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北秋田市本城館ノ下。本城神社(本城八幡神社)。一之鳥居前から浄福寺が見えます。
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二之鳥居。
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本城についてです。かつては本庄とも記し、阿仁川の流域、本城御嶽の北麓に位置。地名の由来は本庄、所謂広い田地によるといいます。縄文土器片を出土する向本城遺跡・桐木岱A遺跡があります。戦国期の本庄村は陸奥国比内郡のうち。天正19年正月吉日豊臣秀吉が秋田実季の当知行地を安堵した朱印状写に「本庄村」461石余とあるのが初見です。背後の高台に館跡が現存。四方の尾根に2、3の濠を掘り、頂上に郭状の平坦面を残します。館神は八幡で北麓にあります。館主は松橋高知と称し、慶長7年逐電したといいます。小字館ノ下があり、近世ここに住した秋元氏は鹿角秋元氏の後裔といいます。中央部を阿仁川が北流。その範囲は右岸の向本城周辺、左岸は江戸期の新田目・本城御嶽麓に及ぶ地域。浅利氏衰退後の天正中期、秋田実季支配のもとに出羽国秋田郡内の村として編成。江戸期以降の本城村は出羽国秋田郡阿仁小猿部のうち。秋田藩領。村高は「正保国絵図」本田当高596石余、「享保黒印高帳」村高759石余・当高589石余(うち本田402・本田並105・新田82)、「寛政村附帳」当高362石余(すべて蔵分)、「天保郷帳」589石余。肝煎は南部浪人であった秋元氏が代々受け継ぎました。享保年中の戸数69軒、寛政年中は98軒。枝郷の向本城村は貞享3年に洪水のため川欠になり村全部を坂の上に移転。村高の変動からも阿仁川の氾濫は他の村々と同様村困窮の因となっていました。鎮守は八幡・伊勢の二社。明治22年北秋田郡米内沢村の大字。
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参道両脇に池がありました。
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手水舎。
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手水石の裏に石碑がありましたが何かはわからず。
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こちらは何でしょうね。
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石祠に馬。
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相善神社でしょうか。ちなみに神社庁によりますと、境内神社として稲荷神社、神明社、三吉神社、金刀平神社、相善神社、愛宕神社、庚申ノ社があります。
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狛犬一対(大東亜建設祈願)
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11.4
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庚申神社(庚申ノ社)
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左は青面金剛ですね。
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神厩舎。
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御神馬。今気付きましたが背後上部に色々と書かれていますね。
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参道石段。
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左側に並ぶ御神木はなかなかの巨木です。
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特に石段上の巨木が一際存在感を放っております。
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でかっ!凄い迫力!太さが凄いです。
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本城八幡神社の親杉。樹高35m、目通り幹囲6.1m。
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広報もりよし第307号(昭和58年6月15日)「本城の親杉」(工藤与助)より…『本城部落の神社境内に樹齢500年、樹高40米、直径2.5米の杉の巨木が長い風雪に耐え本城部落の人人の変遷を見守っている。本城神社に関する記録はないが、言伝によると、社地は昔ながらのもので大杉の下に小さな祠を立て祀っていたが火災(年代不明)にあったため明治13年今の社殿が建立されたという。当地の修験和乗院は森吉氏を称し森吉から引越して来たという。当地八幡神社と阿仁の山神、森吉神社(嶽)の別当をかね、阿仁部神官の頭襟頭を勤めた人である。本城八幡神社は4月15日が祭典である。阿仁部の各神社の祭典は本城の祭が終らないと始らないといわれている。当時すでに大杉の下に祠があるので神社建立から数年の経過が考えられよう。また一説には社殿を建てるとき地均しのため親杉の根元が数米も土に埋っているともいわれ、それを考えると、根元の直径は3米にも達するものと思われる。親杉は普通500年は立っているというのが一般的である。秋元文書によれば本城村はその昔、阿仁本城の地と云われ、村の西、本城神社の上館跡は城の上と呼ばれ、空堀や古井戸などあり、廓内には、湯殿沢、古館の下など姥帳田畑の字にも残る古跡となっている。戦国の世にはこの館にも幾度かの栄枯盛衰があったと思われるが今は明かでない。本城城主加成播磨守は文禄元年百二十八石、慶長6年(1601)二百石となり病死している。慶長七年館主松橋高知本城退散を最後に館は亡んだとある。親杉の植えられた時期はさだかでないが、本城村の歴史をたどって見ると500年以上の樹齢は決して不思議ではないと考える。現在阿仁地方における、杉の大木を見ると本城の親杉に勝るものはなかなか見当らない。枝張りも元気だし更に年輪を刻むことを期待するものである。(工藤与助)』
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参道を振り返るの図。
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石灯籠一対(明治35年3月15日)
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御祭神は応神天皇、武御名方神、豊受大神、天宇受売命、猿田彦命。例祭日5月1日。特殊神事ドント祭。
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石灯籠一対(昭和3年11月10日)
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25.5
由緒(神社庁より)…『不詳であるが、言い伝えによると社地は昔ながらのもので、大杉の下に小祠を建てて祀っていたが、火災にあったため明治13年今の社殿が建設された。元は八幡神社と称していたが、明治41年都波岐神社外5社を合併、本城神社と改称した。往時当地の修験和乗院は、この八幡神社・阿仁の山神・森吉神社の別当を兼ねた頭巾頭であったため、当本城八幡神社の祭礼を終えないと阿仁部各地の例祭は行われなかったという。明治6年村社に列せられた。』
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蟇股・木鼻等。
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拝殿向拝神額「八幡宮」
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土俵でしょうか。
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ちなみに社殿の横から更に上へと山道は続いていましたが行きませんでした。
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