三戸郡南部町苫米地御嶽。御嶽神社祈祷殿と御嶽神社本殿の2回に分けて紹介いたします。※一之鳥居…令和元年5月5日夏堀組会長奉納
達者村百景…『達者村(南部町)には、豊かな自然が織りなす風景や町並み、田園風景など心癒される景観が数多くあります。眺めることにより心が癒され、達者(健康)になれるような優れた景観ポイント百箇所を「達者村百景」として選定しており、御嶽神社地区では次の五箇所が達者村百景に選ばれています。【景観ポイント】一、御嶽神社 二、千本杉 三、一字一石経経塚 四、御嶽神社本殿 五、御嶽神社本殿脇にある古木』

社号標「御嶽神社」(支那事變凱旋記念、昭和16年5月17日建之)

石灯籠一対(明治15年8月17日)


手水石。

神楽殿。

苫米地は馬淵川中流左岸の河岸段丘上に位置。地名の由来はアイヌ語の「トマ」(茅)、「ベチ」(淵)であり、茅の茂る淵という意味になります。南北朝期から見える地名で中世のとまへちは糠部郡三戸のうち。建武元年8月6日の入道跡注文に「一、とまへち さとや 一丁」などと見えており、年貢などの調査が行われています。同年4月晦日の多田貞綱書状によりますと「三戸横溝新五郎入道跡」が南部師行らに預けられており、当地は鎌倉末期に横溝氏が地頭代であったと推定。下って戦国期には永禄10年頃と推定される10月16日の南部晴政書状に「四戸殿人馬別ニ被立、馬見吉・森之腰へ被致打立、かせき被申候」、同日付の東政勝書状案に「昨日も四戸殿人馬別ニ被立馬候而」とみえ、永禄年間の三戸南部一族の内紛の際に当地は晴政派の軍勢の出撃の要路となっています。なお、当地は三戸南部氏の支配下にあり、天正年間には当地の苫米地館に苫米地因幡が居館して当地を支配していたといいます。現在も馬淵川左岸の河岸段丘上に館跡を残します。江戸期以降の苫米地村は三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領、寛文5年からは八戸藩領。名久井通に属します。村高は正保郷村帳579石余(田444石余・畑134石余)、貞享高辻帳899石余、元禄10年高帳1,243石余(田892石余・畑351石余)、内訳は本村1,076石余(田812石余・畑264石余)、片岸122石余(田78石余・畑44石余)、高橋28石余(田6斗余・畑27石余)、麦沢16石余(田1石余・畑15石余)、天保郷帳1,199石余、旧高旧領1,011石余。延宝3年検地が実施されて横目付・竿打が派遣され、また元禄6年にも検地役人が任命され、斗賀・剣吉・虎渡の諸村とともに検地が実施されています。当村の生産力は上と位置づけられており、周辺地域の中では生産力が高かったのですが、これは当地が馬淵川中流の内陸部に立地しており、冷たい東風の影響を受けなかったためと考えられます。八戸藩用人所日記の明和9年6月17日条に「御膳米御風味有之、剣吉・苫米地・名久井・嶋守之内苫米地剣吉宜候由申達ス」とみえ、藩主の御膳米の産地とされていました。この良質の米を利用して酒造業を営んで財をなした豪農も出ています。延享3年の戸数92・人数533、馬189。当村は周辺村々の中心をなし、寛文12年には切支丹禁制・捨馬禁止・毒薬禁止・忠考奨励など6枚の制札が立てられた制札場でした。また、天明2年領内総馬改の馬寄場が縮小統合されましたが、その際でも当村は馬寄場の1つに指定。雑書の慶安元年12月10日条に、苫米地左衛門太郎が白鳥を生捕りにして献上し、その褒美に米1駄を八戸御蔵にてもらったとあります。同じく承応3年10月6日条によりますと、三戸城廻から剣吉・斗賀を経て当村までの地域や高家・晴山(現岩手県軽米町)方面で漆が行われ、漆61盃と漆の実20俵が集められています。延宝8年には櫛引村・剣吉村とともに伝馬・一里番の負担過重を訴え出ています。宝暦5年の凶作では16人の死者が出ています。寺院は北西部に曹洞宗法円寺があり、寛保4年の諸寺院寺号山号帳に名久井法光寺末寺とあります。また神社は字御岳に天正15年赤沼備中守某の勧請とされる御岳神社が所在しており御祭神は大山祇神。
灯籠一対。


手水舎。

参道。
手水石(明治17年旧4月17日)

狛犬一対(昭和10乙亥年5月17日)
台座家紋。

鳥居(令和元年5月5日有限会社山金社長奉納)
並行する稲荷神社参道。

石殿。稲荷社。

鳥居(令和元年5月5日、有限会社澤向住建社長奉納)

稲荷神社。稲荷小祠はさいかちの木の脇に祀られています。元々は八戸市根城狐窪の民家で祀られていた稲荷様で、近年になってここに遷したもの。また、稲荷小祠は忠魂碑を建立した際に池を埋め立てたため、現在地に移安したとのこと。

