三戸郡五戸町神明後。神社参道入口は五戸町愛宕丁側(西)と新町側(北)にあります。※社号標紀年銘は平成4年9月1日。

南方(社殿後方)には気比神社も鎮座しており、そちら側からも来ることはできます。


階段を上り切ると狛犬が出迎えてくれました。
狛犬一対。
紀年銘は嘉永7年9月吉日。
参道を振り返るの図。
神社前はまるで公園か運動場のように広かったです。

戦前はケヤキの大木が繁って薄暗い場所だったそうです。
社殿は一段高い所にあり、五戸三社大祭の時は神輿の休み場所にもなっています。
石灯籠一対(昭和6年9月11日)。


手水石。

狛犬一対(嘉永7年9月吉日)。
大永年中の創立で天照皇大神を祀ります。大祭は9月11日~12日。社領200石。別当は修験宗護院宮正院家若王子殿配下にして、旭円南光寺慈正院。正徳5年6月に炎上し、享保3年7月に氏子及び信徒総代三浦喜八郎らの寄付により再建されるも、明治17年に再度類焼。維新の始め、神社改正に際し、新井田登貴之は明治6年4月、三戸郡大八大区、村社神明宮祠掌となり、天満宮祠掌を兼ねました。神社の土地は木村氏のもので寛政6年9月に寄付。また、境内には新井田家の墓地と別当新井田登の記念碑が建立されています。その奥には愛宕神社も残されています(※愛宕神社は不明)。

御祭神は天照皇大御神。例祭日9月11日。旧社格村社。境内1224.5坪。本殿1坪、幣殿6坪、拝殿15坪、参集殿5坪。
青森県神社庁より…『宝永2年(1705)9月11日当地の豪士開拓者、木村與市氏が社殿を建立したといわれる。正徳5年(1715)6月の五戸町大火の際類焼。享保3年(1718)9月11日、氏子三浦喜八郎氏の盡力によって氏子からの寄附金により再建されたが、再度明治17年12月9日の五戸大火により類焼した。明治41年9月11日再々建立し今日に至る。南部藩より社領二石を賜はって居る。大正4年7月13日幣帛供進神社として指定を受け、昭和24年9月30日国有境内地1224.5坪を神社社有地として譲与許可され現在に至る。』

『水神竜神 十和田信仰』によりますと「五戸町の神明宮の相殿の大沼神は竜神を祭神とする。」とあります。上市川赤川々原など神明宮は他にもあるのでよくわかりませんが。

拝殿向拝神額「大神宮」。


青面金剛(享保12年)


新井田登記念碑(大正12年8月18日門人建之・発起人:岩部丹治、藤田寛平、浦山太郎兵衛、高橋謙吉、遠藤定治。従四位勲三等文學博士松井簡治篆額・東京篁園石崎政氿撰※裏面門人名省略)。

逆光で良く見えませんでした。ほんの一部しか見ていませんが『天何言哉四時行焉百物生焉我聞其語而其人則於新井田先生…天保三年十二月二十日生於陸奥三戸郡五戸街父新井田堯知君開家塾…菊池太仲板垣政純等學漢籍安政六年出東都就山内香雪僧…明治六年四月為神明宮兼天満宮白髭神社祠掌以教導職…講義七月為五戸小學校教員九月…八戸神道事務分局…』などと見えました。興味のある方はライトを持って行きましょう。




新井田家代々之奥津城(新井田登之墓)。


これによりますと「初代円智房 慶長十七年神明宮ヲ勧請シ別當タリ正徳年間當村大火ニテ代々書類悉ク焼失ノタメ十世迄不詳」とありますね。初代、十世~十九世まで事細かく彫られていました。

