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岩手県花巻市膝立観音山。なお、参道入口・鎮座地ともに同じですが『円万寺観音堂(花巻市)』中心の記事については別記事にしております。
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社号標「村社八坂神社」(皇威宣揚八紘一宇、紀元二千六百一年、昭和十六年四月二十九日、従二位勲三等功五級子爵田村丕顕」「支那事変應召者」※一部読み取れず
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大鳥居に立て掛けてあった神額(高橋正松)
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大鳥居は昭和45年10月吉日着工、昭和46年9月15日落成。施工者、三和建設株式会社代表高野橋三二門。
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5.5
境内鳥瞰図(平成27年7月14日)
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ってことで前回の続きで、境内からの紹介。
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参道の階(きざはし)上の鳥居(奉祝紀元二千六百年)
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石灯籠一対。
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9.5
神楽殿。円万寺神楽(平成13年5月11日、岩手県指定民俗無形文化財)が伝承されています。
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手水舎。
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手水石。
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パンフレットより…手水石「染滝盥水」…『観音山の境内には、開闢以来、手を洗ったり口を漱ぐ場所がなかったので、古い歴史を誇る聖地であっただけに、参詣者は永い間不便を凌いできたが、平成12年7月に(有)清水石材から手水石の設置寄進の奉仕があり、観音山に画期的な歴史の1ページが加えられた。給水は、染滝からの揚水であり、染滝の霊水で盥漱(かんそう・手を洗い口をすすぐこと)することから手水石を「染滝盥漱」と命名した。』・総ステンレス製手水舎…『手水石「染滝盥漱」の寄進を知った(有)高幸工業は、手水石を覆う手水舎の必要性を考え、平成13年9月に総ステンレス製の手水舎を建立のうえ寄進した。(有)高幸工業は、このほか階に「ステンレス製手摺り」や幟を掲げる「ステンレス製旗竿」も寄進されて、境内整備に貢献されている。』
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膝立についてです。膝立は奥羽山脈の東斜面江釣子森山の東側に突出した小丘観音山を含み、同山麓の東に位置。西側の山地を除き、東部は北上川沖積地帯に属する平坦地。地名の由来は、坂上田村麻呂が東征にあたり、馬頭観音を勧請して祈願をしたところ、乗馬していた弱った馬が元気を取りもどし、膝を立て起きあがり帰国の途につくことができたことからこの地を膝立と呼ぶようになったと伝承しています。南に隣接する字矢川の地からは正慶元年の板碑が、また、矢川に隣接する字法船の地から同2年の板碑が発見されています。正慶元年の板碑は明治初年に八坂神社とともに観音山の観音堂境内に移され、昭和35年花巻市の文化財に指定されました。遺跡には稲田の間に濠の一部を残して今も館と呼ぶ膝館跡があります。江戸期以降の膝立村は稗貫郡のうち。盛岡藩領。享保20年から万丁目通に属します。村高は「正保郷村帳」167石余(田163石余・畑3石余)、「貞享高辻帳」196石余、「邦内郷村志」589石余(うち給地298石余)、「天保郷帳」589石余、「安政高辻帳」472石余、「旧高旧領」905石余。宝暦初年の「万丁目通御代官所惣高」(※花巻市史)によりますと、村高585石余、うち役高291石余・給所高139石余(中島治助35石余・苫部地長左衛門45石余・神山四郎左衛門32石余・照井惣右衛門3石余・岩間伝八5石余・岩間長左衛門16石余)・瑞興寺領15石。天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」では村高589石余のうち蔵入高291石余・給所高298石余。「邦内郷村志」では家数22、集落別では膝立村12・柏田3・二ケ村7。「本枝村付並位付」によりますと位付は中の下、家数18。「貞享高辻帳」から「邦内郷村志」の間に石高が増加しているのは藩主南部行信の新田開発奨励に呼応して、湯口村煤孫治兵衛盛忠が穴堰を開削したり、花巻城勤番の藩士伊藤久慶が水利に乏しいので円満寺村のために正徳末年穴堰開削工事に着手し、元文の初年に竣工したことなどによります。「天保郷帳」から「安政高辻帳」の間の石高減少は、天保3年以来の連続した凶作によるもの。この飢饉にもかかわらず藩は重税を課したため、天保8年には当地方の農民が仙台藩に訴えて解決を図ろうと数千人が北隣の鍋倉村に結集、中央道を避けて西山根通りを南進し、仙台藩の立会で訴えの一部は達せられましたが、上根子村喜四郎を含む首謀者は打首となりました。寺院は観音山上に円満寺観音堂があり、和賀・稗貫・紫波三郡三十三観音二番札所として近隣の信仰が篤く、坂上田村麻呂伝説にちなんで膝立観音とも呼ばれました。観音堂ははじめ江釣子森山に建てられたものでしたが、後年観音山に移され、江釣子森山には今もその祠の跡があります。往古は9間四面の堂でしたが、慶長3年12月大晦日の夜に群居していた里人の失火により全焼したといいます。その後元禄6年・明和2年などにも再建されており、現在の堂は嘉永4年の建築。この観音堂境内に姥杉(祖母杉)という老樹があります。