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岩手県奥州市胆沢小山。蛸の手親水公園。「蛸の手」が分水工に関連する名前かと思ってしまうのですが、「蛸の手」というのは地名です。
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小山についてです。胆沢扇状地扇央の東南部、岩堰川中流域に位置。地名の由来は下総国小山城主小山朝政の孫時忠の居城があったことに因むとも(小山村誌)、地形が小丘陵で小山の連続であることに因むとも(胆沢郡誌)いわれており諸説あります。地内字上佐布の開田工事中に尖頭器が発見されており旧石器後期末の遺跡と推定されています。鎌倉期の小山村は伊沢郡のうち。平泉中尊寺文書の文永9年6月23日関東裁許状に「小山薬師堂免田参町」と見えます。同じく経蔵別当相伝系図にも弘安10年拝任の行朝について「往古私領小山村愛染明王免田畠以下所職等知行」と記されています。嘉元2年7月8日法橋朝賢置文にも「私領小山村惣領分以下事」と見えます。当村が経蔵別当職に付属する寺領として長く相伝されたことが知られています。戦国期の永正4年11月26日、葛西左衛門尉は小山郷その他を馬籠長之助に給与。古城(現前沢町)の小山城は集落の西、明後沢(小山川)南の台地上にあります(比高約30m)。本丸から三の丸を含めて東西200m・南北80m以上の広さ。今は大部分が水田となっており空濠だけが残るそうです。城主は小山(相山)九郎。柏山伊勢守明吉の三男に生まれた九郎は、折居・小山・中畑を領して奥州に並びなき大力の早わざで聞こえました。天正9年には前沢城主三田将監を討ち取ったといいます。小山城の別称は九郎館。樫山(柏山)八郎の居住という八郎館も小山城の一部と推定。姥沢鍛冶屋敷の宗角館は明後沢の北(現前沢町古城字姥沢)。館主不明(仙台領古城館)。羽場の熊野社は延暦20年坂上田村麻呂の勧請と伝えます。白山社は平泉中尊寺白山社の末社と推測。小山城下の曹洞宗妙法山大林寺には行基作という釈迦如来木像があります。古城字明後沢田畦畔には鎌倉末期の嘉元3年銘の板碑があります。なお、江戸期の小山村の端郷上野は徳岡・堀切の2地域から成っていましたが、堀切は永正年間に「堀切郷」として見えており、徳岡大橋には武田館と称する古館があります。
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江戸期以降の小山村は胆沢郡のうち。仙台藩領。本郷と端郷の上野からなります。上野は古くは宇和野とも書きました。本郷分の村高は寛永検地129貫余(田118貫余・畑10貫余)、「元禄郷帳」1,131石余、「安永風土記」142貫余(田123貫余・畑19貫余)。また端郷上野分の村高は、寛永検地では上野村新田として236貫余、「安永風土記」641貫余(田533貫余・畑107貫余)。本郷・端郷分あわせて「天保郷帳」7,881石余、「旧高旧領」7,900石余。また、明和9年の家数496。「安永風土記」によりますと本郷分は蔵入地129貫余・給地11貫余・百姓知行地1貫、人頭113、家数119、人数594(男326・女268)、馬123。神社としては熊野社・白山社、寺院は曹洞宗妙法山大林寺、修験は羽黒派善行院、他に観音堂があります。同じく端郷上野分は蔵入地154貫余・給地486貫余、人頭420、家数446(うち水呑27、堀切分205・徳岡分214)、人数2,289(男1,277・女1,012)、馬641。神社は徳岡鎮守八幡社・堀切鎮守蔵王権現社ほか神明社・明神社・愛宕社・御駒社。寺院は臨済宗伝翁山忠功寺、修験は羽黒派の善性院・吉祥院・円信坊・真誠院と当山派養寿院、ほか聖徳太子堂・観音堂・弁財天堂があります。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県所属。なお、上野を構成する徳岡・堀切は明治5年の資料には第12大区第27小区徳岡村・堀切村として見えています。明治6年堀切一番・堀切二番小学校と徳岡一番小学校が開校。同8年本郷分が古城村の一部となります。同13年の幅員は東西約3里20町・南北約1里24町、税地は田784町余・畑416町余・宅地104町余・荒地96町余の計1,403町余、戸数509(うち農業505)、人口3,732(男1,975・女1,757)、馬755。小学校の生徒数は男子のみで堀切学校100・徳岡学校47。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。同22年以降、役場ははじめ字南峠、後に字高橋、更に字館に置かれました。明治22年の戸数557・人口3,971。同30年堀切青年夜学会を結成、同34年青年報徳会と改称。同39年小山信用購買組合設立。大正13年水沢よりの定期バスが1日2往復で運行開始。同14年の戸数836・人口5,605、水田933町余・畑459町余で計1,393町。昭和8年40講566口の頼母子講(加入者1,415)を組織。同20年小山陸軍飛行場を建設しましたが間もなく終戦。世帯数・人口は同23年1,240・8,184(男4,062・女4,122)、同30年1,347・9,107。同30年胆沢村の大字となります。昭和42年からは胆沢町の大字。一部を昭和30年水沢市真城、同34年前沢町前沢地区に編入し、同52年水沢市真城との間に境界変更を実施。
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耕地整理紀念碑(昭和9年4月建之)
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なかなかの大きさですね。
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6.5
徳水園も比較的近い場所にあるので、その陰にあって話題性に乏しいのかも知れませんが。
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7.4
7.8
可動していなかったのが残念。
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8.5
案内板「蛸の手分水」より…『「蛸の手」の地名の由来は不明ですが、昔も今も道路と水路とがここで分岐し、まるでタコの足のようになっています。寿庵下堰の重要な分水地点でもあります。平成11年3月胆沢町』
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注意看板。
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弱いですね。この大きさなのに弱すぎますね。
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この大きさの円筒分水工ならば確実におちると死にます。
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至極当然です。
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