岩手県奥州市胆沢南都田化粧坂。『久須志神社(南都田化粧坂)』の記事からの続きになります。化粧坂薬師堂(潟岸薬師堂)前へ。
ここにも参道があったのかな。

「奉建立石花表」(元治元癸亥秋)※元治元年は甲子。文久3年が癸亥。

こちらは不明。梵字を刻む供養塔です。

広報おうしゅう(Vol.115、2015.9)「薬師堂」より一部抜粋…『止々井沼の大蛇を、人身御供となった佐用姫(さよひめ・文献により小夜姫、佐夜姫、小夜媛とも)が読経で調伏する、松浦佐用姫と高山掃部(かもん)長者の物語。佐用姫はこの地を去るとき、身に付けていた薬師如来像を堂に安置した。その後堂は荒廃してしまうが、慶安の頃(1650年前後)、病床にあった別当三世正明院がお告げを受け、土中から仏像を掘り出して再興。これが今の薬師堂とされている。仏像を清め拝むと一夜にして病気が治ったといわれ、病気に苦しむ住民の信仰を深めていった薬師堂。明治以降は天台宗平泉中尊寺の末寺となったが、佐用姫が母の盲目を治したという伝説から、特に眼病に霊験あらたかな薬師清水の堂として、昭和の頃まで広く信仰を集めた。衆生の病苦を救うとされる薬師如来のありがたさを強く表す佐用姫の伝説。静かにたたずむ薬師堂は、今もなお人々に癒しを与え続ける。』

化粧坂の算額。

化粧坂の追分石。

石灯籠一対。


第4回胆沢町民劇場「小夜姫物語」…『胆沢町の皆さんなら、このタイトルを聞いただけでどんな物語だったかお分かりですよね。…掃部長者の妻は強欲の余り、大蛇と化して胆沢の民を襲うのでした。大蛇を鎮めるため、遠く松浦の地(現在の九州地方)から連れてこられた小夜。小夜は胆沢のことを想い、生け贄となる決心をするのでした。…自分だけよければいいという人間の弱さと相手を思いやるやさしさを表現した舞台となりました。皆さんも相手を思いやる心を忘れずに!』※こぼれ話以下省略

石灯籠一対。


小夜姫(松浦佐用姫)伝説…『その昔、この地に髙山掃部という50歳近い長者が住んでいました。その長者は人の良い人物でしたが、奥方は使用人を朝から晩までこき使う強欲で意地の悪い性格でした。ある年、悪天候のために米が取れず餓死者が出るほどとなり、村人は長者に助けを求めました。快く長者は蔵を開放し米を施しましたが、それを見た奥方が怒り出しました。口汚く喚き散らし悪態を吐きすぎたため、奥方は喉の渇きを覚え、井戸の水を飲み干さんばかりに飲みました。そこで水面に映った自分の顔をふと見ると、あろうことか口が耳まで裂けており、頭に角を生やした大蛇の姿になっていました。錯乱した奥方は散々に暴れて屋敷を壊すと、向かいにあった止々井沼に姿を隠し、その沼の主となったといいます。以降、奥方が化身した大蛇は里に現れては家畜や人を襲って喰らいました。村人が困り果てていると、大蛇は8月15日に15歳の生娘を生け贄に差し出すように要求。そこで村人は肥前国松浦(佐賀県)から小夜という名の娘をもらい受けて生け贄と決めました。8月15日となり、小夜は化粧坂の湧水で身を清め、肌身離さず持っていた自らの念持仏を髪の中に隠し持ち、止々井沼の畔で大蛇を待ちました。やがて雲行きが怪しくなり嵐となると大蛇が姿を現しました。小夜は怖れず一心不乱に経を読み、襲いかかる大蛇に向かって経文を投げつけました。経文が大蛇の頭に当たると角が抜け落ち、大蛇の姿はみるみる元の長者の奥方に戻ったといいます。この抜け落ちた角を埋めたのが角塚古墳であると伝えられています。生け贄とならずに済んだ小夜は、この地の安寧を願って念持仏を化粧坂に残し、そこの湧水を携えると再び松浦の国へと帰っていきました。そして故郷に着き、盲目の母の目に湧水をつけるとたちまち目が見えるようになったといいます。現在でも南都田には化粧坂という地名が残されており、角塚古墳から南に下った化粧坂に鎮座する久須志神社の境内には薬師堂が鎮座しています。この薬師堂に安置されているのが小夜の念持仏と伝えられています。慶安年間頃に修験者の宝性院明盛という者が夢告を受け、薬師堂跡から薬師如来像を掘り当て、この地に薬師堂を再興したとされます。像の大きさは一寸八分で33年に一度御開帳されており、小夜の伝説に従い眼病に効験があるといわれております。』

杉林の中に鎮座している薬師堂。
向拝下扁額「薬師如来」


何やら色々打ち付けられていますね。



鰐口。

堂宇内。
本殿に収められている御本尊は33年に1度の御開帳で、次回は2027年です。
鐘楼。108回鳴らしておきました。
梵鐘の上、天井には龍が描かれていました。
石碑群。多過ぎるので一部だけざっと紹介。

金華山(安政3丙辰年4月)等。

金華山(嘉永5年3月)等。

馬頭観世音供養(明治3年6月吉日、建主吉藏)

金花山(天保4年)と馬頭観世音(明治)。「華」ではなく「花」verは初めて見ました。

馬歴神(明治34年)。「櫪」ではなく「歴」verは初めて見ました。

山神碑(明治25年4月3日)

庚申塔(明治12年)

馬頭観世音。

まだまだありますよ。


比較的状態は良い方だと思うので興味のある方は現地へどうぞ。

庚申塔(文政)

薬師塔(嘉永5年3月3日)


南無阿彌陀佛。

神仏分離の名残り。

ってことでその他諸々。



小祠もありました。

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