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八戸市鮫町鮫。鮫町生活館鮫公園の近くです。
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参道石段右手に鮫金刀比羅宮の社殿の屋根が見えます。
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浮木寺は鮫漁港が一望できる丘の中腹にあります。
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山門右手に海難亡霊巻碑という相当古いであろう碑があると下調べしていましたが見逃したかな。なお、かつての山門は南部藩主奥方の奉納によるもので、どっしりと風格のある門だったそうですが、腐敗して現在は残っていないそうです。
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六地蔵。
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本堂裏手の入口。
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鮫についてです。新井田川河口部東方の太平洋を臨む海岸部に位置。沿岸より150mほど先に周囲約800mの蕪島がありウミネコの繁殖地として知られています。蕪島は昭和18年に陸続きとなりました。蕪島の対岸東方の海岸部を恵比須浜(もと仏浜)と呼び、八戸藩八代藩主南部信真の命名といいます。国誌には「夷の形の石あり、漁人幸をこの所に祭ると云ふ、石の高五尺に幅四尺」と見えます。更に東方沖合に日出ノ石があり「この岩上より村民とも日ノ出を排することある故に名つくと云ふ、岩上四方を眺む風景佳麗なりと云ふ、又或云、鯨常にこの辺を往来す、時にまた形を見し水を噴ことあり、其時は鰯漁利多を以て日出の老翁(ぢひ)と呼ひ、又漁人ヱヒス様と唱て敬ふと云ふ」と記します。同所からは縄文早期及び続縄文時代の土器などが出土。遺跡は他に縄文早期の白浜遺跡・古馬屋遺跡・冷水遺跡・下松苗場遺跡、同中期の林通遺跡、同後期の盲久保遺跡などがあります。芸能に鮫神楽があり江戸歌舞伎の影響もみられるものです。江戸期以降の鮫は三戸郡浜通村を形成していた10か所の浦の1つです。鮫湊・鮫村とも称しました。元和3年、盛岡藩主南部利直によって根城南部氏の給所が田名部から八戸へ移されますが、その時の書状に書き上げられた八戸の浜23か所のうちに「一、さめみなと」と見えており、早くより湊として成立していたことがわかります。なお、行政上の浜通村の中心は湊であり、湊が10か所の浦を代表していました。また、八戸藩の領内支配上、石高把握では10か所の浦が浜通村と一括されましたが、浦支配のうえでは湊とそれ以外の前浜通とに分けて把握されることが多いです。なお、湊・白銀浜・鮫湊をあわせて一般に八戸湊・八戸浦と称し、八戸藩の輸出入港の役割を果たしました。特に蕪島との間は早くから港湾として利用されています。「雑書」正保2年10月21日条には「三番鱈一於八戸鮫湊佐太郎一昨廿七日」とあり、正保4年の南部領内総絵図に「鮫湊」「鮫ケ崎」と見えます。元禄3年の御領内巡見覚帳(さめの記録)では家数18、うち他領出身の家持6、猟船が12艘(2人乗9・鰹釣舟3)ありました。元禄年間以降、海運の発達とともに町並みの整備が図られており、同6年の「八戸藩勘定所日記」には「鮫百生共只今迄ハ散々に家作り罷有候ニ付屋敷割被仰付十九軒割渡ス」とあります。屋敷割りは同16年にも行われました。蕪島との間は廻船などの発着港として栄え、宝永元年からは御城米船の入津も見られます。八戸湊の中心であり冬期間は船囲場としても利用されました。延享4年浦数覚では、八戸廻22浦のうちに鮫が見えます。島の間は白浜などとともに八戸藩内最大の造船場で、明和2年には大阪の船頭から注文の1,200石クラスの船を竣工しています。浜蔵のほか高台には鮫御役所(浦役所)が置かれており、沖口(輸出税)徴収や漁業免許など港務一切を扱いました。