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岩手県奥州市胆沢若柳下堰袋。胆沢川・茂井羅中堰南。於呂閇志胆沢川神社(於呂閇志膽澤川神社)。国道397号沿い。於呂閇志神社と胆沢川神社の合併社です。なお、於呂閇志神社は奥州湖付近の猿岩の近くに現在も鎮座しております。また、近くの茂井羅中堰(旧三堰取水口)に膽澤川神社石碑があります。別記事にしております→『茂井羅堰 ・ 膽澤川神社石碑 ・ 山田城跡
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若柳は胆沢川中流右岸、胆沢扇状地の扇頂から西部山岳にまたがる地域に位置。地名は若稲置(わかいなぎ)からきているとの説がありますが確証はありません。上萩森遺跡は3~2万年以前と推定される県内最古の先土器遺跡。また、戦国期以前のものと推定される鹿合館址があります。戦国期の若柳村は伊沢郡のうち。天文3年8月7日、石河越後守は郡主柏山明吉より「若柳村ニ而五千苅」を給されました。若柳要害の関合館は千田氏宅の一帯。北面に土塁・水濠の跡を残します。東西100m・南北50m。館主は不明。字兎口の兎口館は土橋から丑転へ抜ける峠上にあります。円郭式の山城(比高30m)で、東西200m・南北120m。西辺に空濠を残します。館主は不明。字市野々の猪鼻館(栄花館)は胆沢川に突き出た断崖上にあり(比高30m)、土塁・空濠によって2郭に分かれており、東西80m・南北160m。八谷冠者定国の家臣某の居所と伝えています。鹿合の鹿合館は胆沢川北岸の山城(比高80m)で、本丸北面には馬蹄形の土塁と二重空濠を残します。本丸南面に伸びる出曲輪には山の神の小祠と「館の杉」(樹齢500年)が立っています。東西100m・南北200m。館主は不明。南麓の平場は山居寺の跡とされています。字蜂谷の蜂谷館は奥羽山脈の一角、笹森山系の一嶺、蜂谷山(標高750m)の中腹にあります。天然の巨岩の他に遺構はありません。文治年間、八谷冠者定国の居所と伝えています。松尾の曹洞宗松原山鳳凰寺は玉室嘉玖和尚の寛正元年開山と伝え、本山は永徳寺村永徳寺。
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江戸期以降の若柳村は胆沢郡のうち。明治初年には上若柳・下若柳の2ヶ村に分かれて村名が見えます。仙台藩領。村高は寛永検地268貫余(田237貫余・畑31貫余)、「元禄郷帳」2,097石余、「安永風土記」377貫余(田332貫余・畑45貫余)、「天保郷帳」3,791石余、「旧高旧領」3,797石余。明和9年の家数262。「安永風土記」によりますと、蔵入地53貫余・給地324貫余、人頭282(うち寺1)、家数304(うち水呑14)・人数1,663(男920・女743)、馬444。神社としては猿山神社・山神社3・愛宕社・若宮八幡社・牛頭天王社・白山社・熊野社3・伊勢社3・八幡社・伊豆社・七夜権現社があり、寺院は曹洞宗松原山鳳凰寺、他に馬頭観音堂5・観音堂3・不動堂・十一面観音堂・大日堂2・地蔵堂があり、修験は羽黒派の明性院・林生坊。猿山神社は坂上田村麻呂が勧請したと伝えており、元は胆沢郡式内七社の中の1つ於呂閉志神社であったといいます。下堰袋の胆沢川神社も同式内社の1つで大同2年郡民の勧請と伝えます。供養塚は宝永年間に肝入三郎兵衛が一字一石の供養法華経を埋めたものと伝え、野上田の供養塚も同様で、西部には経塚山もあります。市野々の御番所は秋田領手倉村との藩境に設けられた南向縦5間半・横3間の境目番所であり、境横目衆が配置されていましたが寛文3年以前は地内下嵐江に置かれたものです。下嵐江は金・銀・鉛を産出する鉱山としても知られています。元和9年バテレンのカルバリヨが下嵐江銀山のマチアス次兵衛宅に潜伏し、同10年逮捕されています。金入道を取入れ口とする寿庵堰は、キリシタン領主後藤寿庵が元和・寛永年間に開削し、後に千田左馬・遠藤大学が末流の工事を完成。茂井羅を堰元とする茂井羅堰は元亀年間に北郷茂井羅という女性が開削したと伝えています。茂井羅堰は上下胆沢18ヶ村の入会用水で、溜高2,105貫余うち当村分は190貫余。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て同9年岩手県所属。明治6年上若柳・下若柳の両小学校が開校し、同8年両校が合併して若柳小学校となっています。同10年の生徒数は男子のみ120。同13年の村の幅員は東西約7里11町・南北約5里31町で、税地は田402町余・畑172町余・宅地46町余・荒地18町余の計638町余、戸数273(うち農業170)・人口1,997(男1,057・女940)、牛8、馬449。若柳学校の生徒数は男子のみ99。鉱山には砂鉄鉱・鉛鉱・石炭鉱があります。同22年若柳村の大字。若柳村と東田(はるた)村の一部が合併して成立。若柳・東田の2大字を編成。役場ははじめ若柳字松原、後に字供養塚に置かれました。明治22年の戸数372・人口3,110。同32年市野々・鹿合・萱刈窪・野山田の4分校を統合して愛宕尋常小学校が、同34年若柳・新里両小学校を統合して若柳尋常小学校が各々開設。大正12年の家畜は牛42・馬525。同14年の世帯数688・人口4,221。昭和12年胆沢川改修工事に着工。工事費の村負担額は1万5,232円。同24年若柳中学校を字愛宕原に新築。同年県立水沢高校定時制若柳分校開設。世帯数・人口は昭和23年1,039・6,866(男3,668・女3,198)、同27年1,812・7,714(男4,177・女3,537)。同30年胆沢村の一部となり2大字は胆沢村の大字若柳となります。昭和30年胆沢村、同42年からは胆沢町の大字。明治22年の戸数259・人口2,287。大正3年胆沢川電気会社の発電所を字下田に建設(出力560kw)。同4年幅員9尺の道路が字馬留まで開通し同12年県道に昇格。昭和8年馬留橋架橋。同28年日本初のロックフィルダムとして石淵ダムが完成。同29年胆沢川第一発電所(1万4,600kw)、同32年県営胆沢川第二発電所(6,200kw)を建設。昭和30年東田を編入。
