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秋田県北秋田市増沢上ノ山。増沢農村公園向かい。※なぜか私の地図には「八幡神社」とありました。
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増沢についてです。「ましざわ」とも呼び、阿仁川の下流左岸部に位置。北西方の秋田杉に覆われた山林地帯は中世初期から国郡の境をなします。「三代実録」記載の古代の蝦夷村「椙淵村」は当地区を中心にするといい、中世末期に当地方を領した浅利一門浅利則光は、当地に拠って杉淵氏を称したといいます。また、当地は山中を東流する沢名により、悪間沢(悪麻沢・悪熊沢・悪魔沢とも書く)と称しましたが、寛文12年に佳名を求めて増沢と改称。江戸期以降の増沢村は出羽国秋田郡南比内のうち。秋田藩領。慶長7年7月、佐竹氏が当地方支配のため米内沢城に派遣した赤坂朝光の施政に対し一揆が発生した際、当村の杉淵数馬は赤坂氏に加担して一揆鎮圧に功績があり、禄高50石の藩士身分に抜擢され、小阿仁村本郷大肝煎を勤めます。以後の当村は杉淵氏の動向とともに展開。2代数馬(徳右衛門)も延宝元年20石加増。4代徳右衛門の代に士分を離れ村肝煎に専念。6代市右衛門は白畑沢に堤を構築し新田開発に功がありました。7代市右衛門は当村設置の藩御米蔵と提携して文化4年に蔵宿を開業。9代市右衛門は苗字帯刀御免。10代市右衛門も安政2年増沢の河岸堤防工事を竣工。その他、安倍家・成田家も当村肝煎を勤めます。石高は慶長7年頃の村高107石余と推定。「正保国絵図」まで悪麻沢村として90石と図示。「元禄7郡絵図」では増沢村90石余と図示。両絵図はともに本田当高の記載。「享保黒印高帳」では村高261石余・当高155石余(うち本田68・本田並35・新田52)、「寛政村附帳」で当高169石余(すべて蔵分)と認定。「天保郷帳」は155石余。戸数は「享保郡邑記」から「秋田風土記」まで95軒。「寛政郡邑記」では馬70頭と記載。村鎮守は神明社。当地方は親郷不設置で、当村も大阿仁下郷の村中の1村として年行事が郷用を勤めます。広大な山林は「大増沢」の名称下に藩の御直山指定、当村はその麓村として管理を担当。御札山にも指定され、その間に当村の草飼地が許可。また、漆植林も盛んであり、万延2年には植付166本、中周り1尺以上の木が38本あったといいます。明治6年隣接の麻生村と小瀬山境界をめぐり紛争。明治22年北秋田郡大野村の大字となります。
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石段上の二之鳥居。
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眺望。
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狛犬一対(昭和51年9月16日、タカノス町佐藤石工店)
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6.5
石灯籠一対(昭和62年9月15日、小笠原勝郎)
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7.5
御祭神は天照大御神、天宇豆売神、豊受大神。
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例祭日9月16日。
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雪見灯籠一基。
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石灯籠一基。
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11.5
手水鉢(平成6年9月吉日、杉渕繁)
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当社の創建年代、由緒等は不詳。明治6年村社。
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拝殿内。
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幣殿・本殿覆屋。
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15.5
境内社。
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色々ありました。
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17.5
唐松神社。
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観音神社。
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観音像。
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今木神社。
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21.5
稲荷神社。手前に牛もいますね。
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青面金剛王。紀年銘は明治かと思いますが、狭かったのでちゃんと見ておりません。
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石殿一基と不明の石。何かはわかりません。ちなみに神社庁によりますと境内神社として「宇受売社」とだけあります。
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参拝を終えて帰ろうとしたら何やら足元で変な動きをしている丸い物体が…
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蛇でした。木の枝を巻き込んで自分自身も絡まっているような変な動きをしていました。
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