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造坂より春の岩木山。
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坂下にある開墾紀念碑…『抑々此ノ開墾地ハ寛政年間ヨリ宮地村ニテ愛護セル地ニシテ明治十五年産馬共同社ヲ設立シ畜産ヲ計リタルモ明治四十四年創設セシ保護組合ニヨリ大正二三年ニ亘リ栗ノ造林ヲ完成シ地方稀ニ見ル美林ナリシ䖏ナリキ大東亞戦争終戦ト共ニ急速ニ逼迫セル食糧ノ缺乏ニ堪エス永遠ノ救濟ヲ計ル為メ開墾組合ヲ組織シ昭和二十一年三月二日縣知事並營林局長ニ開墾ヲ出願國有林ノ貸下ヲ受ケ栗松約三千石ノ伐採後組合員九十三名ニ土地ヲ分割鍬下ヲナシ晩秋ノ風雪早春ノ烈霜ト闘ヒ辛苦艱難遂ニ開墾ヲ完成セリ謂フニ此ノ事業ノ達成ヲ見タルハ關係官廳及團體ノ支援ニ依ルト雖モ亦以テ弘前營林署長農林事務官井上省一氏ノ明快ナル裁断ト村長三上重造氏ノ絶大ナル指導鞭撻ト聰明ナル見識ト盡瘁ニ俟ツシモノ實ニ多シ茲ニ地方産業開發ニ関スル事績ノ梗概ヲ右ニ勒シ永ク後世ニ傳ヘントス 岩木村農業會長 笹兵治撰 髙山松堂書』
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造坂にあるお山参詣の看板裏にひっそりと八幡宮が鎮座しているとの情報を頂きまして、たまたま行く機会がありましたので参拝してみました。
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あの裏ですか…ちょっと不安…笑
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造坂を上った先に道がありましたが鬱蒼としていたので、逆側から迂回して向かってみました。
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鎮座地は弘前市宮地富田。位置的には羽黒神社の北方。「宮地村天和の図」(天和書上の村絵図)では造坂上の雑木立場広の西に「八幡」の名が記され、「八幡山」の中腹に位置しており、当部落の創立と共に存在した古社であると考えられています。菅江真澄の津軽の奥にて「南に羽黒の神をまつり、山の北に八幡山が眺められ、新法師というむらがある。」という記述が見えます。
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正面参道。
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見下ろした造坂。
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参道沿いにある安産祈願碑三十周年記念…『恩師鳴海泰太郎氏ノ薫陶ヲ受ケ本村助産婦トシテ従事スルコト多年産一万人ニ達シ幸ニ皆安産シ実ニ歓喜ニ堪ヘザルトコロナリ今年開業三十年ノ記念ニ際シ茲ニ有志者各位ノ多大ナル賛助ヲ得記念碑ヲ建立シ母体ノ安全産児ノ健康ヲ永久ニ祈ルト云爾 昭和二十八年五月十日 松本津満謹識』・裏面碑文…『松本氏ハ我カ婦人會々長タルコト二十年信望ヲ受クルコト頗ル厚シ本年産児ノ為記念碑ヲ建立スルニ當リ満腔ノ誠意ヲ捧ケ之ヲ賀ス 特別後援者…三上三造、三上藤五郎、小山専一、木村富栄、田村夘之吉、三上源一、田村義雄、三上作十郎。婦人後援者…山田ゆき、笹みつ、三國すみ、笹その、三上あくり、山本ちよ、花田なよ、太田てる、横山いそ、清藤くり、田中あき、對馬あぐり、美濃又して、福士きさ、佐藤さき、佐藤なほ、小山とし、兼平いよ、須藤はつ、玉田つな、松岡つさ、櫻庭湯津、今くり、山本なら、兼平いさ、中畑やさ、藤田つま、佐藤やゑ』※鳴海泰太郎は由緒書(賀田鳴海泰太郎由緒書)のある旧家であり、詳細は岩木町誌(旧家=鳴海恭太郎家)に載っていたはずです。※松本津満(松本ツマ)…明治32~昭和37年、中津軽郡岩木村宮地の人。大正3年青森師範付属小学校高等科卒。中津軽郡大浦村賀田の開業医鳴海泰太郎のもとで見習看護婦として働くかたわら看護婦、産婆の試験に合格し、大正12年から産婆を始めました。父三上藤之助は地方の実力者であり"殿様"と尊敬された人です。娘のツマも"殿様のツマさん"として親しまれ、開業以来昭和29年までの30数年間の実績は1万人を超えました。その間、愛国婦人会、国防婦人会の会長を20年以上務め、また、昭和22年には初の婦人村会議員として当選。婦人問題をはじめ、社会福祉問題に奉仕し、農村家庭の貯蓄、募金、慰問などに尽力しました。昭和29年に年配の婦人層が中心となり組織された白菊会は松本会長の死後も発展を続けました。高松宮妃殿下賜盃、賞勲局総裁賞、愛国婦人会長賞ほか数多くの表彰を受け、生前の昭和28年には村内の婦人会及び有志一同が、開業30周年と婦人会長20年を記念して八幡長根の山腹に記念碑を建立しており、これが当記念碑になります。
