
前回の記事:『伝北畠氏墓所』

2度目の紹介になりますが、前回は「伝北畠氏墓所」の(一)しか紹介していませんでした。すぐ近くに(二)もあるんですね。いずれも浪岡町指定文化財であり、住所もいずれも青森市浪岡大字北中野五倫ですぐ近くになります。なお、明治期までは多数の五輪塔が残されていたと伝えますが、現在はその一部が残存しているだけです。

まずは(一)

柵を回した墓所の中央に「北畠累代墓 太政大臣従一位勲一等三條實美書」の石碑があり、周囲には五輪塔の破片が積み重ねられています。

史跡「伝北畠氏墓所」(浪岡町指定文化財第2号、指定年月日昭和55年4月28日)…『この五輪塔跡は、国史跡浪岡城跡の主であった北畠氏累代の墓所と伝えられている。中央の「北畠累代の墓」銘の碑は、明治15年の天皇巡幸に際し太政大臣三条実美の題字により建てられた。明治初期には数基の五輪塔が残されていた記録もあるが、戦時中に多くの五輪塔が遺失し史料的価値は低下した。しかし、陸奥国司鎮守府将軍として中世史に名を残す北畠顕家の末子累代の墓所として、現在でも北畠氏子孫や地域住民の精神的柱石となっている。青森市教育委員会』

伝北畠氏墓所。

碑は神奈川県産の伊豆小松石で、高さ約173cm、幅39cm、奥行28cm。台座は自然石ですが、現在は地面の高さと大差がない状態になっています。これと同様の石碑が(二)にも建立される予定でした。その碑は明治13年に東京で製作され、題字は岩倉右大臣(具視)の揮毫により「北畠大納言守親墓」とされていましたが、製作後に品川の大火に遭遇して破損。明治15年にその一部が東京都高輪の泉岳寺にある首洗いの井戸(赤穂四十七士の討入の際に吉良氏の御首級を清めたと伝える井戸)の奥に「丹心照千古」の文字を石碑正面に新たに刻んで安置されています。※本来の正面には上下が欠けているものの「■納言守親■」の文字が残っており、側面には微かに「明治十五年八月」「浪岡村 平野淸助 前田甚三郎」と刻まれているのがわかります。
背面碑文…『嗚呼大節與日月爭光千古不磨者豈非贈右大臣北畠公其人耶而子孫門族皆守節死義與新田楠木諸族侔名可謂偉矣 公之嫡曰顯成在靈山城城陷徒船越其子顯元始来波岡據焉傳數世至三郎兵衛尉顯村而滅今其古墳在田間地僅數弓墓石疊累埋没於荒莱世莫知其誰墓異日鋤犂發掘亦未可測也於是其後裔徳本與其族三十五名及志士数百名相謀将立石表之會議官佐々木公巡視奥羽到津輕因介公乞三條相公書刺諸碑面今記其由於碑隂以諗来世 明治十五年八月 内閣大書記官従五位勲五等 金井之恭撰并書』
北畠偲徳奉賛会が中心となり、平成11年2月に新たに建立された石碑。

碑文「浪岡城主北畠氏顕彰碑」は京都松尾大社宮司佐古一洌氏の揮毫。

(二)へ。



背景に岩木山。

伝北畠氏墓所(二)(古くはサギ杜の地)は分家北畠守親の墓であると伝えますが、現存する五輪塔は形態的に不揃いであり、寄せ集めて塔形として重ねたものと考えられています。

このような敷地の片隅に…

(一)と同様に柵を回した墓所があります。

五輪塔。下から地輪・地輪・火輪・火輪・空輪。梵字はありませんが下から3番目の火輪に■(※下の写真)のような刻字があります。

明治8年頃までは五輪塔が揃っていたそうで、この他にも五輪塔があったものと思われます。高さ約137cm。
確かに寄せ集め感がありますね。



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