嘉永2年の「祖母杉之記」によりますと、木の高さ凡そ20丈ばかり、太さ15尋余、根の廻り60間ほどと記されており田村麻呂伝説を残しています。神社としては観音山上に八坂神社があり円満寺神楽を伝承しています。当村の南に隣接する円満寺村とは、円満寺観音堂・八坂神社の氏子として共通するなど、生活様式が一体となっています。明治元年松本藩取締、以後盛岡藩、盛岡県を経て、同5年岩手県所属。同9年の村の幅員は東西約22町・南北約8町、税地は田113町余・畑18町余など計145町余、戸数31・人口170(男87・女83)、馬33、職業別戸数は農業30、物産は米・粟・稗・大豆・大麦・蕎麦・蘿蔔、地内に明治7年創業の耐火粘土産出の観音山鉱山があります。同22年湯口村の大字となります。昭和29年からは花巻市の大字。戸数・人口は明治22年32・199、大正6年37・360、世帯数・人口は当地と円万寺を合わせ、昭和25年192・1,201、同28年197・1,204、同40年218・1,171。昭和22年から観音山の一灯庵に住んでいたチベット学の碩学者多田等観は、観音堂の本尊および梵鐘が所在を失ったままになっていたのを痛惜し、ダライラマ第13世法王から授かった塑像の千手千眼十一面観音像を本尊として寄贈し、更に応仁2年銘の鐘の復旧と戦亡将士の英霊を慰めようと発願し、多くの浄財の寄贈を受けて同24年梵鐘を鋳造し観音堂境内に復旧、同25年盛大に撞き初めの儀式が行なわれました。多田等観は隣村の太田村山口山に独居自炊の生活を送っていた詩人・彫刻家の高村光太郎と親交を深め、山口山と観音山との往来がしばしばなされています。
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社殿と社務所。パンフレットより…『【村社】膝立第一地割郷村社地鎮座【祭神】須佐男命【創立】大同2年3月17日【由緒】蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。廃仏毀釈のため明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢河というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築。(昭和41年花巻市教委刊、花巻市史・神社篇抜粋)平成23年(2011)3月11日発生の東日本大震災で被災した本殿の修復工事を氏子総代が中心となり、平成24年9月15日完成。※元旦祭のほか、春祭り4月17日、例大祭9月15日』
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社務所。
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御祭神は須佐男命、保食神。例祭日9月15日。
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神社庁より…『大同年間(806-809)坂上田村麻呂が蝦夷平定のためこの地に来り円万寺の山を見給い、これは誠に霊地なり、戦勝後観音を勧請せんと仰せられ、その印に杉二本を自ら植えられ、祖父杉・祖母杉と名付けた。康平(1058)の頃、源義家公が安倍一族退治の時、当山に陣どられ、戦勝したので鏑矢二本窟内に納め置き、矢立の杉とも称した。その後、祖父杉は宝永(1704)の頃雷火にて焼失し、他の祖母杉も天保十年(1839)正月の火災により現在五分の一が残っている。田村麻呂東奥に下り蝦夷を悉く攻伏凱旋。又々円万寺に立寄り観音を勧請せんとするに、この時まで乗っていた芦毛の駒、度々の戦場に疲れ、病に伏したれば将軍大いに心を痛め、わが戦場にて度々功名ありしはこの馬の働きにあり、この馬の安全を祈らんと、馬頭観音を勧請したれば馬は回復し、それより帰国せり。因みに馬が膝を立てたということによりこの地名を膝立という。明治3年(1870)矢川の地から遷した八坂神社に駒形の神を合祀し、悪疫退散、五穀豊穣の神として尊崇され現在に及ぶ。』
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蟇股・木鼻・手鋏・海老虹梁。
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拝殿向拝神額。
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案内板(平成23年7月14日、八坂神社、観音堂)より…『【八坂神社】◆村社…膝立第一地割郷村社地鎮座◆祭神…須佐男命◆創立…大同2年3月17日。「現在地ハ元円満寺馬頭観世音境内ニシテ明治維新廃佛毀釋ノ際本尊ヲ山下ノ草堂ニ遷シ本社ヲ矢川ヨリ奉遷シ祭祀シタルモノニシテ創立年月ハ即チ元円満寺観音ノ縁記ニ因リタルモノナリ祖母杉之記社内ニアリ以テ其縁由ヲ知リ得ベシ」(大正7年刊 湯口村誌抜粋)◆由緒…蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。廃仏毀釈のため明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢河というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築し今日に至っている。(昭和41年花巻市教育委員会刊 花巻市史・神社篇抜粋)【観音堂】現在の観音堂は、嘉永4年(1851)の建造で、昭和38年(1963)の秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ鋼板葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、平成17年(2005)6月に全面葺き替えをして現在に至っている。また、建造以来150余年経過して風雨にさらされた外部建具が損傷していたので、さる篤志家の寄進により、平成15年(2003)4月、全面新調された。【本尊】御本尊は、坂上田村麿が大同2年(807)に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて太田の清水寺に移し匿ってもらった。その後、廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、明治12年(1879)7月14日に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明となっていた。そのことを聞いた多田等観は、非常に惜しんでチベットのダライ・ラマ第十三世法王から請来し、殊のほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を昭和22年(1947)4月8日に観音堂の御本尊として寄贈奉安した。また、平成4年(1992)9月13日には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇に祀られている。この佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代(1392~1573)の製作であると説明している。』
