
岩手県奥州市胆沢区南都田。国道397号沿い。


昭和49~50年の周湟確認調査により、ほり(周湟)をめぐらし、円筒埴輪(後円部の裾に立て並べた)と形象埴輪を飾り、葺石を敷いた典型的な前方後円墳だとわかりました。作られた年代は5世紀の後半から6世紀初め。岩手県では最大最古の古墳で、本州最北端の前方後円墳として昭和60年3月に国指定史跡となっています。全長45m、後円部の直径32m、高さ4.3m、周湟の幅最大5m、平坦面の幅:2.5m。


かつての都鳥についてです。都鳥は胆沢扇状地の扇央部に位置し、茂井羅中堰・南堰が貫流。式内社止々井神社の旧跡があります。二本木の宮田がその旧跡と伝えます。字塚田の「一本杉」とも呼ばれる角塚は県内最大最古の前方後円墳。円筒埴輪が出土。全国的にみても前方後円墳の北限を示す事例として貴重な存在です。式内社止々井神社とともに当地の開発の古さを物語ります。伝説では掃部長者の妻が変身した大蛇の角を埋めた塚だとされます(安永風土記)。字界田には無年号の中世板碑一基が、同じく近隣の鳥越田にも同様の板碑一基があります。字本木の要害館は柏山伊勢守家中の居所と伝えます。胆沢町役場から東面の千田氏宅(要害屋敷)にかけての一帯が館跡。遺構は残されていません。広岡の広岡館は集落の西北0.2kmの微高地。水田中に浮かぶ島状の平城。土塁跡を残します。東北面平場には五輪塔があったといいます。東西160m・南北100m。館主については飯坂出雲守が貞享年中まで居住したとのみ伝えており戦国以前の館主は不明。

江戸期以降の都鳥村は胆沢郡のうち。仙台藩領。村高は寛永検地224貫余(田214貫余・畑10貫余)、元禄郷帳1,968石余、安永風土記240貫余(田216貫余・畑24貫余)、天保郷帳2,420石余、旧高旧領2,408石余。明和9年の家数124。安永風土記によりますと蔵入地1貫余・給地238貫余、人頭132(うち寺1)、人数748(男413・女335)、馬210。神社は伊勢社・伊豆権現社・稲荷社・山神社、寺院は曹洞宗宝蔵山宝寿寺、他に馬頭観音・大日堂があり、修験は当山派東行院が見えます。宝寿寺は永徳寺村永徳寺末。高寒秀天和尚の永禄7年開山と伝えます。四ツ柱屋敷の四ツ柱跡は大蛇と化した掃部長者の妻に生贄をささげた棚の跡と伝えます。生贄となったのは肥前国松浦から買い取られてきた佐夜姫といいます。宝寿寺境内の小川には、佐夜姫が身を潔めて垢を取ったという赤(垢)取石があり、小川も赤(垢)川と称されます。江戸初期には隠れ切支丹も多く、寛永16年平右衛門・半左衛門は塩釜村清左衛門・相去村次右衛門らとともに転宗しましたが、同17年には五郎作とその娘、喜右衛門と息子3人、弥右衛門の7名が処刑されました。明治元年沼田藩取締、以後前橋藩取締、胆沢県、一関県、水沢県、磐井県を経て、同9年岩手県所属。明治3年村内の30人程が一揆を起こしており、下幅村境まで押し寄せましたが首謀者2名が逮捕されて鎮圧されました。同9年都鳥小学校が開校。同10年の生徒数は男子30。同13年の幅員は東西約34町・南北約24町、税地は田233町余・畑80町余・宅地18町余・荒地4町余の計336町余、戸数133(うち農業130)・人口943(男498・女445)、馬211、都鳥学校の生徒数58(男45・女13)、物産は米・大麦・小麦・大豆・小豆。同22年南都田村の大字となります。明治22年の戸数128・人口1,003。大正12年都鳥自警団設立。昭和28年南都田村役場が南下幅から移転。同30年胆沢村南都田となります。


柏原眠雨(本名啓一)句碑(平成19年10月25日建立)

