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岩手県花巻市膝立観音山。眺望絶佳の展望地。大宝山円万寺(円満寺)。花巻七観音霊場二番札所(千手千眼十一面観世音菩薩)、奥羽三十三観音補陀洛二番札所。寺号標「貮番圓満寺」(昭和47年)
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案内板「多田等観ゆかりの地円万寺観音山」より…『多田等観は、大谷光瑞の命により大正2年(1913)チベットに渡り、国王ダライ・ラマ第13世の庇護のもとで、ラマ僧として10年間修行し、外国人として初めてラマ教の最高学位であるゲシェ(大僧正)に任ぜられ、帰国に際し、法王から教典・仏像などを多数贈られました。帰国後は、東京大学他で講師を歴任しましたが、昭和20年(1945)に戦禍から教典・仏像を守るため、実弟の光徳寺住職鎌倉義蔵師の住む花巻に疎開してきました。昭和22年(1947)に、ここ円万寺観音堂境内に「一燈庵」を村人から贈られ、光徳寺から移り住み、村人と親しく交友しながら、独居・自炊の生活をしました。また、この頃隣村の太田山口部落に疎開していた高村光太郎とも深い親交がもたれました。【一燈庵】入口の額は、等観の書によるものである。一燈庵脇に経堂を建立し、チベット請来の経典・仏像を収蔵しましたが、昭和26年(1951)に渡米のため観音山を離れるに当り、光徳寺(花巻市南川原町)境内に、「蔵脩館」が建造され、貴重な経典・仏画等が移され、現在でも大切に保存されています(※市に寄贈されています)。【千手千眼十一面観音像】円万寺観音堂の本尊である千手千眼十一面観音像は、等観がダライ・ラマ第13世から守り本尊として賜り、常に身の側に置いて大切にしていたものを地元の崇敬の場である円万寺観音堂に寄贈奉安したものです。【梵鐘】円万寺観音堂の鐘が、室町時代の戦乱の中で失われた話を聞いた等観は、梵鐘の鋳造を発願し、昭和25年(1950)4月17日に撞きそめが行われました。【無量寿の碑】昭和48年(1973)に等観の七回忌を記念し、その偉業を讃えて地元民が建立しました。碑名には等観の遺墨の中から「無量寿」が選ばれました。』
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大正12年チベットから帰国後の32歳の多田等観。
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昭和26年5月30日多田等観渡米前の送別会記念写真。※前列中央が多田等観
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【多田等観略年譜】
明治23年(1890)0歳…秋田県土崎港旭町の西船寺14世義観の三男として誕生。
明治43年(1910)19歳…秋田中学校卒業、本山の西本願寺に入山。法主大谷光瑞の命をうけ、チベットのダライ・ラマ第13世の使者テ・トウル師の世話役となり、チベット語を会得。
明治45年(1912)21歳…テ・トウル師一行の帰国に同行してインドに渡る。折りしもインドに逗留中のダライ・ラマ13世に謁見を許され入国の許可を受ける。
大正2年(1913)22歳…ヒマラヤを越えて単身チベットに入る。ダライ・ラマ13世の特命でセラ学問寺に入る。帰国まで10年間あらゆる修行とチベット仏教の研究を行うとともに、文化面の事業に参画する。
大正11年(1922)31歳…ラマ教の最高学位「ゲシェ」(大僧正)に任ぜられる。
大正12年(1923)32歳…3月帰国。経巻、典籍24,270余部を請来。東京大学文学部嘱託。
大正14年(1925)34歳…東北大学講師。
昭和8年(1933)42歳…外務省後援の夏期大学の講師として旧満州、蒙古に出張。
昭和9年(1934)43歳…西蔵大蔵経総目録を刊行。
昭和16年(1941)50歳…蒙古の徳王の訪問をうける。
昭和17年(1942)51歳…東京大学、慶応大学の講師。慶応外語研究所、アジア文化研究所の創設に参画。
昭和20年(1945)54歳…花巻町の光徳寺に疎開。
昭和22年(1947)56歳…円万寺観音堂本尊として、ダライ・ラマ第13世恩賜の塑像の千手千眼十一面観音像を寄贈奉安。また、境内に一燈庵が建てられ、光徳寺から移り住む。このころ太田村山口に疎開していた彫刻の巨匠高村光太郎と親交をもつ。
昭和23年(1948)57歳…一燈庵に国分謙吉岩手県知事一行が訪れる。
昭和24年(1949)58歳…発願により円満寺観音堂に梵鐘が鋳造される。
昭和26年(1951)60歳…米国のアジア文化研究所の招きにより観音山を去る。光徳寺境内に蔵脩館が完成。観音山の経蔵から、チベット請来の仏典・仏具を移し保存する。
昭和28年(1953)62歳…西蔵撰述仏典目録を刊行。この年米国から帰国。
昭和30年(1955)64歳…日本学士院賞受賞。
昭和31年(1956)65歳…東洋文庫にチベット学研究センターが設けられ、同センターの主任研究員として後進の育成にあたる。
昭和41年(1966)75歳…勲三等旭日中綬章を叙勲される。
昭和42年(1967)76歳…2月18日逝去、西本願寺門主より智蔵院の院号の染筆下附される。法名智蔵院釈等観法師
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参道の途中にある赤い鳥居。
