三戸郡南部町玉掛前田44。

社号標。

石殿。何かは不明。

立派な五重塔(明治庚戌(1910)辛亥(1911)生一同。沢口嘉一郎、西舘十次郎、佐々木万次郎、中野兼吉、久保田重蔵、佐々木要一郎、中野弥十郎、井上ミネ、沢田きく)

玉掛についてです。かつては玉懸とも書きました。馬淵川左岸の河岸段丘に位置。馬淵川が東南端を蛇行して東流。地名の由来ですが、馬淵川の水中に珠掛台があり、巫女が念珠を肩に掛けたように玉石が連なっていたからと伝えます。江戸期以降の玉懸村は三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属します。村高は「邦内郷村志」では85石余(うち給地77石余)、「天保8年御蔵給所書上帳」85石余(御蔵高7石余・給所高77石余)、「旧高旧領」では玉掛村と見え97石余。なお「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず、「仮名付帳」には三戸村の枝村として記されています。「邦内郷村志」では家数39、馬数27。天和2年の「惣御代官所中高村付」によりますと高57石余。7か年の平均年貢率は2割9分余。慶安元年8月22日付の「雑書」では「三戸海内餌留之下ヨリ相内境迄、堀居くり役壱歩判壱両一歩、玉懸新鮭留餌運上金三歩ニ遣ス」と見えます。集落の中央に玉懸神社があり、御祭神は伊邪那岐神といいます。明治元年弘前藩取締、以後黒羽藩取締、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、同4年青森県所属。明治初年の家数58。地味は中の中。明治22年の「共武政表」によりますと戸数67・人口355(男186・女169)、牛6、馬75。物産は米・麦・雑穀・麻糸・鳥類。同22年平良崎村の大字となります。
石灯籠一対。


手水石。


社殿。

横から。
石灯籠一対。


狛犬一対。


台座には「九州廻り伊勢神宮参拝記念、昭和18年2月、参拝者氏名西舘弥之助、佐々木喜松、中野権次郎、中野久三郎、中野悌吉、西舘夛七郎」とありました。

御祭神は伊邪那岐大神、外二柱。例祭日9月1日。境内地40坪、本殿8坪。

創建その他不明。部落開発の祖神として古来より尊信篤いといいます。

本殿。




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