裏面プロフィール。

第20回胆沢町民劇場「小夜姫伝説」…『記念すべき第20回は、第4回にも上演され、町劇史上最高の観客を動員した「小夜姫物語」を新たに「小夜姫伝説」と題し舞台を完成させました。小夜姫が人身御供となり、大蛇から胆沢の地を救ったという涙無くしては語れない物語が。ここ、角塚古墳は小夜姫が討伐した大蛇の角が埋められたと言い伝えられている場所です。小夜姫が見守っているこの地には、再び大蛇が現れることなく、大きな災いもなく皆さん過ごせるのでしょうね。』※「こぼれ話」以下省略

大蛇の角。このシンボルは下記の伝説からイメージして、有田焼で創作されたもの。
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「里を救った如来さま」いさわの伝説から…『「むかし、むかーし、あったどさ。高山掃部というそれはそれはたいそうな長者さまがあったんたと。なにしろ、倉の数なら48もあり、使用人も365人いたというから、とてつもなく大きな長者さまだったと。ところが、この長者の奥様がえらい欲ばりな人で、使用人たちを長い柱の枕に寝かせ、夜が明けるか明けないうちに柱をたたいて起こし、朝から晩まで働かせたんだと。ある年のこと、天気が悪く米がとれず、腹がへって死ぬ人さえ出たときに、人のいい長者さまが倉の中から米を出して困った人たちを助けたら「あんだ、なんともったいないことを」と奥様は、かんかんにおこったそうだ。あまりわめいたものだからのどが乾いた奥様は井戸に行って水を飲んだ。ところが、井戸の水に写った顔は、口は耳まで裂けて頭には角が生えた大蛇の姿になっていたんだとさ。もう、狂った奥様は屋敷に火をつけ、向かいの止々井沼にザンブと入ってしまったそうだ。それからというもの、この大蛇はときどき人里に現れては馬や若い娘をさらっていくようになり、里人たちは恐ろしくて夜もろくろく眠れなくなってしまったんたと。そしてついに大蛇は「牛や馬、娘をさらわれたくなかったら、毎年8月15日の夜に、15歳になる娘を差し出せ」と言ったそうだ。そこで里の人たちは松浦の国から小夜という若い娘を買ってきて、生けにえに差し出すことにしたんだと。さあ、いよいよ8月15日の夜、止々井沼のそばには四本の柱を立ててやぐらを作り、娘を差し出す準備がすっかりできた。小夜姫は、化粧坂のわき水で身仕度を整えたが、そのとき肌身離さず持っていた金色の如来様を髪の中に入れたんだと。身仕度をした小夜姫はやぐらの上に座り、大蛇が現われるのを待ったどさ。そのとき、急に稲妻とともに雨風が吹きまくり、みるみるうちに大蛇が現われた。小夜姫は恐ろしさにも負けず一心にお経を読み、経文を大蛇に投げつけると大蛇の角はバラバラと落ち、大蛇は元の長者の奥様に戻ったんだと。大蛇を退治した小夜姫は生まれ故郷の松浦の国へ帰っていったが、そのとき持ってきた化粧したときのわき水を目の見えないお母さんの目につけると不思議なことに、お母さんの目がパアッと開いたとさ。小夜姫が持ってきた如来さまのおかげでこの里は救われたんだとさ。どんど、はらい」小夜姫にまつわる地名は今も町内にたくさん残っています。その代表的なのが化粧坂で、今も小夜姫が持ってきたと伝えられる高さ5cmの小さな如来さまが薬師堂にまつられています。そのほか、体を清めたところが垢川、生け贄えのやぐらを組んだところが四ツ柱、国指定の角塚古墳は大蛇の角を埋めたところという伝説も残っています。』

国指定史跡角塚古墳(平成4年3月奥州市教育委員会)…『【一、所在地】岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田【二、国指定年月日】昭和60年3月22日【三、概要】角塚古墳(通称塚の山)は、墳丘部の発掘調査が行われていないため、内部構造は不明ですが、昭和49年・50年の範囲確認調査により日本最北の周湟(水堀)・葺石・円筒埴輪・形象埴輪(人物・動物・家型など)をともなう前方後円墳であることが確認されました。主軸の長さは、43~45m。後円部は直径約28m、高さが約4m。前方部は、北側幅10m、南側幅15m。高さは1.5m前後とされています。この角塚古墳は、5世紀~6世紀初めの築造と推定されこの地域に形成された農耕社会とそこでの政治的諸関係を示すもので、東北地方における古墳時代を解明する上で重要な、前方後円墳としては、岩手県唯一の古墳です。【四、注意事項】許可を受けないで、古墳を掘ったり、木を切ったりして指定範囲の現状を変更するようなことがあれば罰せられます。』