石が祀られている小祠。境内には民間から移された様々な神々の小祠を祀っているとのこと。

石殿2基。なお、下調べでは大正13年の金毘羅大権現碑があるとのことでしたが確認できず。

こちらは・・・可愛いです。

稲荷神社の隣の建物。

何かはわかりませんでしたが、横には山神の碑(大正4年7月14日)がありました。

御嶽神社参道に戻ります。御嶽神社祈祷殿前の子安堂。

献額には「こやす様 おしら様 こせん様 昭和六十年元旦 八木田喜市書」。秘宝殿ともありました。
子安堂内。堂内祭壇中央には厨子に納められた木彫子安地蔵尊が祀られ、その両側にも他から納められた木彫子安地蔵尊が安置。福田の子安さまの隣にはヒトカシラの厨子入りのおしらさまが安置。

奥南部民謡碑(平成3年3月)

「ひとり寂しや馬喰の夜道 鳴る輪くつわの音ばかり 奥南部の郷土のうた」

社殿(御嶽神社祈祷殿)。宮司八木田家の裏手に鎮座。ネギヤの山の奥の院に対する遥拝殿です。車の御祈祷など雑祭はこちらで執行。御祭神は大山祇命、天照大神、嶽大明神。例祭日5月5日。奈良県の吉野山から移った修験者を起源とします。南部町片岸地区には明徳4年に修験者が死者を供養するため築いたとされる八木田の十三塚がありますが、その頃の創建といわれます。元々は町内の別の場所にありましたが天文13年に現在地に遷りました。本殿は裏山を登った先の高台にあります。敷地内には樹齢700~800年といわれており、町の達者村百景に認定される千本杉をはじめ、シナノキ、サイカチなどの古木があり、歴史の長さを伝えます。春に行われる例祭では地元の片岸えんぶり組の演舞や、小学生のマラソン大会などが実施されるそうです。神職の禰宜と、この地域を根岸と呼んだことから地元の人々はネギヤ祭と呼んでいます。
南部町HPより…『天文8年(1539)に八木田一族の主君、赤沼備中が憤死したので、その次男、天台修験大学は父の霊を鎮めるため、天文13年(1544)、八木田に神社を建立し、嶽大明神として祀りました。永禄3年(1560)には、苫米地字御嶽の現在地に遷宮し、以後、大山祇命と天照大神を祀りました。また、御嶽神社本堂への登り口、通称千本杉のところに宝永7年(1710)建立の一字一石経経塚があります。』

神社庁より…『御祭神:大山祇命。例祭日5月17日。境内853坪。本殿2坪、幣殿3坪、拝殿15坪。御嶽神社は天文13年(1544)9月15日の創建に係りはじめその鎮座は村内の八木田で今片岸字八木田六十五番地の処であろうと云う。伝説によれば、前述の通り苫米地館の赤沼備中守が同社の別当八木田氏に命じて八木田におらしめ、付近の警戒に当たらせたと云うことであるが、この備中が天文8年(1539)にこの世を去っており、この神社の創建はその歿後5年と云うことになる。また宝暦5年(1755)別当大学坊自らの書上によれば、「苫米地御嶽山棟札紛失建立年号相知不申候」となっている。後この八木田の地より今の処に遷坐されたとのことであるが、その地は即ち苫米地字御嶽二十四番地である。祭神は、はじめ蔵王権現と申したが、今は大山祇神で最近天照大神を追祀した。蔵王権現は金剛蔵王とも申し、修験道の開祖、役小角の祈願により大和吉野の金峯山に示現された同道、悪魔降伏祈請の神であると伝えられる村社に列せられた。』

なお、苫米地神明宮近くに鳥居がありますが、実は御嶽神社の看板です。

ってことでその看板「南部藩主祈祷社 福地村総鎮守 御嶽神社(一粁先)」(昭和60年12月30日、奉納者中川原宇三郎、中川原好明、八木田義廣)より…『【御祭神】天照大神、大山祇命、赤沼備中守【境内社】稲荷神社、薬師堂、子安堂【主たる祭事】初詣1月1日、例大祭5月5日、秋例祭9月17日、新嘗祭12月17日【その他の神事】自動車安全祈願、地鎮祭、お宮詣り、厄除、病気平癒、安産、その他諸々の祈願祭【主たる文化財】赤沼備中守の御神像、御神剣、大宝院八木田義貞に対する院号御免朱印状、歴代の権大僧都墓地、御神木の杉、榀(しな)、皀莢(さいかち)、八木田地区の館跡、修験者道場十三塚の跡、根城南部と津軽曽我の古戦場跡【御由緒】明徳4年(1393年)山形蔵王より修験者として片岸字八木田六十五番地に住みついた八木田一族の祖先は、氏神として蔵王大権現を祭り村の警戒の任に当っていたと伝えられている。天文13年(1544年)一族の主である苫米地館主赤沼備中守の次男天台修験大学は、父の憤死5年後に金属で御神像を造りその裏面に嶽大明神と刻み御嶽神社を創建してそれを祭り初代別当となった。永禄3年(1560年)10月25日苫米地字御嶽二十四番地の現在地に遷宮され、爾来天照大神と大山祇命を追祀し、村社として又村の総鎮守として広く信仰を集めている。第17代宮司八木田義廣、禰宜八木田三博、社務所84-2435番』

忠魂碑(陸軍大将西義一書)。裏面寄附者芳名。

従軍者芳名碑。

地引耕地整理揚水記念之碑(昭和26年5月17日)

御嶽神社改修事業記念碑(平成6年5月吉日)。裏面には御祭神「大山祇命、天照大神、嶽明神」ほか、役員芳名が刻まれます。

東屋。

『御嶽神社本殿(南部町)』へ続く










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