宝暦12年の鰯釜数2、文化6年の鰯の水揚げ高は520貫余。文政8年の御用留(西村家文書)によりますと、蕪島の対岸付近で荷抜け防止を主な目的とした築堤工事が行われています。文化2年鮫村の船方小宿は20軒、同小宿で抱えていた飯盛女数は天保13年に31人を数えました。天保12年に当地を訪れた江戸の落語家船遊亭扇橋の「奥のしをり」には遊女屋12軒とあり、「此辺ハ東廻り船にて度々江戸へ参り申候間、たはこ茶なと江戸より持参り(中略)盛岡よりもかへって江戸近く御座候」とも記しています。船問屋として(西村)山四郎、(清水)甚太郎が知られます。享和元年10月に幕府天文方の伊能忠敬が甚太郎家に止宿し、夜半に測量を行っています。「狼煙笧場」によりますと、物見石はノロシ場とされ、白浜村との境は赤石となっています。江戸後期になると沿岸への異国船出没で海防警備の強化が図られ、安政元年には当地にも台場が築造されました。台場下は通称おむら浜とも呼ばれます。「八戸藩勘定所日記」によりますと、文政3年7月に当村の虎舞が法霊祭礼の供を命じられており、万延元年7月には虎舞世話人として庄五郎・徳兵衛・三郎兵衛の名が見えます。天保年間になると湊へ廻船が入港するようになり、次第に八戸湊の中心は鮫湊から湊へと移っていきました。火事による主な被害としては、延享2年に30軒、明和4年に3軒、寛政4年に9軒。寺社としては、糠塚大慈寺の15世南溟の開山とされる曹洞宗補陀山浮木庵(のち明治14年寺号を許されて亀遊山浮木寺)、工藤祐経の子犬房丸の子孫に当たる島脇氏が永仁4年に勧請したと伝える蕪島の弁財天(のち厳島神社)、宝暦3年創立という八幡宮があります。明治になってからは浜通村支村鮫村と見え浜通村の一部として扱われました。なお、明治初年の「国誌」では鮫村を一村として扱っており、家数126、村況は「土地下之下、田なし(中略)農漁相半し商工あり、大船の碇泊する所にして船問屋妓楼あり、東海の通舶多く入津すれとも商戸少く、交易は纔に八戸五戸三戸計の品物なれは寂寥たる陋港なれとも、近時汽舟の出入ありて三都への旅客往来もあれとも僻地にして国産少く声名振はす」とあります。
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曹洞宗亀遊山浮木寺。御本尊釈迦如来。八戸御城下三十三観音霊場三十一番札所(如意輪観音・三十三観音坐像)。古くは「鮫村観音堂」、後に盲亀浮木伝説により「浮木庵」(白銀福昌寺末庵。文化2年、清芳尼住職、弟子恵旭尼住職)、明治8年に正式に寺に昇格し、四世住職泰州量光が西有穆山の推薦を得て糠塚大慈寺末寺となる当寺を開山して本堂建立。珍しい山号・寺号は寺の創建に由来します。江戸時代、鮫の船頭喜八が大坂へ航行中、夢に盲目の亀が出て、自分が乗っている木で観音像を刻んで欲しいと懇願。翌日に夢と同じ亀が流木に乗って現れて、代わりの木を与えると乗り移って沖へ遠ざかっていきました。残された流木を京都の有名な仏師の元へ運ぶと、素晴らしい香木なので無償で三十三体の観音像を彫らせてほしいと頼まれました。翌年、完成した観音像は八戸に持ち帰られ、お堂を造り祀られました。これが浮木寺の前身の観音堂とされます。この伝説と、法華経の盲亀浮木の一説から名付けられています。※(内容がかぶりますが)「盲亀浮木伝説」について…宝暦2年12月、八戸藩の御用船「万寿丸」が御城米を満載して大坂へ向かった時、宮城県沖の某島付近で、大きな盲目の海亀が巨木に乗って流れて来た。よく見ると、かなり年老いている。そして船べりにぴったりくっついてしまったので、船員たちが棒などで離そうとしても離れない。そこへ船頭の喜四郎がやって来て、「前夜見た夢と同じ亀だ。なにか因縁があるのだろう」ということで、そのまま大坂へ行き、無事に荷をおろした。その時、この巨木を見た京都の有名な仏師が「素晴らしい香木だ。無償でぜひ、三十三体の観音像を彫らせてくれ」と申し出たという。翌年、彫り上がった観音像は八戸に持ち帰られ、浮木寺の前身となる御堂に祀られた。
