階上町史によりますと『(前略)大化の改新後宮城県に多賀城を創建、その北方である気仙沼のあたりに階上郡を置いて軍事基地とした。現在JR気仙沼線に陸前階上の駅があり、気仙沼市には階上の地名が残っている。延暦二十一年(802)に胆沢城(岩手県水沢市佐倉河)に鎮守府が移されたが、その北東の久慈市(旧九戸郡山根村)に端神という集落、端神岳(天神森とも八神岳とも)と呼ばれる山がある。弘仁二年(811)文室綿麻呂によって閉伊(岩手県北東部)、仁佐平(岩手県北西部と青森県東南部)の平定が行われたが、その時に置かれた根拠地名「はしかみ」が三戸郡のこの周辺を代表する山であるとして階上岳(嶽)という名称が付けられて現在に至ったものと思われる。我が国上世の王朝による東北地方の征夷、開拓は弘仁四年(813)の頃をもって終ったことになっているが、八戸市や三戸郡、下北郡にまでも「階上郡」の存在を示す歴史資料のあることから、これらの地方に階上郡の置かれたことが考えられるのである。(後略)』とあります。今回紹介する階上岳は青森県階上町と岩手県洋野町の境にある標高739.6mの山です。東日本大震災後、復興のシンボルとして階上海岸とともに三陸復興国立公園に指定されており、なだらかな山の形は、まるで牛が横たわっているようにも見えることから臥牛山の愛称で親しまれています。階上岳は階上村の南境を西端から東北にむかい、頂上付近を過ぎたあたりで東西の方向に進んでいます。全山花崗岩であり、花崗岩の分解によって厚い地被が生じて牛が臥しているような円滑な形状を呈しています。山頂は平坦な地形をなし、かつては久慈平岳の平頂峰と相連続した隆起準平原であったことが観察されます。北部北上高原には700m級の平頂峰が多く、折爪岳(852m)、傾城峠(735.9m)、就志森(768.9m)があり、これが北上高原の準平原面の高さではないかと考えられます。階上岳の隆起の量は不均衡であり、頂上において740.1m、大開において640m、石ノ倉において520m、石ノ倉の東方において565m、寺下において451mを示し海岸の方に漸次傾いています。山頂付近の平坦面が階上岳の特徴であり、付近において円礫が採集されることから、この辺りも地質時代には海面まで削剥され、その時に生じた準平原面が今の平坦面です。山腹には浅い谷があり、開折はあまり進まず原表面は厚く土壌に覆われています。水量は少なくて空谷が多いです。



ちなみに写真は臥牛の塔のはす向かい、登山道入口付近にある「フォレストピアはしかみ」横のケヤキ並木。

登山口のケヤキ並木…『「ケヤキ」は階上町の町の木に指定されています。』

登山道にある大山津見神社や行者の滝も行きたかったのですがスルーします。今後も参詣する機会が無さそうなのでしっかりと紹介だけはさせて頂きます。

つくし森の大山津見神社の写真(パンフレットより)・大山津見神社の蟇股。階上岳中腹の昔の社跡に一般村民の崇敬と愛山、愛林の崇敬精神滋養の場とし、併せて山林の無難を祈願することを目的に昭和36年11月12日再建。創建当時はつくし森から眺める下界が絶景だったそうですが、今日では雑木林が茂っており、展望台からの眺望はないそうです。


大山津見神社参道入口。階上町史(つくし森大山津見神社)より…『大山津見神社の創建の目的は、山村資源の開発と保護育成、山の神に対する崇拝の場、そして階上岳における観光施設のひとつとして、標高約425メートルのつくし森山頂に建立した。昭和36年8月20日、大山津見神社設立委員会の第一回会議が階上小学校において開かれ、つくし森の土地所有者である鳥屋部の地代所福太郎の承諾を得、建設費用の財源は、階上の森林所有者有志の寄附を仰いで建設することになった。発起人代表は柳沢熊次郎村教育長。大工棟梁は、八戸市白銀町の柳沢岩蔵で、同年10月12日に着工。11月3日に上棟式を、11月12日に竣工祭を催した。祭壇の宮形は柳沢棟梁の寄附によるもので、金銭の寄附額は正部家正ほか65名により、約62万円にものぼった。そして、神社の例大祭を、階上岳のつつじの満開時にあたる6月12日と、秋の全山紅葉時にあたる10月12日と定めた。山開きの際は、神社の境内で祭典を行っていた時期もあったが、現在は「大開」で行っている。また、12月12日も御年越祭も催したが、現在は諸事情で行っていない。間口二間半、奥行き二間の社殿は、森林に包まれ、その枝々のすき間から朱色のトタン屋根が鮮やかに映えている。社殿の向拝の下にある蟇股には、かわいらしい「眠り猫」が彫刻され、その裏側には小鳥はさえずる様子が彫られている。これは日光東照宮にあたる左甚五郎作と伝えられる眠り猫を模倣したもののようである。その題意ははっきりしないが、反対側の小鳥(雀)も猫の側でゆっくり遊べるという平和と安定を表現したものか、社殿内にネズミ一匹も通さないためのものと思われる。とにかく、ごく小さい彫刻ながら、大山津見神社社殿を代表する彫り物といえよう。このつくし森の地は、むかしむかし、八ノ太郎がモッコで盛った地であるという民話が伝えられる崇敬精神の涵養の場所でもある。また、大正の頃から、地代所賢治の祖父で地主の常吉が、岐阜県加茂郡の坂祝(さかほぎ)神社から受けたお礼を社殿裏手の洞穴に祀っていたという。堂内には昭和36年11月の大山深見神社創建の際に納められた木彫山神像が祀られ、次の3枚の棟札が納められ、由来を書き留めている。【棟札1】(表)奉勧請大山津見神社(裏)大正十二年一月二十六日願主地代所常吉【棟札2】(表)奉勧請大山津見神社 昭和丗六年十一月十二日創建 山林開発 資源保護育成 別当根岸典男 地主地代所福太郎 棟梁柳沢岩蔵(裏)大山津見神社創建の目的は山林資源の開発と保護育成神仏崇敬の念の啓培併て観光施設の整備にあり 上記の通り念願しツクシ森頂上に建立す 昭和三十六年十一月十二日 発起人寄進者代表柳澤熊次郎【棟札3】奉納内御堂一棟 施主棟梁柳沢岩蔵』※ちなみに階上町では鳥屋部の熊野堂の蟇股においても同様の眠り猫が見られます。


