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弘前市宮地宮本。羽黒神社尾根の麓の蔵王部落に鎮座。宮地の蔵王部落は蔵王権現を縁とする部落になります。
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高館山(※説:安東氏の居館とされ、山上が高館跡。※享徳2年に安東義李は大浦郷狼倉館において南部氏の率いる六千騎余の軍勢による攻撃を受け自害。また、宝徳4年に義李の拠った狼倉館が落城した後、その家臣桜庭らは高館において討死。この狼倉館を高館とする説等あり)の西麓を通る目屋道に添ってできた部落であり、一部は賀田村に属し、一部は宮地村に編入されていました。古くから五代で百沢道から分かれた道が蔵王を通り、高館山の西麓を経て弘前市東目屋地区の国吉へと通じていました。
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「(前略)あるいは目屋の沢にわけいり、新穂の滝暗門の滝などを見にゆく道がある。南に羽黒の神をまつり、山の北に八幡山が眺められ、新法師という村がある。山のふもとにも、もと、しんほっしという部落があり、また宮地というところがあるのは、遠いむかしに何とかいう宮がそこにさすらい来られて、世をいとい、出家されて、新発智となられたゆかりの地名であるそうだが、いまは文字を書きたがえている。五代というところは、その御台があったともいう。百沢寺を造営するというときに、坊をかりにつくり、そののちに、いまの寺のあたりにうつしたとかで、それで新坊地の名がのこったとも伝えている。」by菅江真澄(白井秀雄)
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高館山へ向かう坂下にあった簡易水道記念碑(1958年、弘前市覚仙町、斉藤為三郎)。
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『我が蔵王部落は今から凡そ四百年来の部落なりしが不幸にも飲料水に恵まれず用水堰の水を使用し以来融雪期降雨時は言うに及ばず近年田畑は農薬の使用甚しく部落民の衛生上真に憂慮に堪ず今回生活向上並びに衛生的見地から部落民の総意に依り簡易水道設置を従弟沢水源地に計画し部落民の醵金と岩木村当局の多大なる助成に依り今年八月上旬に起工九月下旬竣工を見たるは部落を挙て喜びに堪ざる事なり。茲に竣工の碑を建て之を記念す。昭和33年12月建之 木峰福士健謹書』※裏面碑文には岩木村々長石田喜一郎、村議会議長三上盛司ほか、副議長、紹介議員、五代総代、顧問、工事施工委員長、委員などの名が刻まれています。
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リンゴの花に包まれた道を通って蔵王堂へ。
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蔵王堂鎮守の杜。
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8.5
蔵王堂前にあった石碑。
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読み取れず。
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参道。
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鳥居。
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かつて境内には径六尺余の大杉、栓の木の老木がありましたが、大杉は明治末期、栓は大正6年に切り倒されています。栓の木を伐った記念書(「製材記念 大正六年十一月拾八日 持主 村上勇三 買主 造材人 乃木銀三郎 木挽 古縣 板橋栄七 高岡 福士宗太郎 葛原 対馬伊之助 正直の心に神宿る。健康に勝る富貴なし…」)が蔵王堂に納められています。
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堂宇。かつての堂社は明治5年に一旦廃社となり後に信者が再建。
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蔵王堂は古くから村上清男家の氏神でした。今も蔵王堂には村上姓が数軒残されており、この部落の草分は村上清男家、木村又五郎家、三上正雄家であると伝えます。
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安政2年神社微細調より…『駒越組座尾村 蔵王堂 祭神 蔵王権現 一、蔵王宮一宇 右初発建立年月相分不申候 一、本社板造 弐尺四面 一、雨覆萱葺 八尺四面 一、棟札 寛政四壬子年・文政五年壬午年 一、神事 隔年村中ニ而 一、社地 東西三間・南北四間 一、境内 東西七間・南北五間・御除地権太夫抱』※ここでは「座尾」という表記が見えますが、他にも資料によっては「砂王」という表記も見られます。
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16.5
「宮地村天和の図」(天和書上の村絵図・天和4年)では「小字蔵王権現四尺四面、堂地四間に四間、雑木拾五本四尺廻より五尺廻り迄、杉七本弐尺廻りより五寸廻り迄として鳥居一基あり」と記されています。なお、宮地の元半三郎屋敷内にかつて牛頭天王があったそうですが現在は所在不明であり、明治5年に廃社となったままのようです(「駒越組牛頭天王 一、牛頭天王一宇 右初発建立年月相分不申候同村半三郎屋敷内ニ御座候村中にて再建仕来候 一、本社境内共弐間四面御収納地半三郎抱云々」)。
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境内案内板「蔵王権現」より…『祭神は蔵王権現であり、当地の地名が蔵王とされるのは、蔵王権現に由来する。権現とは本地の仏が日本の人びとを救済する為に権(かり)に神となって現れたとするもので、九世紀後半以降に吉野(奈良県)の金峰山で崇拝された修験道(山伏)独自の神である。修験道では十世紀以降に蔵王権現を、釈迦・千手観音・弥勒菩薩の徳を兼ね備えた神として崇めている。安政二年(1855)の神社微細調に、「蔵王宮一宇、右初発建立年月相分不申候」とあるように、その勧請は詳らかではないが、この地に集落が形成された津軽家四代信政の頃(天保三~宝永七・1646~1710)とされ、天和四年(1684)の村絵図に「蔵王は宮地村として建家一軒」と記されていることから、その頃に「蔵王権現」を氏神とする村上清男によるものと思われる。堂社は明治五年廃社となったが、後に信者によって再建され今日も深い信仰を得ており、堂内には珍しい蛇・猫・狐の古絵馬がある。平成9年12月岩木町・岩木町教育委員会』
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境内社の稲荷神社。
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19.5
こちらは…
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オシラサマのようです。宮地では桑の木で作った馬と女性の形のオシラサマをカミ(上)とシモ(下)でそれぞれ遊ばせていたといいます。カミでは2月末から3月初旬に有志による当番制で行われていましたが現在は廃止され、シモではたまに花田家や三上家のオシラサマを持ってきて行われていましたが、こちらも廃止され、その後、春にシチカムラ(7ヶ所の神様へ参詣する行事)だけ行われていましたが現在はわかりません。
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入魂式昭和61年4月6日とありました。
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