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円万寺観音堂から見た祖母杉越しの八坂神社。
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22.5
幣殿・本殿。裏手に土塁、元宮跡に至る古道。
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23.5
正慶元年の碑。
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パンフレット「正慶元年の碑」より……『明治初年に八坂神社を矢河の地から遷した際に一緒に移したもので梵字があるので八坂神社の神体として崇めていた。正慶元年(1332)は北朝の年号で、現今普通に行われている南朝年号の元弘2年に当たり、当時当地方は北朝勢力が優勢であったことを示す一資料ともなり、また稗貫郡内所在の最古碑でもあるので歴史上貴重なものである。(昭和35年花巻市文化財指定)』
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25.5
案内板「正慶の碑(正慶元年)」(花巻市指定有形文化財(歴史資料))より…『【材質】安山岩【法量】高さ140cm、幅58cm【指定年月日】昭和35年5月7日【所在地】花巻市膝立字観音山八坂神社境内【正慶の碑】この碑は、正慶元年(1332)の紀年銘が刻まれた碑で、この地域の領主が戦死者供養のために建立したと推定されています。碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭ですが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっています。明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移されたといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられています。正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当り、当時花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一資料であり、また花巻地方にある古い石碑のひとつです。花巻市の歴史を知る上で手がかりとなる貴重な有形文化財です。花巻市教育委員会』
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26.5
忠魂碑へ。
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平和祈願「湯口地区戦没者慰霊塔」(平成7年8月15日建立、日清戦争・日露戦争・日中事変・太平洋戦争、215柱)…碑文『日清戦争以来各戦役に従軍し国の為に尊い人命を捧げられた諸英霊に対し深く感謝をし末永く追悼を後世に伝えるため終戦五十周年を記念して湯口地区民の奉賛を得てここに平和祈願刻名慰霊塔を建立する。湯口地区戦没者慰霊塔建立奉賛会・花巻市社会福祉協議会湯口支部・湯口区長会・湯口地区遺族会』施工(有)清水石材
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忠魂碑。
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報國碑。
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阿弥陀堂。
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パンフレットより…阿弥陀堂の本尊・木造阿弥陀如来立像『昭和23年秋、多田等観の紹介で宮城県白石市の高徳山専念寺から寄進を受けた。平成15年5月に発生の三陸南地震により大被害を受け、仏師・佐藤瑞圭修復。作風から江戸初期を下らない中央作の仏像と判明。』
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鰐口(花巻、田口精三郎製)
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堂内。
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阿弥陀堂の南。
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鐘楼。
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梵鐘と鐘楼の詳細は前回の記事を参照ください。
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東屋。
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古峰神社碑ほか供養碑等。
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日露戦役紀念碑(明治39年9月20日)※明治37・38年役戦死者及び従軍者名省略