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入口は2ヶ所ありました。
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国道397号沿い安部泰治之碑から寿安堰(茂井羅南堰)に架かる於呂閇志橋を渡る参道。
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於呂閇志橋の先には幣殿・本殿が見え、その手前(本殿横)に石碑群があります。
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植物に隠れて見えない碑。
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馬櫪神(安政7年3月15日)
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雷神碑(安政3年4月19日)
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金華山(天保14癸卯年5月27日)
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大山津見神(明治28年2月)
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出羽三山(慶應4戊辰年3月日)
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倒れていて見えない碑。
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橋を渡り、本殿前を右に行けば鳥居もあります。
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脇参道鳥居。
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鳥居の先には立派な御神木が一対。これは何本だ!?
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17.5
最初の正面参道に戻ります。干柳会記念植樹碑(昭和17年生建立)
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参道には若柳出身の渡辺栗仙句碑「ありがたや唯合掌の寿安石」(昭和26年、胆沢川工事の際に川原石を見つけ、寿安堰の分水路近くのこの地に奉納したといわれています。)があり、その近くが広場のようになっています。
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そしてその広場の奥に石碑群があります。
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牛馬頭櫪神(昭和12年3月17日)
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鸕鷀草葺不合尊碑(昭和7年11月)
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鸕鷀草葺不合尊碑…『ウガヤフキアエズノミコトは、日本神話の中では神武天皇の父とされている神で、萱葺職人の守護神として信仰されています。いつ頃からこの信仰が広まったのかは不明ですが、町内では大正10年のこの碑を最古として、大正年間から昭和年間まで九基建てられています。※石碑群の名称は、(左から)「牛馬頭櫪神」、「鸕鷀草葺不合尊碑」、「馬櫪神」、「戦没祈念碑」、「招魂碑」、「戦没者芳名」碑です。平成11年3月胆沢町』
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馬櫪神(昭和10年11月1日)
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戦没紀念碑(明治)
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招魂碑
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戦没者芳名碑
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社殿前鳥居。
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神楽殿…というよりステージ。
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社務所。
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石灯籠一対。
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手水石。