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宮地についてです。岩木山の南東麓、岩木川支流後長根川の沿岸に位置し百沢街道に沿っています。後長根川は丘陵地の間を屈曲して流れており、平野部に出る辺り、左右に集落が形成(馬子橋、二ツ屋、田ノ尻、築館、諏訪、宮地、蔵王などであり、それぞれ発生の年代や成立の由緒があると考えられていますが史料に乏しく不明であり、この地域を一括して宮地としています。例えば葛原南部に続くところは小字の宮地で昔は葛原が親村、二ツ屋や諏訪は諏訪神社を中心とした地域、馬子橋は昔姥姑林で、菖蒲川という古村から生長し、白山様の古社が中心、築館や田ノ尻は館跡が部落の起こり、蔵王は蔵王権現ゆかりの部落)されています。地名の由来は正保2年、弘前藩三代藩主の津軽信義が建立した諏訪明神が鎮座することによると伝えます。地内には羽黒神社境内ほか5ヶ所に及ぶ遺跡があるといいます。中世には葛原の一部をなしていたと考えられ、葛原祐清の居館であった葛原館跡が旧岳陽小学校の跡地にあります。
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宮地村は寛永17年の津軽百助にあてた津軽信義黒印知行宛行状に村名が見えます。村高は正保高帳、寛文高辻帳ともに403石余で、貞享4年検地水帳では623石余(田576石余・畑屋敷56石余)、寛保高辻帳403石余、天保郷帳445石余、旧高旧領453石余。貞享4年検地水帳によりますと、小字に宮本・沢田・富田があり、反別は田55町4反余・畑屋敷19町4反余(うち屋敷地9反余)、漆木は4,111本。元禄3年には駒越組に属し村位は上。弘前城下から岳へ至る百沢街道沿いに立地しており、元禄7年には街道の改修に松並木が植林されています。元禄16年、4代藩主信政は領内に薬草の植付けを行いましたが、当村には朝鮮人参が植えられたといいます。元禄3年、諏訪明神の神官佐々木常陸が寺子屋を開設。また、幕末から明治初年にかけて三上藤右衛門が五代・宮地・葛原各村の有志子弟約20名ほど集めて自宅教授を行い、須藤半之丞も宮地・新岡・新法師の子弟有志10数名を集めて自宅教育をしています。神社としては羽黒神社・諏訪明神が見えます。羽黒神社の御祭神は倉稲魂命で開創は大同2年坂上田村麻呂と伝えます(確証なし)。諏訪明神は正保2年に3代藩主信義の開創によると伝えており御祭神は武甕槌命。明治4年に弘前県を経て青森県に所属。同11年中津軽郡に属します。明治初年の戸数は37でうち支村諏訪8。村況は山がちで田畑が多くないため、柴や薪を売って生計を補助する者が多かったと伝えます。同9年頃に菖蒲川村を合併。同年諏訪小学を開設し、同12年の教員数は男1、生徒数は男8。同年の共武政表によりますと、戸数56・人口379(男194・女185)、馬68。物産は米・大豆・粟・蕎麦・薪。同15年に葛原村とともに産馬共同場を設立。同22年岩木村の大字となります。
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社殿。小祠を屋根で覆っている形です。
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社号標的な石碑。
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「八幡宮塔■講中」と見えます。紀年銘は無いように思えましたが、私の目に見えないだけかも知れません。
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八幡宮。元々八幡山中腹に鎮座した八幡宮であり、百沢街道の切り開き等によって変貌し、明治5年には廃社となるも、その後信者によって再建された私社です。由緒については不明ですが最勝院蔵安政2年の神社微細調には「八幡宮 祭神 誉田別ノ命 駒越組宮地村 八幡宮一宇 右神社建立年月相分不申候 一、本社 板造四尺 一、雨覆萱葺 一丈四面、村中にて再建し来る 一、棟札 寛政四壬子年、文政九丙戌年 一、社地東西参間、南北四間 一、境内東西拾四間、南北八間御除地権太夫抱」と記されています。
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中はかなり荒れていました。
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少し綺麗にしようと思いましたが、虫がいたので私には無理でした。
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この後、嶽温泉郷へ向かったら…
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嶽猿軍団に遭遇。
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猿自体は珍しくないのですが、軍団というに相応しい物凄い数だったので思わず足を止めてしまいました。
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写真には写っていませんが30頭くらいいた気がします。
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