かれました。ところが榎本武揚率いる旧幕府軍は10月21日蝦夷地に上陸、箱館への進軍を開始。新政府は弘前藩にも派兵を要請して応戦しましたが、実戦経験豊富な榎本軍には歯が立たず、25日から26日にかけて清水谷公考以下箱館詰の諸藩の軍勢は蒸気船で青森に待避。榎本らは無人お五稜郭に入城し、翌明治2年5月に新政府に敗北するまで旧幕府勢力の拠点となりました。清水谷らは豪商滝屋善五郎宅でしばらく休息した後、蓮心寺に滞在。避難してきた一行の人数は25日に箱館府兵・松前藩兵約700名、26日に弘前藩兵・福山藩兵等1,100名にも及び市中は大混雑していました。その後各藩の藩兵は青森町周辺にある高田村・油川村・新城村に分散して滞在しましたが、本隊たる清水谷らは11月1日にいち早く青森町から浪岡村に転陣。その理由としては、弘前藩家老杉山八兵衛の申し立てにより、青森は要害の地ではなく、もし榎本軍が青森に進撃した場合は防備上問題があるからというものでした(榎本軍の蝦夷地侵攻を許した責任をとって謹慎したからとも。清水谷が浪岡村に滞在した期間は僅か半月ばかりで11月16日には内陸の黒石の感隨寺に転陣しています)。清水谷は高田村で昼食、同日のうちに浪岡村に到着して玄徳寺を本陣としました。
なみおか今・昔「箱館戦争青森口総督清水谷公考卿」・「広報なみおか」(平成15年9月1日号)より…『岡茶屋町の浄土真宗の寺、玄徳寺の門前に「戊辰戦乱清水谷卿御転陣地」という石碑が建っている。昭和17年に前田喜一郎建立である。清水谷卿とは明治元年・2年(1868・69)の戊辰戦争の際に箱館府知事だった正四位下・侍従清水谷公考である。公考卿は弘化2年(1845)9月6日堂上公家で羽林家の清水谷家21代権中納言公正六男として生まれた。幼少比叡山で仏弟子となったが、10歳の年に兄の死によって還俗・生家を継ぐことになった。公考16歳の文久元年(1861)に草莽の者が学習院にいたって時事を論ずることが許され、その顔ぶれの中に桂小五郎、高杉晋作ら勤王の志士があった。とくに決定的なのは憂国の探検家岡本文平との出会いである。岡本は京都の儒者池内大学の塾で代講をしていたが、池内が安政の大獄のあと斬殺されたので江戸に出、間宮林蔵の北方探検に感動し、自らもカラフトに赴き、それまで誰ひとり陸行調査したことのないカラフト全島を一周、調査した。ここで彼がみたのはロシアの武力侵略と幕府の無策だった。慶応3年(1867)岡本は清水谷邸に食客として寄寓した。岡本は北方の危機を公考卿に説いた。公考卿は政府筋に蝦夷地鎮撫使派遣を建言、さらに七箇条の蝦夷地開拓の方法を太政官に提出した。かくて蝦夷地を支配する箱館裁判所が設置され、明治元年閏4月5日公考は総督となり、同24日箱館府知事となった。しかし同年10月19日榎本武揚の艦隊が噴火湾鷲ノ木に襲来、箱館府側は防戦したが敗れ、10月25日府知事は青森へ後退、11月1日浪岡へ転陣、玄徳寺に宿した。人員は府員及び随者85人、箱館府兵30人、弘前藩兵一小隊で、清水谷卿は箱館を死守せざるを恥じ、政府に待罪書を出して軍事本営たる青森を避け浪岡に謹慎したのだった。だが朝廷は公考卿を罰せず、青森口総督に任命した。公考卿の箱館脱出はプロシア船を利用し容易だったが松前志摩守の場合は悲惨だった。松前城、館新城が相次いで落城し、11月19日地元の舟で海上に脱出するも真冬の荒天に2日翻弄され、2歳の鋭子姫は舟中にて死亡、21日平館に着岸するも藩主志摩守も弘前にて間もなく病死した。この時志摩守の妹邦子姫も5歳で乗船していたが、後に公考卿と結ばれる。公考卿は軍功により政府から永世高250石を与えられたが返納を願い出た。だが天皇はそれに及ばずとした。もっともプロシア商人に七重村の土地を貸した件では始末書をとられた。そのため国際法の知識不足を悟り、明治2年9月開拓使次官という最高官位を捨てて大阪洋学校に入り、さらに明治4年岩倉具視大使一行の洋行に加わり、ロシアに留学した。しかし病のため明治8年帰国、邦子姫との結婚生活も全うせず、15年12月31日38歳で没した。17年華族令により清水谷家は伯爵に叙せられた。』
参道・本堂。
玄徳寺の寺宝として作者不明の阿弥陀仏像が本堂に安置されています。また、親鸞聖人の自作といわれる高さ20cmほどの親鸞聖人木像や、長さ30cm幅50cmほどの為信御画(為信が北畠氏を攻めた時に、寺が加勢したということで為信から贈られたと伝えるもの)があります。その他、赤銅製の雨竜の文鎮(延宝年間に北畠城跡から出土と伝えるもの)や、糸引き如来画(室町時代のものとされ、一心不乱に拝むと指と指の間から糸が出ると伝えるもの)もあります。その他、自在海老の置物が納められており、浪岡町教育委員会の調査によりますとお伊勢参りのお土産ではないかとのこと。江戸中期から後期にかけてお伊勢参りが流行り、そのお土産として海老や竜、鯉、鳥などの縁起物があるといいます。なお、この海老置物には明珍の銘が入っており、津軽の具足師明珍が作ったという伝承が残されていますがその入手経緯については不明とのこと。また、自在海老と一緒に往来札2枚と極楽道中図絵が納められており、往来札には雪田萬之丞・山平寅七の名があり、それぞれに弘化5年4月・安政2年2月の紀年銘があります。また、極楽道中図絵には弘化5年無量庵蔵梓・売弘書林と出ています。墓地には宝暦13年6月14日銘(■禅童子)の地蔵菩薩一基、文化12~13年銘の地蔵菩薩一基、天保6年2月13日銘(■■覺徃童女)の地蔵菩薩一基があります。

同寺の妙好人に"おつる"という娘がおり、その親が困った困ったと連呼するので、何が困ったのかと問うと、お寺を再建する資金が集まらないと言いました。そこでおつるは自分の体を身売りして再建の基金としました。この話を聞いた黒石の豪商の酒屋が、それほど信心深い娘であればと、身元を引き受け息子の嫁にしたという話が伝わっているそうです。

玄徳寺のすぐ横、浪岡川沿いにある身代地蔵尊。


江戸時代の創立と伝わりますが詳細は不明。








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