忠魂碑。

殉難碑。国策の満蒙開拓政策で、旧満州の黒河省遜克県双河鎮地区に五戸郷開拓団203人が入植したのは昭和18年。同町の農家の二、三男が中心となり渡りました。渡満後は五戸郷、尾上、青森の三団が統合。入植地は川のそばにある平坦地で、春から秋にかけては野の花も咲き、満州としては比較的恵まれた場所でした。団員たちはやがて楽土になると思っていましたが、太平洋戦争も終局に向っており、入植間もない団員は現地召集を受けて前線に向かい、開拓は老人や婦女子が中心に細々と行われる状態でした。20年8月6日に日ソ開戦。川の向こうからソ連軍が怒涛のように進撃してきました。その日はバケツをひっくり返したような豪雨があり、一帯は大洪水で、開拓地の老人や婦女子の故国への脱出の旅はその大水の中で胸まで泥に浸かりながら始まりました。北安まで1200km、その行進に参加したのは740人であったといいます。当然落伍者や発病者が出て、数日後には食糧も無くなりました。時期は夏でしたが、木の皮、草の根を探して食料としなければならない状態になりました。絶望の果てに、我が子を殺め、自分も死をはかる母親も続出。旅の途中でついてこれなくなった婦女子106人を白カバ林の丘に残して旅は続きました。その後の旅も暴行と略奪の不安の中で続き、2ヶ月かかって目的地へと辿り着いたのは26人だけでした。当時の開拓団長川崎文三郎氏(五戸町切谷内)は現地召集を受けて戦後に帰国。川崎文三郎氏は白カバの丘に残してきた106人について、帰国と同時に調査を始めましたが、その後の消息は全く不明。遺族の間からはせめて殉難碑でも建立して霊を慰めようという声が出たのは戦後15年の頃で、神明宮境内に碑が完成したのは37年9月3日でした。碑に刻まれた追悼の文は箱石鶴文、中市寛司両氏によって綴られ、碑の表には幼児を抱いた母親の哀れな望郷の姿も刻まれています。

『星移り歳月流れて既に十有七年、待てども帰らず嗚呼元第十二次集団五戸郷開拓団殉難拓士今何処恐慌の嵐昭和に至り疲弊の一途を辿りつゝありし郷土の経済更生と、分村による新農村建設の世紀的要請に応じた諸士は、新天地を満州の開拓に求めたり、然り而して母町の送出を受け住みなれし故国を後に、勇躍黒河省遜克県双河鎮地区に入植せしは、実に昭和十八年五月のことなりき。孜々営々蒼茫果てなき肥沃の矌原に、潤沢の秋を祈り豊かなる収穫に拓魂を傾け、着々その成果をあげつゝありしが、大東亜の戦局愈々急を告げ、団長初め団員の応召相つぎ、留守を守るは老幼婦女子のみとなれり。偶々昭和二十年八月九日ソ聠遂に参戦しその浸入急且つ激、団は汗と勤労にて築き上げたる第二の故郷を後に北安に向け小興安嶺の嶮を越ゆるの余儀なきに至れり。青壯年は出征し、支柱を失いし老幼婦女子のみの避難撤退。着のみ着のまゝ子供をかゝえ親の手を引くもの、長途の逃避に耐え得ぬ老弱。不安困憊言語に絶す。或は馬の背も沒する泥濘地帯に、或は晝尚暗き前人未踏の密林地帯に踏み迷い、食うに食なく、飲むに水なし。心無き幼児の飢渇を訴うるいじらしさ。飢渇疲労等困難の連続。土匪暴民の襲撃と掠奪は残忍無惨を極めたり。流々転々ただ命一つを抱える避難流浪の旅、終に救うに途なく、あどけなき子女を道連れに自決するもの、再迎を約して別るゝもの、落伍して山中に遺さるゝもの、等しく悲痛なる哀愁と郷愁を胸に秘めつゝ、異国の耾野に夏草の露と消え行きし六十有九の魂魄噫。呼べども答えず。国破れて山河あり。春花秋月諸士を偲びてうたゝ隣慕の情に堪えず。茲に碑を建て、諸士が魂魄を招き記して以て永く町史にとどめんと欲す。冀くは髣髴として来り饗けよ。』

以下は別の日に参詣した際の写真。
















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