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本堂向かって左側の厨子には蕪嶋弁天堂(現蕪嶋神社)の御本尊であった弁財天像(天明3年開眼、本壽寺九世日行が導師)が祀られています。これは明治の廃仏毀釈の際に捨てられたのを当寺の住職が拾い上げて祀ったものであるといいます(2013年に140年ぶりに蕪嶋神社に里帰りを果たしています)。この弁財天は弁才、財福、知恵、詩歌、音楽を司る女神であり、人間に幸福と子孫をもたらす神。なお、秘仏となっております。平成17年の修復時に頭部内側に過去の修復歴を記した墨書が発見されています。それによりますと安永10年に江戸の仏師により造立され、嘉永3年と明治10年に八戸の仏師により修復されていたとのこと。また、奇峰学秀による荒削りな一木造りの地蔵菩立像三体も祀られています。
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弁財天像について…『むかし、海が荒れたある朝、鮫の蕪島の浦に女神(弁財天)が流れ着いた。北の海から流れてきたものかどこから流れてきたのか分からないという。女神は鮫の海がきれいで、魚がたくさんいるのでここに住むことにした。女神には八人の子どもがいて、子育てのため毎日、浜で魚や昆布、ウニ、アワビを採って生活していた。子どもが多い上に女手一つなので、いくら働いても育ちざかりの子どもが食べるのに追いつかなかった。女神は、「わたし一人では、どうにもならない、八人の子どもを育てるには、父親代わりがどうしても必要だ」と考え、あちこち捜し歩いたが見つからなかった。困り果てた女神は、「どんな男でもいい、とにかく、父親代わりになってくれる男であれば…」と、さらに捜し歩いた。そこへ、豆粒のような小さな男が現れ、「おらのような、豆粒男でもよかったら」と言った。女神は喜んで、「どうか、お願いします」と頼んだ。豆粒男は小さな身体に似合わず、たいした力持ちで賢く、その日から女神と二人で海に出て新しい「しかけ」を考えて、たくさんのイワシ、昆布、ウニ、アワビを採った。それからというものは、女神の八人の子どもたちはスクスクと育った。それに浜も活気が出て、大漁が続き、鮫村も潤った。やがて、女神と豆粒男は亡くなり、村人により浮木寺に手厚く祀られた。女神の弁財天は、八人の子どもを育てたので座像には八本の手があって、不思議なことに女神の頭のてっぺんにチョコンと、かわいらしい豆粒男が座っているのである。』
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本堂前灯籠一対(大本堂落慶記念、為下田家先祖代々精霊供養、昭和63年5月29日、施主下田久一、浮木寺七世泰順代)。境内では8月14日、15日の盂蘭盆会に墓獅子が舞われます。※鮫の神楽(県無形民俗文化財、昭和55年)…山伏修験の神楽で江戸末期頃から神楽連中が演ずるようになったと考えられ墓獅子が有名。創始は不明ですが文化13年の墨書銘がある獅子頭や「嘉永年中編人佐藤連平」と鮫の船主名が奥書きされた台本が伝わっています。四方堂権現舞など神楽の古式を守りながら、江戸時代末期に交流があった江戸や上方の歌舞伎や人形芝居などを取り入れて新しい組舞が考案され、信仰と娯楽が混合したものとして演じられてきました。
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扁額。昭和63年に本堂、位牌堂、庫裡が再建されています。
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昭和13年の八戸丸遭難之碑(昭和15年建立)。境内にはこの他にも多くの海難供養碑があります。
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第一大和丸遭難碑(昭和12年旧1月17日命日、船長小清水卯之助、船員宮崎重太郎、林石太郎、小清水仁太郎、深川八十九、磯島末吉、磯島四郎、深川清三郎)※平成3年再建
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水子地蔵尊。
