岩手県紫波郡紫波町片寄十二神。位置的には東北自動車道の紫波SAの東。県道13号盛岡和賀線沿い。

片寄は南流する北上川中流右岸、同川支流滝名川下流右岸に位置。地内には漆立遺跡をはじめとする縄文中~晩期の遺跡が多く、字大明神には弥生時代の遺跡・円墳などがあり、各地から土師器・須恵器も出土。戦国時代は戦国武士片寄氏の本拠地。斯波郡のうち。郡主斯波安芸守家長(定)に従って飯岡城攻略に活躍した人々の中に、片寄文任・片寄吉三郎らの名が見えます(志和軍戦記)。飯岡城の落城は元亀3年の頃といいます。志和馬場の八幡宮は片寄吉三郎の鎮守で、京都石清水八幡宮を勧請したものと伝えています。天正16年、斯波氏没落ののち、中野修理は片寄3,000石を賜り、片寄修理と称しました。修理は九戸政実の弟で、斯波家の婿となり高田吉兵衛と称しましたが、天正14年に出奔、岩手郡中野に住み、南部家による斯波郡攻略の先兵となりました。南部信直による片寄村の給与はその功績によったものです。修理康実(直康)の子である正康は慶長17年郡山城に移りました。字中平の柳田館は片寄城、あるいは中野館・吉兵衛館ともいいます。安倍道・奥大道など古くからの交通路を見下ろす丘陵上にあります。東・南・北の3郭からなり、空濠・土塁が残ります。昭和50~51年の東北自動車道建設に伴って館址の一部が発掘されており、薬研堀の堀跡、土塁の柵列、掘立柱の建物跡などのほか、古瀬戸・青白磁・古銭などが出土。天正20年の諸城破却書上には「志和郡之内 片寄 山城破 中野修理持分」とあります。400m×300m、比高58m。字漆立の墳館は大明神山の東麓、柳田館と同じく安倍道を見下ろす位置にあります。古館・漆館とも称します。東北自動車道工事のために東側の約1万㎡が発掘・調査され、土塁・掘立柱建物跡や中世~近世の集合墳9基などが検出。200m×250m、比高35m。字上久保の上久保館は黒沢川段丘の北端にあります。120m×150m。幅5mの濠が東・西に残ります。

江戸期以降の片寄村は紫波郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。紫波通に属します。村高は「正保郷村帳」1,075石余(田1,012石余・畑63石余)、「貞享高辻帳」1,275石余(田1,173石余・畑102石余)、元禄10年の「郷村御内所高帳」では片寄通村と見え3,151石余(田2,895石余・畑255石余)で、その内訳は北片寄1,786石余(田1,637石余・畑149石余)・南片寄1,364石余(田1,258石余・畑106石余)、「天保郷帳」3,297石余、「旧高旧領」2,730石余。元は糠塚村・片寄村の2ヶ村で、寛文4年2ヶ村が合併し、更に南片寄・中片寄・北片寄の3ヶ村に分村し、明治4年再び3ヶ村が一村になったといわれています。また、明暦2年頃から南片寄村・北片寄村・糠塚村が各々一村として、安永5年頃から南片寄・中片寄と金田村・糠塚村を含めた北片寄村の3ヶ村として藩には把握されていたともいわれます。幕府には片寄村一村として届けられていたと思われます。但し、金田・糠塚は元禄10年の「郷村御内所高帳」では土館村のうちに記されており、南・中・北の3ヶ村の合併は明治5年ともいわれ、明治10年には金田は土館村の字地として見えています。大瀬川村上平野は八幡通・寺林通の9ヶ村と当村の入会地とされていましたが、文化3年に当村の入会が拒否されたことから双方に負傷者の出る騒動となっており、当村は大瀬川村地内への入会を断念し、同年岩ノ目沢からスルス沢に通じる新道を人足161人を動員して3日間で完成させて、以後その道を利用して地内の上平野で採草するようになりました。地内の寺院としては浄土真宗願円寺、浄土宗隠里寺・称名寺が見えます。称名寺ははじめ専修院と称しており、元和5年隠里寺住職であった故白和尚が弟子曇哲との紛争から本尊と檀家16戸を擁して同寺を去って創立したもの。当地域に鍵屋流の隠し念仏を伝え広めた木村養庵は、享和元年から当村に滞在して表面は医業と手習い学問の師匠をしながら布教し、他村からも帰依して当村に移住する者もありました。文化元年に秘密裡に修行するところからキリシタンと誤まって伝えられるようになり八戸藩によって追放。明治4年八戸県、以後弘前県、青森県、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同6年当村の一部が土館村に編入。同10年の村の幅員は東西約1里17町・南北約33町、税地は田299町余・畑205町余・宅地30町余・荒地47町余・鍬下56町余の計639町余、戸数211・人口1,383(男721・女662)、馬386。片寄学校の生徒数106(男105・女1)。職業別戸数は農業207・工業1、物産は米・大豆・小麦・粟・稗・蕎麦・蘿菔。同22年志和村の大字となっています。昭和30年からは紫波町の大字。明治22年の面積783町余、戸数269・人口1,839。
庚申塔。


七庚申塔(昭和63年9月)

石灯籠一対(明治18乙酉年10月8日)


石塔群。ざっと紹介。適当に見たのであまりに当てにしないください。


馬頭社

七庚申・庚申塔

庚申塔・七庚申・南無阿弥陀佛(明和9壬辰天10月15日)・山神


水神(昭和13年旧7月28日、施主畠山勇三郎)・山神(大正4年)

馬頭観世音(昭和10年7月19日)

庚申塔・七庚申(明治13年、大正3年、明治40年)

八將神(昭和)

右は三十三所観世音かと思いますがよく読み取れず、左は庚申塔(明治44年9月26日大組講中)

庚申塔・五庚申(明治~大正)

庚申塔等。

圎満大権現(大正元年9月23日)

庚申供養(安永4乙未天旧12月17日)

青麻大権現塔(文政9年)

庚申塔。

庚申塔、庚申供養塔。


南無阿弥陀佛(明和9壬辰稔7月16日)

金毘羅。

神楽殿的な建物。

社殿正面。
社殿に連結している建物。

社殿。
神社庁より…『【祭神】大己貴命、少彦名命【祭日】例祭9月1日【由緒】不詳。明治4年(1871)10月村社に据えられる。【境内社】水天宮、庚申、馬頭観世音』




この近郊では永正4年開山の浄土宗隠里寺が薬師如来を祀っていますね。


拝殿向拝神額「薬師堂」。鰐口です。





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