角塚古墳公園ご案内…『角塚古墳は円墳と方墳が合体して型づくられた前方後円墳です。墳丘上に一本の杉が樹立することなどから「蛇塚」や「一本杉」の愛称でも親しまれています。古墳は岩手県内でも最大最古に位置づくもので、周湟や埴輪、葺石を伴う日本最北の古墳として昭和60年、国の指定史跡となっています。この公園は、角塚古墳をイメージして設計され、胆沢の文化の発祥を伝え、未来への遺産として後世へ残す意味で整備したものです。胆沢町の玄関口としてまた、町内の観光の起点ともなっております。胆沢町』

ここまでは角塚古墳公園の写真です。


角塚古墳は角塚古墳公園から国道397号線を渡った先にあります。

って言っても目の前に見えてますけどね。
角塚古墳公園から見た角塚古墳。
この角度が前方後円墳感が伝わりますね。
一応順路誘導図の通りに向かってみます。
誘導図通りに来ましたが…
登っていいんですかね。
ってことで登ってみました。見下ろした角塚古墳公園。
反対側。

下から見る方がいいですね。

以下、パンフレット「国指定史跡角塚古墳」(日本最北、岩手県唯一の前方後円墳)より一部抜粋…『【国指定史跡】角塚古墳は、昭和49~50年の範囲確認調査によって、ほり(周湟)をめぐらし、円筒埴輪と形象埴輪を飾り、葺石を並べた典型的な前方後円墳だとわかりました。作られた年代は5世紀の後半です。岩手県では唯一、そして本州最北端の前方後円墳として、昭和60年3月に国指定史跡となりました。現在の状態で全長43m、墳丘の高さ4.3mです。国道397号と農業用水路が古墳の北端を、畦畔が古墳の南端をけずっています。古墳で行われた儀式は、亡くなった前王の葬送儀礼と新王の即位式だったと考えられています。円筒埴輪の列は墳丘を外部から守る壁であり、形象埴輪は即位式のためのもので、一つ一つの形に意味があったと考えられています。なお、平成10年7月に開催された「角塚古墳シンポジウム」において、過去の発掘調査で見つかり、正体のわからなかった埴輪の一群が、裸馬を模したものであることがわかりました。これは、早稲田大学文化財整理室(当時)の井上裕一氏に観察していただいた結果わかったもので、5世紀の第3四半期(450~475年)頃に作られたものであるとの指摘を受けました。このことから、角塚古墳が作られた年代が一層絞り込まれることとなりました。【古墳と古墳時代】【角塚古墳は誰の墓か】角塚古墳に埋葬された王が誰なのかは、わかっていません。この胆沢扇状地で誕生した地元出身の王なのか。それとも別の土地からやってきてこの地を支配した王なのか。いずれにしても、この地域に、古墳を作らせるほどの権力者がいたことは確かです。それを裏付けるように、角塚古墳にほど近い水沢中半入遺跡から、古墳時代の大規模な集落が見つかっています。出土遺物には、大阪府陶邑産の須恵器や宮城県産の黒曜石、コハクやガラスでできた玉類、馬の歯など、遠方からの交易を示す品々が大量に含まれています。これらの出土遺物から中半入遺跡は、南北の物流拠点だったのではないかと考えられます。角塚古墳に埋葬されているのは、このような物資の流通を握って力を蓄えた王だったのかもしれません。最近、古墳の形、埴輪の形や作り方の研究などにより、角塚古墳は宮城県仙台地域と非常に密接な関係があることがわかってきました。【角塚古墳以後】7世紀になると、北上川中流域を始めとする県内各地に集落が急増します。これらの集落は稲作を中心とした集落であると考えられていますが、その一方で、北海道の続縄文文化の影響が認められる遺物も見つかっています。古墳文化を受け入れつつ、北海道の文化とも係わりを持ちながら生活していた様子がうかがえます。この後まもなく、文献上に「エミシ」が登場し始めます。角塚古墳そして胆沢扇状地の古墳時代の謎は、これらのことを念頭に置かないと解けそうもありません。【埴輪】角塚古墳から見つかっている埴輪は、大半が円筒埴輪の破片ですが、そのほかに、朝顔形埴輪、形象埴輪(写真のほかに猪、馬などの動物埴輪、人物埴輪、家形埴輪など)の破片もあることがわかっています。』













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