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稲荷神社及び山祇神社(石殿)があるようですが、参道が荒れていて行ける状態ではありませんでした。
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参道の途中にある染滝の案内看板。
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道中。下りです。
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表現としては滝というよりちょっとした手水舎的な場所。
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二郡見聞私記の円満寺姥杉のくだりに「亦此堂(観音堂)の西に染滝という秘密結界の所あり。敢て滝にもあらず、水の湧出る流れあり、甚だ清水なり。」とあります。
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また、円万寺観音の御詠歌にも詠まれている場所です。
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参道に戻ります。
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六根清浄(昭和29年11月)
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ここまでは車で来ることが可能ですが、積雪時期は車両通行止めになることもあるようです。
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観音山境内案内図。
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円万寺観音山展望地鳥瞰図…『観音山は、円万寺氏の城であったと伝えられていますが、現在でも土塁などの遺構を見ることができます。円万寺氏の名が歴史上初めて登場するのは永享8年(1436)のことです。円万寺観音山展望地からの眺望は、四季を通じて絶景で、平成16年11月に花巻八景のひとつに制定されました。』※花巻八景制定(平成16年11月22日)
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新奥の細道「湯治場のみち」…『このコースは、チベット学の権威者多田等観の一燈庵がある円万寺観音堂を起点とする全長11.2kmの自然歩道です。大きな鳥居を抜け、整然とした田園地帯を行くと森林浴と川のせせらぎを満喫できる林道が始まります。林道終点の別れ道で少し足をのばすと、縁結びなどで知られる金勢神社があります。つづら折りの道を下り豊沢川の渓流を渡ると露天風呂で有名な大沢温泉があります。約4時間の自然と語りあえるコースです。』
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コース案内図。
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円万寺神楽(岩手県指定無形民俗文化財)…『花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰に基づく修験者集団によってもたらされた山伏神楽がその主流をなしており、その伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。円万寺神楽は古くから観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い・火伏の権現舞を行ったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。また、北松斎公にまつわる伝承もあり、鳥谷崎神社祭礼で演じられるなど密接な関係がうかがわれる。七拍子による繊細で優雅な舞振りを特徴とする格式ある神楽である。◆演目:(式六番)鳥舞 千歳翁舞 三番叟 八幡舞 山の神舞 岩戸舞 鞍馬 天女 稲荷舞 五穀舞 鐘巻 三韓 蕨折 橋懸け 曽我 天王舞 権現舞 狂言数番◆上演時期:地区神社祭礼、地区の祝事等 昭和36年7月花巻市指定、昭和49年2月岩手県指定』花巻市教育委員会
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『円万寺神楽は、花巻市膝立字観音山地区に伝承される山伏神楽で、もと同地の円万寺を根拠にした山伏修験者たちが伝えたものであるといわれている。八坂神社の例祭(10月25日)、観音堂、鳥谷ケ崎神社など花巻市内の神社の例祭に奉納する。かつては、収穫後から正月にかけて湯口、花巻地区を巡り、権現舞で悪魔払い・火伏祈祷を行い、夜神楽は民家の座敷を会場とした。早池峰神楽とほぼ同時期に伝わるというが、確かな記録がなく詳細は不明。江戸時代のはじめ、北松斎が稗貫・和賀2郡の城主として花巻にあった時代、鳥谷ヶ崎神社祭礼(現在の花巻まつり)の渡御のとき神輿が重くて動かなくなり、神主や山伏が祈祷をしたが効き目なく、勧める者がいて円万寺神楽を奉納したところ動くようになった。それ以後、松斎の厚い庇護を受けるようになったといわれている。演目は、式六番(「鳥舞」「千歳翁舞」「三番叟」「八幡舞」「山神舞」「岩戸開」)、座外の舞、狂言および権現舞から成る。式六番の順序は早池峰神楽と同じであるが、翁舞には翁の前に千歳が登場して舞うことが変わっている。また、権現舞では権現さまが「ピーピー」と鳴き、白布・白扇・脇差しを次々と飲み込み、吐き出す点が大きく異なる。』※写真は鐘巻道成寺
