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「(前略)左に松のみふかういや立るなかに高岡のみやところありといふ。かくて坂下れば百沢の村なり、救聞持法を行ふ寺あり。虚空蔵ぼさちをすゑて寺も救聞寺という。百沢寺に入て小法師のあないにまかせてめぐる山門いや高う。十一面観音、五百阿羅漢をすゑたり。こは寛永五年の頃ほひ国の守信牧の君とかや造らせ玉ひて山に女の登らんこともとどめ給ふたりとなん。なべていらか立ならべたるさま、都にたとへてもいはば地は山かげながら、凡大徳寺に似たり。祝さきたちて下居の宮の玉だれちかう、みてくらとりてはらひ清む、このほくらは岩木三所大権現あがめ祭るは、岩木の嶽に之のみねあり、左に観世音をあかめて寺あり、岩鬼山観音院西方寺とて十腰内村にありし。右のねは薬師ぶちをあがめて鳥海山景光院永平寺とて松代村にありし、なかには弥陀ぶちをあがめて岩木山光明院百沢寺といふ。これなん元尊法印のひらき玉ふ。この寺も十腰内にありつるを、今ここにぞうつしたる。昔は十腰内に至りこの村より岩木根に登るをまほの路とせり。」by菅江真澄(白井秀雄)※(「左に松ばかりがふかく茂っているなかに、高岡の宮(高照霊社(高照神社))があるという。こうして坂をくだってくると百沢の村である。救聞持法を行う寺があり、虚空蔵菩薩をすえて、救聞寺という。百沢寺にはいって小法師の案内にしたがい、境内をめぐった。山門はあちそう高く、十一面観音、五百羅漢が安置されている。これは寛永5年のころ、国の守信枚とかがつくらせなさり、女人が山門にはいるのを禁じられたという。いらかのたちならんでいるさまは、都にたとえていえば、山かげの地ではあるが、おおよそ大徳寺に似ている。神主がさきにたって、下居の宮(岩木山神社)のたますだれに近くでて、幣をとってはらい清めた。この祠は岩木三所大権現をあがめまつっているが、岩木の岳に三つの峰がある。左の峰に観世音をまつる寺があり、岩鬼山観音院西方寺といって、もと十腰内村にあった。右の峰は薬師仏をあがめて鳥海山景光院永平寺といい、もと松代村にあった。なか峰は弥陀仏をまつり、岩木山光明院百沢寺という。これが元尊法印のひらかれた寺である。この寺も、もと十腰内にあったが、いまはここにうつされている。むかしは十腰内まで行き、その村から岩木岳に登るのを主な登山道としていた。」)
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2023年4月。春の岩木山神社に参拝。
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「百沢寺十坊図」によりますと、現在の一之鳥居の場所に黒門、向かって黒門左に番所、右に下馬・高札があり、参道向かって左には手前から百沢寺家来・神主山田・南泉坊・西福坊・福寿坊・観音堂、右に手前から鐘楼坊・神主阿部・法光坊・満福坊・徳蔵坊・円林坊・東林坊があります。神橋を渡ってすぐ右手に百沢寺(現在の社務所の位置)があり、山門の先右手に神楽殿・鐘楼・湯立場などがあり、正面に大堂・下居堂とあります。下居堂右手には弁才天。天保7年の「本藩寺社帳」によりますと百沢寺いは衆徒として宝積坊・万福坊・山本坊・南泉坊・円林坊・徳蔵坊・福寿坊・西福坊・東林坊・法光坊の十坊があり、筆頭は宝積坊で知行高はいずれも16石。十坊は天正17年正月の火災で焼失し、為信によって再建。その後、津軽信枚が百沢寺へ下した慶長13年7月の書状に「同寺十二坊」の屋敷について年貢免除とあり、この時点では十二坊。元禄14年の「岩木山百沢寺光明院」と称する書上には、百沢寺は十坊の他に社家と称する安部常陸・山田日向の二家の神職を配下に置いていたとあることから、十二坊とは十坊にこの二家を併せた数字ではないかとの見解もあります(※石塚雄士「百沢寺十二坊について」)。なお、余談ではありますが、旅館山陽の主人(太田家)では神棚に御神体として鬼の顎と伝わるものを箱に入れて祀っているそうで、中は絶対に見てはならないという言い伝えがあるそうです。
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その他、関連記事等も参照ください。
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