登山コースも多い山で色々と楽しめそうですが、実はこの日の目的は登山ではなく、町の花にもなっている山つつじの群生だったからです。山の8合目、大開平付近に群生している約2万本の山つつじです。5月下旬から6月上旬が見頃で赤い絨毯のように咲き乱れ、山頂まで山つつじが見られるそうです。そして大開平までは車で行くことが可能なのです(※大型車はふれあい牧場駐車場まで)。

ってことで車で大開平に到着。1960年代頃までは牛の放牧地として利用されており、牛が毒性のあるツツジを避けて他の植物を食べたことで、自然とツツジが育ちやすい環境に変化したそうです。
訪れたのは6月上旬ですが・・・


あぁ・・・全然咲き乱れていません・・・山なのでタイミングが難しいですね。
こういう感じを求めて来たのですが。

こればかりは致し方ないですね。私の情報不足です。

木村靄村歌碑(昭和47年10月29日建立)…「乳呑ます牛のまなこにふるさとの山はさかさまに映りてゐにけり」。木村靄村(忠蔵)は明治32年5月1日、階上村鳥屋部字田ノ上八番地に、父忠太郎、母さとの四男として生まれました。大正2年3月、階上尋常高等小学校高等科卒業、叔父亀吉家に寄寓して牧畜、農業に従事。大正9年、21歳のときに「牛を見失ひ嶮しき山をあちこちと尋ね求めて小夜更けにけり」が、朝日歌壇において「深く自然の呼吸に合したるところあるは、真摯なるひたすら心を以て事象に向ふが故なり」という島木赤彦評に感激し、生涯短歌に情熱をかたむける動機となったといわれます。大正10年11月に22歳でアララギ会に入会。「ぼろぼろになるまで妻となる君の手紙を秘めて幾度か読む」と歌っています。大正13年に結婚して昭和2年に八戸市の小中野に木村書店を創業。その後、島木赤彦逝去のあと斎藤茂吉の門下となり、歌の道一筋に生涯を貫きました。昭和30年10月20日、母校の階上小学校創立80周年記念に校歌を作詞、昭和33年には八戸市文化協会会長に就任、昭和37年青森県文化賞受賞。昭和41年2月25日に東京において67歳の生涯を閉じました。なお、中央公民館の座敷に「一つ石に川の流れの音をきくからまる思ひに眠られざりき」の軸が保存されています。※今回は紹介しませんが、階上岳の中腹、石ノ倉に法師浜桜白氏の句碑「冬銀河ふるさとの山は火を噴かず」もあります。こちらは昭和46年5月30日に臥牛会が建立。中央公民館には「冬銀河ふるさとの山を臥牛といふ」の句の軸が保存されています。

裏面碑文…『歌人木村靄村は明治三十二年階上村鳥屋部に生る。八戸市に於て木村書店を創業し、かたはら短歌に心を寄せアララギに入会。島木赤彦、斎藤茂吉に師事。歌道に精進すること四十余年。誠実素朴の歌風は世の知る䖏となり昭和三十七年青森県文化賞を受け更に独自の境地を深めつつありしか昭和四十一年二月長逝す。茲に有志相謀り生誕の地而も詩心諷詠の源泉たりし階上岳に歌碑を建立し永くその華香を伝へんとするものなり。昭和四十七年十月靄村の歌碑を建てる会会長藤井負藏、協賛、八戸市文化協会、青森県歌人懇話会、八戸アララギ会、暁星短歌会、臥牛会、階上村。八戸市番地石材製作』

階上岳大開平…『標高740mの階上岳は、海岸から一段高い台地の上になだらかな稜線が盛り上がった丘陵状の山で、その形が牛が寝そべっているように見えることから、別名「臥牛山(がぎゅうさん)」と呼ばれています。頂上まで複数の登山道が整備されており、東側に太平洋、北側は八戸市街地、南側には北上山脈の景色を眺める事が出来ます。大開平付近には約2万本のヤマツツジが群生し、見頃を迎える5月下旬から6月中旬は辺りが朱色に染まります。』・『Mt.Hashikamidake is a hilly mountain rising on a plateau above the coast,with an elevation of 739.6meters.Its shape resembles a cow lying down,so it is known as Gagyuzan,or"Bull Mountain".There are several trails leading to the summit,where you can see the Pacific Ocean to the east,Hachinohe City to the north,and the Kitakami Mountain Range to the south.Approximately 20,000 mountain azaleas are clustered in the vicinity of Obirakitai.The best time to visit is between late May and mid June,when the flowers are in full blooms,dyeing the area vermillion.』
八甲田山、蕪島、種差天然芝生地が見えるようです・・・がっ!見えませんでした。
さて、どうしましょう・・・30分程度で山頂まで行けるようです・・・

せっかくなので行きましょうか!山頂はこうなってるかも知れないし!!

ってことで、『階上嶽大明神』に続く。



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