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神楽殿。
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参道の階(きざはし)。パンフレットより…階(きざはし)が四十有余年振りに復元『かつて観音山にあった階を懐かしむ多くの声に、観音山を守る会の高野橋勇志、名須川利男両副会長等会員有志が、平成11年(1999)6月3日から9月9日までに延べ百八人にのぼる奉仕者や三和建設株式会社等地元企業の奉仕も受けながら、四十有余年振りに階を復元した。』
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階上の右手。東屋。
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階上の左手。石のテーブルと椅子。パンフレットより…『平成26年(2014)8月、(有)清水石材から石の「テーブル、椅子」二脚を設置のうえ寄進の奉仕があった。』
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万壽杉。
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27.5
標高180m、花巻市の西に位置しており、広大な水田地帯から市街地を遠望できます。
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遠くに早池峰山も見えることから展望地としても人気が高く、花巻八景として登録されています。特に毎年5月初旬の水田に水が張られてから田植えが行われるまでの期間は、朝焼けや夕焼け時に水が反射し美しい景色が見られるそうです。
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円万寺観音堂と八坂神社が並んで建っており、かつての神仏習合が盛んであった時代の姿を彷彿とさせます。
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観音山にすむ主な野生の鳥と獣。
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パンフレットより一部抜粋…●観音堂(当国順礼札所三十三所の第二番札所)…『観音堂は、嘉永4年(1851)の建造。昭和38年秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ鋼板葺きに。平成17年6月、屋根全面葺き替えを実施。平成15年4月17日(有)市川木工所の寄進により外部建具を新調。』●本尊…『田村麿が大同2年(807)に馬頭観音を勧請した本尊が、千余年の間に所在が不明になったと聞いた多田等観は痛惜し、西蔵(チベット)のダライ・ラマ13世から請来の千手千眼十一面観音像を観音堂の本尊として昭和22年(1947)4月8日に仮奉安所の畠山藤太郎宅から寄贈奉安。平成4年(1992)9月13日に八坂神社宮司の佐藤家kら銅造十一面観音座像懸仏(製作年代=室町時代(1392~1573))が観音堂に遷座され、等観寄贈の本尊とともに内陣須弥壇に祀られた。』●「光明皇后の悲田院の図」板絵額…『この光明皇后の悲田院の図は、多田等観の依頼で羽石光志画伯が昭和25年9月に完成した板絵額。等観ゆかりの品として佐藤文子(等観の長女)から平成21年(2009)4月1日に観音堂へ寄進された。※元旦祭のほか、【春祭り】4月17日【夏祭り】7月14日』
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一燈庵。パンフレットより…一燈庵『多田等観のために円万寺、膝立の五部落から事業推進委員を選出し、十坪の庵室を新築。昭和22年8月29日落成。等観同日から住居。この一燈庵には、昭和23年に民選第一号の國分謙吉知事ほか県の最高幹部一行が訪問。隣村太田の山口に住む高村光太郎も幾度も訪問。等観は一燈庵で「萬峰環一菴 門開雲自入」(ばんぼういちあんをめぐり もんひらけばくもおのずからいる)と仙境を詠んでいる。平成15年(2003)11月、等観揮毫の「一燈庵」扁額文字が長い年月により消えかかったので、秋田県山内村正念寺住職・小山昭眞揮毫の扁額と掲げ替えした(等観揮毫の扁額は、仏師・佐藤瑞圭の奉仕で彫刻復元。一燈庵「床の間」に奉安保存)。』
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文政の石燈籠一対(文政11戊子年8月吉日)
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観世音碑。