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Wikipediaより一部抜粋…『【祭神】神八井耳命(カンヤイミミノミコト)、須佐之男命(スザノオノミコト)、大日靈命(カグツチノミコト)、誉田別命(ホンダワケノミコト)、大山祇命(オオヤマツミノミコト)、大名持命(オオナモチノミコト)【歴史】当社は於呂閇志神社と胆沢川神社の合併社。胆沢川神社は、807年(大同2年)坂上田村麻呂による勧請であり、祭神は胆沢川の水速女命。於呂閇志神社は当社西方約10キロメートルにある猿岩を「作神」として祀ったもの。「於呂閇志神社縁起」によれば810年(弘仁元年)、嵯峨天皇の勧請で、祭神は木花咲耶姫命。1871年(明治4年)に合併された。【於呂閇志胆沢川神社厨子】主屋間口91cm、奥行91.8cm。向拝間口91cm、奥行49.5cm。一間四方、入母屋造、屋根はこけら葺、妻入。仙台藩2代藩主・伊達忠宗の末子で前沢領主となった伊達宗章(1633年没)の霊廟厨子。没年をあまり降らない時期に建造されたとされる。もと奥州市前沢区霊桃寺境内にあったものを、当社に移転し、本殿内厨子として転用したものである。斗拱、台輪や頭貫の木鼻、その絵様、および妻飾りなどがみられる。1991年(平成3年)3月29日、県から有形文化財に指定された。』
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狛犬一対。
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34.5
社殿。
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神社庁より…『【御祭神】澤女命、須佐之男命、大日霊命、軻遇土命、誉田別命、神八井耳命、若飯豊別命、彦火々出見命、大山祇命、大名持命【例祭日】9月12日【由緒】当社は平城の朝、大同2年(807)郡民胆沢川の水神を鎮祭し奉り、該川の水を分して灌漑する所を胆沢郡という。郡中この水脈を使用して耕田の功業を成す故に、郡民沢女命の神璽を水源に鎮祭して胆沢川神社と崇敬した。入民の藩息を分掌する神霊にして延喜式内に列す。明治4年(1871)王政維新の時村社に列格す。明治40年(1907)5月24日、同村社延喜式内於呂閉志神社を合祀、村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。奥宮は桓武の朝、延暦20年(801)坂上田村麻呂東征の折勧請にして延喜式内に列する神社なり。明治40年(1907)5月24日、村社胆沢川神社へ合祀し奥宮となる。村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。』
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『於呂閇志胆沢川神社の春の例大祭では、雪椿の枝に神符をそえたものが参詣者に授けられ、農家はその雪椿と神符を田の水口にさして豊作を祈願します。山は聖地であり、神はそこから里に下り、再び山に帰っていく――胆沢平野の人々はそう考えてきました。於呂閇志胆沢川神社の旧社は奥の宮と呼ばれ、年越しの日には稲束を本社に運びあげて五穀の豊作を祈願。そして春、里に下りてくる神を迎えるため、人々は於呂閇志胆沢川神社の西方にある猿岩から雪椿の小枝を青竹に挟み、苗代の水口にさしこんで水神としました。秋には玄米を神前に供え、籾殻を焼いて翌年の豊作を祈り、そうして神は山に帰ります。その祈りは五殻豊穣だけでなく、作物の虫よけ、雨乞い、雨晴らしから馬の守りにいたるまで様々でした。於呂閇志胆沢川神社は猿岩を「作神(さくがみ)」として祀っており、この猿岩付近の地名が颪江(おろしえ)だったことから、於呂閇志に変化したとされます。』
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案内板「於呂閉志胆沢川神社」より…『当神社は、明治4年に「於呂閉志神社」と「胆沢川神社」を同床に合祀した延暦17年(789)の延喜式神名帳に記載された神社です。胆沢川神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂の勧請と伝えられ、祭神は水速女命として水神様を祀る神社であり、祭日は9月12日である。於呂閉志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閉志神社略縁起」によれば広仁元年(810)、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐男之命・木花咲耶姫命を祀り、祭日は4月29日。この春の例祭には、神の「よりしろ」となる椿・隈笹・お札からなる「御守札」を配る作神様としての神事がみられます。本殿には、方一間木造入母屋造で、桟唐戸には黒漆塗に金泥をもって竹に雀、九曜紋並びに桐紋を描いた旧伊達宗章廟厨子が収納されています。江戸時代初期の様式美が窺えます。平成20年3月奥州市教育委員会』
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古札入れ。
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39.5
拝殿内。
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境内社。
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