鮫町生活館前に案内板があります。
鮫浦役所(鮫浦奉行所)跡…『江戸時代、鮫湊(鮫浦)と新井田川河口の川口湊、その間に位置する白銀湊は、総称して八戸湊と呼ばれ、八戸藩の海運拠点として利用されていました。廻船が大型化するにつれ、水深が浅い川口湊は利用しづらくなり、蕪島の島陰に停泊し、艀(はしけ)船(※)で、城下町に近い川口湊へ荷物を運ぶようになりました。元禄6年(1693)と同16年には、鮫村に屋敷割や船着場、倉庫用地などが整備され、宝永元年(1704)には幕府の城米船が定期的に入港しはじめるようになります。同年鮫湊が一望できるこの高台に、廻船・漁船の管理や、税の徴収等に当たる浦役所が置かれ、鮫湊は八戸藩の玄関口として重要な位置を占めるようになっていきました。江戸時代末期の嘉永年間に三峰館寛兆が描いた「八戸浦之図」には、蕪島付近に停泊する大型廻船や、高台の御浦奉行所(鮫浦役所)、御陣屋が見え、にぎわっている様子が伺えます。(※艀船:陸と停泊中の本船との間を、荷物などを乗せて運ぶ小船)平成31年1月八戸市教育委員会』
鮫公園。
鮫町生活館。
鮫公園内にある石仏等。
向かって左は安永2癸巳年9月。その他にも文字が読み取れますがよくわからず。向かって右はちゃんと見ませんでした。
地蔵尊。
こちらも読み取りにくいですね。頑張れば読み取れると思いますが、この日は天気が悪かったので諦めました。
こちらは戒名が見えるので墓碑でしょうね。
紀年銘は文化7年6月7日。なぜか墓碑の前にはサッカーボールが2つありました。サッカーボールはモルテンのアセンテックペレーダです。参考までに。
コメント