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参道。
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多田等観ゆかりの円万寺観音堂…『多田等観は、大谷光端の命により大正2年(1913)チベットに渡り、国王ダライ・ラマ第13世の庇護のもとで、ラマ僧として10年間修行し、外国人として初めてラマ教の最高学位であるゲシェ(大僧正)に任ぜられ、帰国に際し、法王から経典・仏像などを多数贈られました。帰国後は、東京大学他で講師を歴任しましたが、昭和20年(1945)に戦禍から経典・仏像を守るため、実弟の光徳寺住職鎌倉義蔵の住む花巻に疎開してきました。昭和22年(1947)に、ここ円万寺観音堂境内に「一燈庵」を村人から贈られ光徳寺から移り住み、村人と親しく交友しながら、独居・自炊の生活をしました。また、この頃隣村の太田村山口部落に疎開していた高村光太郎とも深い親交がもたれました。【一燈庵】入口の額は、等観の書によるものです。一燈庵に経堂を建立し、チベット請来の経典・仏像を収蔵しましたが、昭和26年(1951)に渡米のため観音山を離れるに当たり、光徳寺(花巻市南川原町)境内に、「蔵脩館」が建造され、貴重な経典・仏画等が移され、現在では市に寄贈されています。【千手千眼十一面観音像】円万寺観音堂の本尊である千手千眼十一面観音像は、等観がダライ・ラマ第13世から守り本尊として賜り常に身の側に置いて大切にしていたものを地元の崇敬の場である円万寺観音堂に寄贈奉安したものです。【梵鐘】円万寺観音堂の鐘が、室町時代の戦乱の中で失われた話を聞いた等観は、梵鐘の鋳造を発願し、昭和25年(1950)4月17日に撞きぞめが行われました。【無量寿の碑】昭和48年(1973)に等観の7回忌を記念し、その偉業を讃えて地元民が建立しました。碑名には等観の遺墨の中から「無量寿」が選ばれました。』
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大正12年チベットから帰国後の32歳の多田等観。
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滞在当時のチベット、ポタラ宮殿。
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昭和26年5月3日渡米前の送別会記念写真(前列中央が多田等観)
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円万寺観音堂。
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41.5
パンフレット「観音堂御本尊の奉安由来」より…『多田等観の「観音堂記録」、昭和22年(1947)の条に『チベット請来観音尊像奉安由来』と題して、次のように記されている(月日は、等観の日記による)。「4月8日 圓満寺観音堂本尊として仝尊像入佛式を行ふ 先つ假奉安所畠山藤太郎宅より圓満寺権現先導船輿にて各部落観音講員三百有余行列して山上に奉迎法要供養を行ふ 茲に永く観音堂に奉安 和賀稗貫紫波三郡観音霊所の第二番の観音本尊として崇敬せられるゝ處となる。』
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42.5
鰐口・蟇股・海老虹梁・手鋏等。
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43.4
43.8
観音堂内へ。
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観音堂内。
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聖観世音菩薩立像。パンフレットより…大観音像「聖観世音菩薩立像」(胎内仏=等観西蔵請来仏)…『観音像奉納者は島理三。作者は仏師・佐藤瑞圭。多田等観、高村光太郎の教導のもとに、木曾檜材を寸法半丈六の八尺に製作した菩薩尊像。昭和32年(1957)4月16日、開眼導師・宗青寺儀山が修す。平成25年(2013)3月24日、氏子総代(総代長・畠山岩)が佐藤工務店施工のもとに、聖観世音菩薩立像の須弥壇新設工事を完成。同年4月17日、氏子総代(総代長・清水善一)が施主となって、導師の清水寺住職・清水光文が再開眼法要を修した。』
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その他諸々。
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47.2
47.5