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山神(文化9年7月7日)
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古峰神社。
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山神(嘉永元戊申年8月12日)
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不思議な石。
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土公神。
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道祖神。
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庚申塔。
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観世音。
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三社観世音・馬頭観音(文政10乙亥年9月吉祥日、)※文政10年=丁亥
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苔チェック。
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忍び駒の碑。パンフレット「忍び駒の碑」より…『円万寺観音に伝わる忍び駒を型取ったもので、昭和41年1月、郵政省が記念切手図案として採用したことを記念して建立した。』
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ここの馬頭観世音には「忍び駒」という民芸品が伝わっています。稲藁を材料にした素朴な馬人形で、縁結びや子孫繁栄、五穀豊穣の祈願として人目を忍んで供え、その成就後には持ち帰って色布などで飾りお礼参りをしました。 
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碑文…『此の石像は当円万寺観音に傳わる忍び駒を型取ったもので、昭和41年1月郵政省が記念切手図案として採用になった事を記念して建立したものです。そもそも此の忍び駒は、藁で造った素朴なもので、何時の頃からか当観音に傳わり、縁結びに家庭平和に、或いは愛情を運び、思いを通じてくれる使者として広く信じられて来たものです。里人はその祈願に際し、駒を人に見られぬよう深夜密かに観音前に供えて帰り祈願成就した時は、お礼の為先きに供えた駒を下げて来て、それに五色の色布を着せ飾り再び佛前に供える習わしのものです。昭和41年10月25日、円万寺観音山観光協会、花巻市坂本町今藤清一刻』
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無量壽の碑。パンフレット「多田等観記念碑「無量壽」の碑」より…『多田等観(西蔵学の世界的碩学。1890~1967)は、一燈庵に戦後数年間独居自炊の生活を送り、村民と深い親交をもった。等観示寂後、七回忌を期して、等観の遺墨「無量壽」を自然石に彫刻し、昭和48年10月18日に多田等観先生記念碑として建立した。毎年7月14日に碑前祭を行い、等観の追善と敬慕の集を催している。』
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多田等観生誕百二十周年記念碑…『多田等観は、右の漢詩「萬峰環一菴門開雲自入」を一燈庵で詠み、仙境に住む思いを短冊に揮毫している。今年、等観生誕百二十周年に当たり、花巻市をはじめ、多くの方々の賛同のもとに、等観が一燈庵で詠まれた漢詩を等観ゆかりの秋田・男鹿石を柱として刻み、多田等観生誕百二十周年記念碑として、この観音山に建立する。ここに、等観の万丈の生涯を次の略年譜で回顧するとともに、等観が花巻市の文化、観光の向上や観音山の発展に尽くされた功績を顕彰するものである。◆1890(明治23)年7月1日-秋田県南秋田郡土崎港旭町浄土真宗本願寺派弘誓山西船寺十四世住職多田義観、タエの三男として誕生。◆1913(大正2)年12月22歳-チベットのダライ・ラマ十三世の恩顧を受け、セラ大僧院に入門。◆1922(大正11)年10月31歳-チベット仏教最高学位ゲシェー(大僧正)の資格を許される。◆1923(大正12)年3月32歳-チベットから帰国、多数の仏典請来。◆1945(昭和20)年6月54歳-請来品を光徳寺に疎開(直後、湯口村、太田村等の檀家に分散疎開)◆1947(昭和22)年4月56歳-ダライ・ラマ恩賜の千手千眼十一面観音像を観音堂本尊として寄贈奉安。◆8月-一燈庵が完成、29日から入居。◆1948(昭和23)年7月57歳-観音山に経蔵を建築。◆8月-分散疎開の請来品を経蔵に保存。◆1950(昭和25)年4月59歳-観音山の梵鐘撞き初め慶讃法要挙行。◆1951(昭和26)年5月60歳-観音山で渡米する等観の送別会挙行。◆10月-経蔵に保存の請来品を光徳寺境内に新築の蔵脩館に収蔵。◆1953(昭和28)年11月62歳-米国から帰国。◆1955(昭和30)年5月64歳-日本学士院賞を受賞。◆1966(昭和41)年11月75歳-勲三等旭日中綬章の叙勲受章。◆1967(昭和42)年2月18日朝-東大付属病院において逝去76歳。◆1994(平成6)年3月22日-等観の遺族が、蔵脩館収蔵のチベット請来品のすべてを花巻市に寄贈。 花巻市では、2004(平成16)年に花巻市博物館の開館後、等観を顕彰して、毎年、等観誕生日の7月1日を挟んで、約1か月間「多田等観展」を開催している。2010(平成22)年7月1日建立。円万寺観音山を守る会・石工有限会社清水石材』・パンフレット「多田等観生誕百二十周年記念碑」より…『平成22年(2010)7月1日は、等観生誕百二十周年。観音山の発展と花巻市の文化、観光の向上に貢献された功績を顕彰し、地元民の浄財と花巻市及び湯口地区コミュニティ会議からの助成を得て建立。』
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