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地蔵願王菩薩(信者一同)
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海難慰霊塔(會教書理事長福島基水謹書)
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江戸時代の俳人である金子乙因の句碑(乙因の碑・閑古鳥塚)。銀杏樹下に天然石で建立されています。江戸の美濃屋に奉公した乙因は、八戸の支店に派遣され、隠居後は鮫で暮らしたそうです。しばしば江戸に出、小林一茶ら各地の俳人とも広く交遊。文化4年に俳諧行脚先の名古屋で死去。この句碑は文化6年の三回忌に建立されたもので「草の根にかくれてきかむ閑古鳥 乙因 清甚」と刻みます(鮫の船問屋清水甚太郎建立)。また、安政3年の美濃屋乙因五十回忌追善のため、弟子の夫木庵文喬等が願主となり、八戸・秋田・盛岡・仙台・江戸・尾張などから広く献句(85句)を受けて当寺へ奉納された二枚続きの「乙因追善俳諧献額」(縦89cm、横180.5cm、欅一枚板の二枚続き、板面に金箔を散らし縁は黒漆塗りで装飾金具付)は八戸市指定文化財(昭和54年)となっています。※(その他資料より)…天明8年、松尾芭蕉翁の奥の細道をたどって行脚する一俳人乙因(本名金子半蔵、俳号は他に生白洞、蕪島仙)が、大飢饉にあって命からがら鮫沖に到着。乙因は八戸の薬問屋美濃屋(二十三日町金子薬局)の番頭で、俳人小林一茶との親交がありました。薬屋の番頭であった頃、江戸から荷がはいるので、鮫に住いを構え、俳号も蕪島仙と号しました。「ながれ汲む里のうれしやすみれ草 りよ女」。りよ女(里よ)は鮫村の舟宿「佐川屋」で晩年に知り合った乙因の愛人。乙因とりよ女は熱烈な恋愛の末夫婦となり蕪島を見はらす一遇に住いを設け悠々自適の生活を楽しんでいました。ある日彼は、江戸の本店の出店命令で江戸に行かねばならなくなりました。彼は妻にすぐ戻るから心配するなと言って江戸に出向きましたが、途中病に倒れ名古屋で客死。この時乙因はりよ女に一句を送りました。それが「草の根に…」の句です。りよ女は乙因より喜遊の俳号を得て、生涯俳句をともにしたと言われ、墓碑には「佐川喜遊の墓」と刻まれています。
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郡司大尉短艇行溺死者紀念碑。「鼎浦丸乘組 明治廿六年五月廿四日 於三戸郡大久喜沖(船長・船員名省略)、三番艇乘組 明治廿六年五月廿一日 於上北郡天ヶ森沖(船長・船員名省略)」などと見えます。
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台座の碑録…読むにはちょっと厳しいかも…『千島探検と開拓の悲願に■え明治二十六年三月二十日五隻のボートを以て報效義会北航艇隊が編成され指揮官は郡司成忠海軍大尉その人でありました。一行は決死の志を糾合して北方金剛夜叉王」の会旗をなびかせ北進しました途次鮫浦に入港し鮫小学校において地元官氏有志の熱烈な歓迎大会が開催されたのであります。その後鼎浦丸三番艇は大久喜海岸において悲壮な最後をとげ朝野の人士に深い感銘を与えました。ここに録して志士の魂を永えに供養慰霊するものであります。昭和五十八年五月二十七日八戸海交会』
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忠魂碑(陸軍大将一戸兵衛書、昭和4年4月24日帝國在郷軍人會鮫村分会)
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第三新生丸乗組員之諸精霊位供養塔(平成23年12月)
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牛馬犬猫鳥獣諸群霊塔(「如是畜生皈依三寳發菩提心」大正9年10月2日)
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