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祖母杉…この祖母杉は、大同元(806)年に坂上田村麿が奥州蝦夷平定のため稗貫郡まで進んで来たときに「戦い勝利の後、観音様をお迎えしよう」と言ってそのしるしに植えた2本のうちの1本です。翌2(807)年、東夷を平定した坂上田村麿は、再びこの地を訪ね、馬頭観世音をお祀りしました。それから約950年後の宝暦年間(1751-61)の頃からと考えられていますが、当国(和賀・稗貫・志和(今は「紫波」)の三郡)三十三所観音順礼札所が設けられ、ここの観音様は第二番の札所として栄え、今もお参りする老若男女の人達が後を絶ちません。さて、藩政末期に花巻地方はもとより、南部藩でも文化面で活躍した名須川義武・松岡一秀・堀内政易の3人が、嘉永2(1849)年に撰文・揮毫・彫刻の役割を分担して作成し、観音堂に奉納した竪板置額の「祖母杉之記」に『・・・祖母杉は健にして高さ凡そ二十丈斗太さ十五尋余根の回り六十間ほど・・・およそ日の本に双ぶる大樹なしと称誉せしと也さるを天保十(1839)亥年睦月元旦の日いかなるゆへともしらずうろの中より火出て半刻をまたず焼折れ一の枝のミのこれり・・・』とありますが、今日も樹皮だけの幹で「一の枝」の重さを支えながら、驚くべき生命力で生き続けているこの祖母杉は、正にこの地の千古の歴史を物語るものであり、その重要性を伝える歴史的徴証であります。なお、自然石を巡らしていますが、これは祖母杉の樹勢が盛んなころに、祖母杉の根が地上に累々と重なり合っていましたが、その元の根の回りを復元して表したものです。平成9年9月社団法人花巻観光協会
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48.4
48.8
パンフレットより…祖母杉(おおばすぎ)『田村麿が手植えと伝えられ、祖母杉之記に祖母杉を「往昔我朝に扶桑木てふ類なき大樹ありて枝葉三つ四つの國に繁茂せしとなん…靈場巡拝の男女およそ日の本に双ぶる大樹なしと稱譽せしと也…」とある。祖母杉の樹勢が衰えたので、平成23年11月、周辺支障木を佐藤木材・佐藤長一に依頼して伐採し、氏子総代が中心となって祖母杉に支線を二本張るとともに、同年12月14日、(有)高幸工業が私財を投じて長さ約6.5m、太さ12.5cm角の鉄製支柱をA型に設置奉仕。』
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49.4
49.8
特に説明はなかったけど観世音碑の横にあるこちらの巨木の方が存在感はありますね。
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50.2
50.4
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石像の千手観音(皇紀2600年記念)
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51.5
鐘楼。
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梵鐘。パンフレットより…梵鐘(鐘楼は、老朽したため、平成9年9月に改築。)…『昭和24年(1949)6月、観音山に湯口村全域から代表者が集まり、戦亡英霊のため観音山に梵鐘を鑄造することを協議決定。堂宇は棟梁佐藤末蔵仝息義美、高野橋六郎等で奉仕し、昭和25年(1950)4月8日立柱式、4月10日光徳寺に仮安置の梵鐘を観音山へ迎え、4月17日梵鐘撞き初め慶讃法要及び陣亡将士英霊法要を修した。梵鐘の鐘銘は、西蔵文字の下に「觀其音聲 皆得解脱」(かんごおんじょう かいとくげだつ・観音経)と浮き彫りに刻み、次いで観音山の歴史が漢文で刻まれている。この鐘銘の撰文は、早稲田大学の漢学の大家・川田瑞穂で、川田は、「終戦の詔書」創案者であったことが平成6年(1994)8月14日にテレビの報道特集で報じられた。』
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梵鐘と鐘楼…『この梵鐘は、応仁の頃(1467-69年)円満寺にあった梵鐘が持ち去られた事蹟に基づいてその復元と太平洋戦争までの戦没者の慰霊をしようとの遠大な目的で、昭和24(1949)年に多田等観が発願し、当時の湯口村民の賛同と近隣町村有志の浄財をも寄せられて新鋳された梵鐘です。鐘銘の正面には、チベット文字とその下に漢字で「観其音声皆得解脱」とあります。これは観音経にあることばで、「この鐘の音を聞けば、皆安らかな境地に至りますよ」という意味です。そして鐘銘の最後のところは漢詩で「余韻ハ嫋嫋トシテ山川ニ散満ス 萬霊ハ怳忽ス 孰レカ涅槃ヲ疑ハンヤ」と結んでいますが、この鐘の音は、正によろずの霊をして、とりとめなく、うっとりさせてくれるよい音色です。この鐘銘の撰文は、その往時、早稲田大学の漢学の教授であった川田瑞穂によるものですが、川田は昭和20(1945)年8月15日に玉音放送された「終戦の詔書」草案にかかわったことで知られる有数の漢学者であります。鐘楼は、昭和25(1950)年に地元円万寺、膝立の有志の献材と地元以外の奉仕者も加わって完成した鐘楼でありましたが、建築後47年の歳月が経つうちに柱の腐食が進みましたので、平成9(1997)年9月に円万寺、膝立地区民の賛同による浄財と多田等観の遺族の寄進等によって改築したものです。平成9年9月円万寺観音山を守る会』
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梵鐘鐘銘の読み方。
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長くなりましたのでちょっぴり神仏分離します。
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